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赤間 謙



49
名前 あかま けん
生年月日 1990年11月14日
経歴 東海大山形高−東海大−鷺宮製作所−オリックス(15D9位)−横浜
入団年 18年シーズン途中にオリックスから移籍
在籍年 18年シーズン途中−20年
背番号 18年シーズン途中−20年[49]
投打 右投げ右打ち
守備 投手
甲子園には届かず
福島県楢葉町で育ち小学校1年から野球を始める。中学時代には相双中央シニアに所属し、3年夏には東北大会で優勝。東海大山形では2年夏の準々決勝で先発を任されたが日大山形打線に捕まって4回KO、初回から全力投球のスタイルに限界を感じた赤間は投球スタイルの変更とスタミナ強化を行い、チェンジアップも習得、エースとなった3年春には村山地区予選の寒河江工戦でノーヒット・ノーラン、県大会準決勝の山形中央戦では4安打完封を記録した。夏には3回戦の鶴岡工戦で投げては5.1回を無失点、打ってはサヨナラ打を含む3安打を放つなど活躍を見せたが、準決勝の羽黒戦で敗れて甲子園出場はならなかった。

震災
東海大に進学すると1年春からリリーフでマウンドに上がったが、1学年上に大エース菅野がいたため登板機会はなかなか得られなかった。11年3月11日には東日本大震災で実家が半壊、赤間は沖縄での合宿中だったが実家が福島第1原発から20キロ圏内にあったため帰郷することも叶わず、楢葉町が警戒区域に指定されたため父は仕事の関係でいわき市の仮設住宅、母は親戚を頼って千葉に移り住むなど家族が離れ離れになった。赤間は「野球を続けていいのか」と悩み、家業の左官屋を継ぐことも考えたが、父から「継がんでいい」と言われ「自分には野球しかない」と決意を固めた。

野川の故障で回ってきたチャンスを掴む
12年3月11日に沖縄で開催された東日本大震災復興チャリティー試合では菅野から受け継いだ背番号18を背負って沖縄大学選抜を相手に4イニングを無安打無四球に抑え込んだ。社会人の鷺宮製作所に進むと1年目は絶不調で一時はプロ入りをあきらめかけたが、2年目にはJABA静岡大会の決勝戦で先発だった野川 拓斗のアクシデントで緊急登板となった2回から好投を続けて日本選手権出場に貢献を果たすなど、同大会のMVPに選出された。また補強選手として都市対抗野球にも出場し、日本選手権でも登板した。

オリックス入団
15年のドラフト会議でオリックスから9位指名を受けて入団。楢葉町初のプロ野球選手となった赤間は避難指示が解除された楢葉町を12月に訪れたが、実家は解体中で、中学への通学路は人通りがなかった。赤間は「どれだけのことができるか分からない。勝つことで勇気や力を与えられたら」とグラブに「2011.3.11」と刺しゅうを入れ、翌年には阪神大震災が発生した1月17日に神戸市で黙とうし「野球ができることが当たり前と思ってはいけない」との思いを強くした。

初登板
ルーキーイヤーは紅白戦やオープン戦で好投を重ねて開幕一軍に残り、西武との開幕第2戦で先発の近藤大が肩の違和感を訴えたため4回裏から緊急登板でプロ初登板、試合は5対1とリードしており初登板初勝利のチャンスだったが、炭谷にライト前、外崎に四球、秋山にツーベース、栗山に死球、メヒア犠飛を挟んで、中村は三振切って取ったが、浅村四球で満塁から坂田に押し出し四球、山川はショートゴロに打ち取ったが西野のエラーで同点に追いつかれてイニングを投げ切ることなく降板となってしまった。続く日本ハム戦でも0.1回2安打、2四球で4失点(自責3)で登録抹消となった。

10試合連続自責点0
防御率54.00という厳しい船出となったが、降格後はウエスタン・リーグで14試合に登板して防御率3.15という成績を残し、5月の再昇格時には登板がないまま抹消となったが、6月19日の昇格後はロングリリーフなどで好投を続けて10試合にまたがって16.1イニング連続自責点0を記録。9月1日のロッテ戦では4イニングを1安打、1四球に抑えて、12日の楽天戦では初先発のチャンスを貰ったが初回に4安打、2四球で4失点と試合を作れず1回KOとなってしまった。それでも24試合の登板で防御率3.09というドラフト9位としては上々の初年度となった。

初勝利
17年には開幕1軍には残ったが登板機会がないまま抹消となった。だが5月6日に昇格を果たすと翌7日の日本ハム戦で3対3で迎えた11回表からマウンドに上がって2イニングを無失点に抑えると、12回裏に打線が一死満塁のチャンスを作り、駿太のライト前ヒットでサヨナラ勝利、勝利球は行方不明となったが赤間に嬉しい初勝利が記録された。だが続く11日のソフトバンク戦ではデスパイエ、松田に被弾するなど5安打を集中されてイニング5失点、翌日の西武戦でも3失点と打ち込まれる試合が重なって同年は7試合登板に留まった。翌18年は開幕一軍を逃し、7月9日に伊藤光と共に高城白崎とのトレードで横浜に移籍した。

移籍後初登板
移籍初年度はイースタンリーグで12試合に登板して防御率1.27を記録したが、15.2回で11四球という制球難もあって一軍昇格はならなかった。19年は5月5日に1軍へ昇格すると、翌日の巨人戦で移籍後初登板、敗戦処理ながら3イニングをパーフェクトに抑える好リリーフを見せた。続く登板では1回1安打ながら犠飛で1点を失うと以後のチャンスはなく抹消となった。6月12日に再昇格を果たすと翌日のロッテ戦で2.1回を無失点に抑え、19日の日本ハム戦では中盤のピンチを無失点で抑えて勝利に貢献したが、翌日の日本ハム戦では太田のツーランなどで3失点を喫するなど好投を続けることができず、わずか7登板に留まった。

引退
オフに右足関節のクリーニング手術を受けて臨んだ20年シーズンはイースタンリーグでは33試合に登板して防御率3.83を記録したが一軍昇格は果たせず、戦力外通告を受けて同年限りで現役引退となった。


初記録
初登板 2016年3月26日西武戦
初勝利 2017年5月7日日本ハム戦
初奪三振 2016年3月26日西武戦:中村から
初完投
初セーブ


  投球成績
チーム 登板 完投 完封 勝利 敗戦 S 回数 安打 本塁 四球 死球 三振 暴投 ボーク 失点 自責 防御率
16 オリックス 24 0 0 0 1 0 35.0 26 2 24 1 19 1 0 17 12 3.09
17 オリックス 7 0 0 1 0 0 11.1 18 2 1 0 4 1 0 9 9 7.15
19 横浜 7 0 0 0 0 0 9.2 7 2 3 0 5 1 0 6 6 5.59
球団 1年 7 0 0 0 0 0 9.2 7 2 3 0 5 1 0 6 6 5.59
通算 3年 38 0 0 1 1 0 56.0 51 6 28 1 28 3 0 32 27 4.34


  打撃成績
チーム 試合 打数 得点 安打 二塁 三塁 本塁 塁打 打点 盗塁 盗刺 犠打 犠飛 四球 死球 三振 併殺 失策 打率
16 オリックス 24 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 1 .000
17 オリックス 7 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 .000
19 横浜 7 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 .000
球団 1年 7 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 .000
通算 3年 38 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 1 .000


  二軍投球成績
チーム 登板 完投 勝利 敗戦 S 回数 安打 本塁 四死 三振 失点 自責 防御率
16 オリックス 14 0 0 0 1 20.0 18 1 6 15 7 7 3.15
17 オリックス 19 0 0 0 0 18.0 23 3 7 10 11 10 5.00
18 オリックス 13 0 1 0 0 13.2 11 0 7 9 8 7 4.61
18 横浜 12 0 0 0 0 15.2 8 0 12 10 6 3 1.72
19 横浜 38 0 1 0 2 40.1 32 0 14 37 9 7 1.56
20 横浜 33 0 4 0 0 42.1 44 4 16 45 21 18 3.83
通算 5年 129 0 6 0 3 150.0 136 8 62 126 62 52 3.12