:横浜入団:
95年にヤンキースからドラフト18順目指名を受けて入団。98年に新球団ダイヤモンドバックスに移籍し、02年にAAAで15勝7敗、防御率3.47を記録。翌03年の3月31日にMLBデビューを果たすと同年に50試合に登板して8勝1敗、防御率4.05という好成績を残した。07年にはAAAで31試合に登板し防御率1.90、08年も46試合で防御率2.32という成績を残して、翌09年のシーズン途中に横浜に移籍した。
:奪三振と四球と強打:
MLBとマイナーで1308.2投球回を投げて1340奪三振を奪う一方で、938四球という壊滅的な記録も残している。またマイナー通算打率が3割を超えるという強打を持ち合わせている。なお沖縄県出身。
:初打席初本塁打:
8月16日の広島戦で来日初先発。2回表に栗原のソロで1点を失ったが、その裏に回ってきた来日初打席でバックスクリーン左に同点ソロを放って見せた。初打席初本塁打は史上50人目で球団史上では67年のスチュアート以来二人目、投手としては史上7人目の快挙だった。投げても7回途中まで6四死球を出しながら、4安打、12奪三振、リリーフが打たれて初勝利こそ逃したが衝撃のデビュー戦となった
:リリーフで15奪三振:
9月5日の中日戦で先発予定だったがメンバー表の書き間違いでグリンが先発というトラブルが発生した。だがランドルフは初回の一死からグリンをリリーフすると、初回に荒木、森野から連続三振、2回表には3差者連続奪三振、3回表も2三振と凄まじいペースで奪三振を量産し、毎回の15奪三振という79年遠藤に並ぶ球団記録を達成した。リリーフ投手の15奪三振は日本記録で外国人投手としても最多記録となった。なお同日には2安打、3四球で無失点に抑えてほぼ完封という圧巻の内容だった。
:8試合でチーム2位:
シーズン終盤の来日でわずか8試合登板に留まったが、10月2日の巨人戦で3安打、6四球、8奪三振に抑え込んで初完封を達成するなど、5勝2敗で防御率1.96、イニング数を上回る59奪三振を記録した。ダントツの最下位に沈んだ同年のベイスターズにおいて5勝は三浦に次ぐチーム2位の記録だった。
:開幕投手:
10年は三浦の不調もあって球団史上初の外国人開幕投手を務めるも、2点を先制した直後の4回裏に4安打、2四球を集中されて5失点でKOされてしまった。その後は4月7日の中日戦で7回1失点も敗戦投手、4月20日の巨人戦で6回1失点で勝ち負けなし、4月27日の広島戦で7.1回を2失点で敗戦投手、5月3日の広島戦で7回2失点で敗戦投手と好投しても勝ち星が付かない試合が続いて5月17日に二軍に降格した。
:被安打1で敗戦:
6月24日に一軍に復帰すると、同日の中日戦で6回を1失点に抑えてようやく同年の初勝利を記録した。だが7月2日の広島戦で3回裏に四球から二盗、暴投、スクイズという形で1点を失うと、6回まで広島打線をノーヒットに抑えてノーヒットワンランを続けたが、同点で迎えた7回裏に一死一塁から石原にライト線に初ヒットを許すと、一塁から木村が一気にホームに還って勝ち越しを許してしまう。結局試合はそのまま敗れ、7回を1安打に抑えながら敗戦投手になった。
:退団も翌年に再入団:
その後も7月14日の広島戦で8回2失点で敗戦、7月20日の中日戦で7回無失点も勝ち負けなしと援護が全く得られず、防御率は4.25ながら2勝9敗に終わり、左肘痛などもあって同年限りで退団となった。だが翌11年に横浜に入団したリーチ投手が3月11日に発生した東日本大震災とそれに伴う福島原発事故で帰国したため、左腕投手の獲得を目指した球団が入団テストとメディカルチェックを行った上で4月25日に再入団する事になった。
:わずか2ヶ月で退団:
5月11日に就労ビザを取得すると、14日にイースタンリーグのロッテ戦に先発したが4回6安打4失点と打ち込まれてしまった。6月8日の巨人戦では3回までノーヒットに抑えたが右脚の違和感で降板してしまう。その後にリーチの再来日が決定したこともあって6月28日に入団からわずか二ヶ月間で解雇された。ランドルフは翌日のイースタンリーグのロッテ戦への登板を直訴して残留を熱望したが認められず退団となった。 |
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