青柳 昴樹
57
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名前 |
あおやぎ こうき |
生年月日 |
1997年5月19日 |
経歴 |
大阪桐蔭高−横浜 (15年D6位) |
入団年 |
15年ドラフト6位 |
在籍年 |
16年−19年 |
背番号 |
16年−19年[57] |
投打 |
右投げ右打ち |
守備 |
外野手 |
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|
:大阪桐蔭:
小学校1年時からソフトボールを始める。3年時には校庭のブランコの支柱をよじ登ろうとして転落し10針を縫うケガを負うなど、わんぱくな少年時代を過ごした。中学時代には忠岡ヤングでピッチャー兼ショートとして活躍、大阪桐蔭に進学すると外野手に転向して1年秋からベンチ入り。
:全国制覇も:
名将西谷監督が「平田や浅村より上」と語る抜群の身体能力を評価されて2年夏に故障したレギュラーに代わって府大会4回戦に出場、同試合で本塁打を含む3安打を放ってチャンスを掴んだ。甲子園大会では3回戦の八頭戦で3安打を放ち、準決勝の敦賀気比戦ではボテボテの内野ゴロでヘッドスライディングを見せて送球エラーを誘う気迫を見せたが準決勝、決勝ではノーヒットに終わるなど全国制覇を成し遂げたチームにあって19打数3安打に留まった
:不振:
2年秋にはPL学園との府大会決勝でサイクルヒットを超える本塁打、三塁打、二塁打2本という大活躍で5打点も記録。だが4番を任された春の選抜ではチームは準決勝まで駒を進めたが青柳は13打数1安打で打率.077という大不振に陥った。その後も状態が上向くことはなく、3年夏は8番まで打順を落として事実上の決勝戦と言われた1回戦の履正社戦では2四球を選んだが、県大会では13打数2安打と不振脱出のきっかけは掴めなかった。青柳はプロからの指名は難しいと考えていたが横浜から6位指名を受けて入団した。
:1軍出場ならず:
ルーキーイヤーはイースタンリーグで118試合に出場したが339打数で104三振とプロの壁にぶち当たった。2年目は打率.187、3年目は打率.213、4年目は打率.153と飛躍のきっかけをつかめず戦力外通告を受けた。 |
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二軍打撃成績
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チーム |
試合 |
打数 |
得点 |
安打 |
二塁 |
三塁 |
本塁 |
塁打 |
打点 |
盗塁 |
犠打 |
犠飛 |
四死 |
三振 |
併殺 |
失策 |
打率 |
|
16 |
横浜 |
118 |
339 |
23 |
62 |
7 |
0 |
4 |
81 |
28 |
4 |
10 |
3 |
18 |
104 |
6 |
4 |
.183 |
17 |
横浜 |
69 |
182 |
14 |
34 |
8 |
0 |
1 |
45 |
4 |
2 |
7 |
0 |
15 |
68 |
4 |
3 |
.187 |
18 |
横浜 |
78 |
155 |
17 |
33 |
5 |
0 |
1 |
41 |
10 |
0 |
1 |
2 |
13 |
52 |
2 |
0 |
.213 |
19 |
横浜 |
63 |
118 |
12 |
18 |
1 |
0 |
0 |
19 |
3 |
1 |
1 |
0 |
22 |
33 |
2 |
2 |
.153 |
|
通算 |
4年 |
328 |
794 |
66 |
147 |
21 |
0 |
6 |
186 |
45 |
7 |
19 |
5 |
68 |
257 |
14 |
9 |
.185 |
|
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