:横浜移籍:
シアトル生まれのマリナーズファンで、イチローが加入して116勝46敗という驚異的な勝率で地区優勝を果たした01年はまだ地元の高校生だった。翌02年にデビルレイズから27巡目指名を受けて入団。4年目にAで10勝11敗、防御率3.81。09年には初めてAAに昇格して7勝9敗、防御率4.44を記録。翌10年はA+と独立リーグでプレーして、同年のオフに横浜ベイスターズに入団した。
:急成長:
開幕は二軍で迎えるとイースタン・リーグでも得点こそ与えないものの走者を多く出し、防御率が良いわりに被安打率や四球率が悪く、守備やクイックモーションにも問題を抱えるなど今一つの内容だった。だが練習で課題を一つずつ克服していったブランドンは白井二軍監督が目を見張るほどの成長を見せて、8月22日の楽天戦では7安打、1四球で1失点完投勝利を飾って一軍昇格を果たした。
:連続無失点:
初登板となった8月27日の中日戦で1回を無失点に抑えると、そこから救援で10試合連続無失点という好投を続けた。この間に12.1回を投げて9安打、5四球とそれなりに走者は出していたが、大きな変化球などで得点は許さなかった。10月5日の巨人戦で待望の先発を任されると、4回裏の無死二塁、5回裏の無死二、三塁という大きなピンチも無失点で切り抜けるなど、6回を無失点に抑えて見事に初勝利を飾った。続く広島戦で初回に小窪にソロを打たれて連続無失点は11試合、18.2回でストップしたが成長が認められて残留を勝ち取った。
:開幕第2戦で先発も:
12年には開幕第2戦の先発を任されると5回まで1安打、1四球という素晴らしいピッチングを見せたが、2対0とリードして迎えた6回裏に一死から代打の新井良に死球をぶつけてしまうと、続く平野に四球、大和にはタイムリーを打たれてわずか2安打、2四球に抑えながら降板となり、代わった篠原も四球がらみで逆転を許してブランドンは勝利投手どころか敗戦投手になった。すると続く広島戦では5回1失点で敗戦投手、巨人戦で6.0回1失点で勝ち負けなしと白星から見放されてしまった。
:ソフトバンク戦で13イニング無失点:
その後もまずまずのピッチングを続けていたが、5月10日の巨人戦で寺内の打球を足に受けて降板となり登録抹消となった。5月31日に再登録を果たすと同日のソフトバンク戦で7回を散発の5安打、1四球で無失点に抑えたが救援陣が打ち込まれてまたも初勝利はならなかった。6月16日のソフトバンク戦で6回を2安打、2四球で無失点に抑えてようやく初勝利を記録したが、続く2試合では序盤KOが続いて登録抹消となった。
:twitter:
6月下旬に那覇で行なわれた公式戦のために沖縄入りした際にtwitterで「おきなわ あつい!」とつぶやいたのをきっかけに「まいにち ひらがな
おべんきょうしています」、「ぼくひとりで」とつぶやいて野球ファンの注目を集めた。その後も「わたしは さいぜん つくします!」、「あめ あめ あち
いけ ください!!」、「かぷちいの じかん! 」、「がりがりくんなし!これはいちばんすきです!! 」、「やまとだまし!」とほのぼのとしたひらがなのつぶやきでファンと交流を行なった。
:結果残せず:
8月に再び一軍に登録されたが8月4日の巨人戦で4回4失点、12日の中日戦で3.0回で6失点と結果が残せず登録抹消となってしまった。左腕から150キロ近いストレートを投げ、変化球も悪くなかったが、制球が安定せず、序盤に好投していても一つの四球や死球をきっかけに崩れることが多くメンタル面にも課題が残った。
:2勝目でお立ち台も…:
9月29日の巨人戦で6.1回を3失点に抑えて2勝目を記録。ハマスタで始めてのお立ち台に上がったブランドンは「ありがとぉござ、ございます。またがんばります」と応えて歓声を浴びた。その後にフェニックス・リーグ参加メンバーに名前が載って残留を勝ち取ったかと思われたが、10月6日の巨人戦で味方のエラーもあって3回3失点でKOされると戦力外通告を受けて退団となった。ブランドンは「みなさん、こんしゅうちゅう、あめりかにかえることとなりました。いままでおうえんしてくれてありがとう!!みなさんにこころからかんしゃしています。またらいねんも、にほんでやきゅうをしたいです。」とつぶやいてファンの涙を誘った。
:32歳でAAA初昇格:
13年は帰国してナショナルズとマイナー契約を結んだが解雇されて、再び来日してBCリーグの信濃に入団したが1勝9敗で防御率4.73と好成績は残せなかった。オフには腕を下げた投球フォームでソフトバンクのテストを受けたが不合格、その後はシアトルのトレーニング施設ドライブラインベースボールでスライダーを直球と同じ腕の振りで投げるフォームを研究、名投手バウアーからはツーシームの投げ方を教わった。マイナーリーグや米の独立リーグでプレーしたが、16年の2月に薬物違反で80試合の出場停止処分を受けた。出場停止明けにはAAで11試合に登板して防御率4.48を記録、同年には自身初のAAAに昇格して1試合に登板した。17年はAAで46試合に登板して防御率4.40を記録した。
:イチローと対戦:
18年はテキサス・レンジャースとマイナー契約を結んでスプリングトレーニングに参加、開幕直前に行われた練習試合ではケン・グリフィーJrとともに憧れていたマリナーズのイチローと対戦、感激のあまりか147キロのツーシームが抜けてイチローの頭部に直撃、イチローは1分間倒れたまま起き上がれなかった。英雄にぶつけたショックでマウンドに倒れ込んで頭を抱えたブランドンは降板後にイチローの元に謝罪へ向かったが「全然大丈夫だよと、このことであなたの投球に影響が出るのはいやなので、内角に投げることは続けてほしいと、そんな言葉をかけてもらった。うれしかった」と感激した。
:メジャーデビュー:
34歳の誕生日を目前にした5月13日のアストロズ戦でついにMLBデビューを果たした。大量リードを許した7回一死満塁でマウンドに上がり犠牲フライこそ許したが後続を打ち取ると、8回も続投してフレグマンにヒットこそ打たれたが1.2回を無失点に抑えた。前年のオフには「辞める準備はできているのか?」と自問する事もあったというブランドンは「心の中ではメジャーで投げる力は持っていると信じていたんだ。実現するなんてクレイジーだよ」と興奮気味に語った。メジャーでは7試合に登板して防御率5.40、AAAでは36試合に登板して防御率2.41を記録した。
:ロッテ入団:
19年には1月14日に千葉ロッテ・マリーンズへの入団が発表されて7年ぶりのNPB復帰となった。日本に戻ることが夢だったというブランドンはtwitterで「ちばぉってまりねす!」とつぶやいて喜びを表現した。開幕ローテーションに残って4月3日の西武戦で2370日ぶりのNPB登板を果たしたがイニング3盗塁を許すなど課題のクイックなども突かれて2回で70球を投じて5失点KOとなり1試合で抹消となった。6月にはリリーフとして昇格し、11日の横浜戦では筒香を含む上位打線を三者凡退、翌日にも筒香から空振り三振を奪って無失点に抑えるなどまずまずのピッチングを見せたが、20日の広島戦では同点の9回裏を任されたが3四球からの会沢のポテンヒットでサヨナラ負け、8月17日のオリックス戦では投球中にひじを痛めて抹消となり、1年限りで退団となった。
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20年はレンジャーズとマイナー契約を結んだがコロナウイルスの影響でマイナーリーグが中止となったため1試合も投げずに退団となった。8月1日に台湾の楽天モンキーズに入団したが10試合の登板で防御率7.08に留まり退団となった。21年に韓国のロッテ・ジャイアンツでピッチングコーチに就任した。 |
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