:父もメジャーリーガー:
ベネズエラに生まれる。父のホセ・エスコバーは91年にクリーブランド・インディアンズで10試合に出場して3本のヒットも記録したメジャーリーガー。また親戚にはメジャーで101勝を記録したケルビン・エスコバー、2015年にロイヤルズで世界一に輝くアルシデス、2018年のナ・リーグ新人王アクーニャJr.といったスター選手を含めて16人以上がMLBとプロ契約を結んだ驚異的な野球一家で、毎年12月になると30人以上のファミリーが集まり「ロス・プリモス(従兄弟たち)」というソフトボールチームを組んで野球大会を開催している。
:先発:
08年にテキサス・レンジャースと契約、10年にトレードでジャイアンツに移籍し、12年にはAで先発として22試合に登板して7勝8敗、防御率2.96を記録した。翌13年にはシーズン後半からAAに昇格し5勝4敗で防御率2.67という好成績を残した。
:MLBデビュー:
14年にはAAAで20試合に登板して3勝8敗、防御率5.11を記録し、7月26日にジェイク・ピービーとのトレードでヒース・ヘンブリーと共にレッドソックスに移籍。8月10日にはMLB初昇格を果たしたが登板機会はないまま翌日にマイナー降格となった。だが27日に再び昇格を果たすと同日のブルージェイス戦の8回裏に初登板、エンカーナシオンをライトフライに打ち取るなど三者凡退でMLBデビューを飾った。翌日に再び降格となったがシーズン最終盤に復帰して9月24日のレイズ戦で1回1失点を記録した。
:リリーフとして活躍:
飛躍が期待された15年はAAAで19試合に登板して防御率5.07に留まり戦力外通告を受けた。翌16年はダイヤモンドバックスに入団して5月30日にMLBへ昇格、同日のアストロズ戦でMLB初先発、初回のピンチこそ無失点で切り抜けたが2回表に4本のタイムリーを浴びると、3回表、4回表と失点を重ねて3.1回で被安打10、3四死球、8失点という厳しい結果に終わった。続く7月4日のカブス戦も3.2回4失点でKOとなりマイナー降格となった。8月からはリリーフとしてMLBに昇格、8月26日のレッズ戦で3対3の同点で迎えた11回表に登板して無失点に抑えると、その裏にサヨナラ暴投でレッドソックスが勝利してエスコバーにMLB初勝利が記録された。その後もリリーフでは好投を続けてリリーフとして登板した23試合は防御率4.32という好成績を残した。
:日本ハム入団:
17年に24歳という若さで日本ハムと契約。年俸9000万円+出来高という高い期待をかけられて開幕第3戦の西武戦で初登板初先発、2回表の無死一、三塁を幸運な併殺で切り抜けるなど序盤は無失点に抑えたが4回表にメヒアのタイムリーで先取点を奪われると、同点で迎えた5回表に四球と田中のエラーで一死一、三塁というピンチを背負い、田代はピッチャーゴロに打ち取ったがエスコバーのバックホームが逸れて勝ち越し点を与えてしまう。続く浅村にタイムリーを打たれて降板となり、その後は右太もも裏の張りなどもあって一か月半戦列を離れた。
:1年目のシーズン中にトレード:
5月12日にリリーフとして一軍へ昇格すると14日のロッテ戦で5回表に二死からメンドーサが危険球退場となって緊急登板、ブルペンで3球投げただけでマウンドに上がったエスコバーはいきなり柴田に死球をぶつける波乱の立ち上がりとなったが、続く鈴木をファーストゴロに打ち取って無失点に抑えると、その裏に打線が勝ち越し点をあげてエスコバーに初勝利を記録された。その後は敗戦処理に近い起用で一軍に残ったが7月3日に新外国人のドレイクが登録されたため抹消となった。チャンスは限りなく小さくなったが6日に黒羽根とのトレードで横浜に移籍、入団1年目の外国人選手がシーズン中にトレードされるのは88年のブライアント以来29年ぶりだった。
:史上初:
移籍後初登板となった7月8日の中日戦で三者凡退に抑えると、12日の広島戦では浜口の負傷で緊急登板して3イニングを無失点に抑えた。同試合では47球中45球がストレートで最速155キロという極端なパワーピッチを見せた。先発テストとなった8月6日の広島戦では序盤は奪三振ショーで無失点に抑えたが、球威が落ちた中盤に捕まって5回7失点でKOされた。23日の広島戦では1点を追う9回表にマウンドに上がって無失点に抑えると、その裏にロペスが同点弾を放って延長戦に突入、続投のエスコバーが10回表を三者凡退に抑えると、その裏に梶谷のサヨナラ打が飛び出して史上9人目で外国人投手としては初の同一シーズンに2球団勝利が記録された。
:日本シリーズ第6戦で敗戦投手も:
8月29日の中日戦では1点リードの8回裏を任されたがスライダーを打ち込まれて逆転を許し敗戦投手、9月14日の広島戦でも同点の8回裏に登板も連打でピンチを作って降板と終盤を任せるほどの結果は残せず、変化球を投げる時の極端なフォームのゆるみなど残留は微妙かと思われていたが横浜ではリリーフ登板に限ると防御率2.57を記録し、5試合に登板したCSでは4イニングで2安打1四球に抑え、ソフトバンクとの日本シリーズでも第6戦で2イニング目の11回裏に連続四球を出して敗戦投手にこそなったが、4試合の登板で4.1イニングを1失点に抑えるなどポストシーズンでは8.1イニングを1失点に抑えて残留を勝ち取った。
:月間13試合登板×2:
18年は指摘されていた直球と変化球の腕の振りの違いを修正、当初は外国人枠を争う立場だったがウィーランドとソトが故障したため開幕直後に一軍へ昇格、4月には10日の巨人戦で長野に逆転ツーラン、17日の巨人戦でも亀井に逆転ツーランを浴びて共に飯塚の勝利投手の権利を消してしまったが、その他の試合は無失点に抑えて月間13試合の登板で防御率2.53を記録、5月にも連日のようにマウンドへ上がって13試合の登板で防御率0.00を記録、19日の巨人戦では1.2回を無失点に抑えて勝利投手となりお立ち台にも上がった。
:酷使と抹消:
両リーグトップの登板数で疲労も心配されたが「毎日でも投げたい。とにかくチームに貢献したい」と投げ続け、6月2日のソフトバンク戦では連続試合無失点が18でストップしたが、9日の古巣日本ハム戦では同点で迎えた7回表の二死二塁から太田を156キロで空振り三振に抑えて2勝目を記録した。だが11日に外国人枠の関係で抹消となると以降はチーム事情から一軍と二軍を往復し、8月10日からの14日間では3試合のイニングまたぎを含む9試合に登板して抹消、9月上旬に復帰すると12日間で8試合の登板と勝ちパターンでも負けパターンでも投げ続けた。9月24日にはマジック1の広島相手に2.2回を無失点に抑えて勝利投手になるなど、53試合で防御率3.57という数字以上の貢献度を見せた。
:左腕初の160キロ:
19年も開幕当初はロングリリーフや負けパターンでも起用されたが、主力中継ぎ陣が状態を落としていたこともあって徐々にポジションを上げて、6月には16日からの8日間で6試合に登板、28日からの広島3連戦では3連投で4イニングを投げるなど月間15試合に登板して防御率1.84と好調のチームを引っ張った。6月9日の西武戦ではNPBの左腕としては初の160キロを計測、19日の日本ハム戦でも160キロを投じるなど圧巻のピッチングを続けた。7月2日の阪神戦ではイニングまたぎで打席にも入って横浜スタジアムから大歓声が上がる中でセーフティバントを見せてスリーバント失敗、ストライクカウントを間違えていたエスコバーは苦笑いを見せた。だが5連投となった翌日の阪神戦で打ち込まれると、休養目的の10日間の登録抹消となった。
:オトコハ、ダマッテ、ナゲルダケ:
8月3日の巨人戦では無死二塁のピンチで2者を断ってお立ち台に上がり「オトコハ、ダマッテ、ナゲルダケ」という名言を残した。その言葉の通りに8月には3連戦3連投を3回記録するなど15試合に登板して防御率1.65と投げまくり、28日には球団の外国人最多の63登板に到達、9月にも12.1回を自責1に抑えて21年ぶりの2位以上に貢献、同年には74試合に登板して防御率2.51、奪三振率10.51を記録した。だがCSではファーストの初戦で5点リードの7回表一死一塁から登板も内野安打とスリーランで追い上げを許すと、イニング跨ぎとなった8回表に自らの拙守もあって3点を失い大逆転負けとなってしまった。「キャリアで一番悪い試合」とショックを見せたエスコバーは続く第2戦では好救援を見せたが、第3戦では死球や暴投などで決勝点を失いCSで2敗と悔しい終幕となった。
:4か月間で56試合に登板:
20年はキャンプ中盤に右ひざを痛めて離脱したが、コロナウイルスの影響で開幕が延期した事もあって開幕に間に合うと、7月4日のヤクルト戦ではいとこのアルシデス・エスコバーと対決してライトフライに打ち取った。その後もアルシデスとは4度対決してすべて勝利した。25日の広島戦では2イニング目にエラーなどで無死満塁のピンチを背負ったがオール直球13球(全球155キロ以上)で連続三振を奪うなど無失点で切り抜けて大歓声を浴びた。7月から3か月連続で14試合以上に登板、短縮シーズンで閉幕の3週間前に家族の健康上の理由で帰国したにもかかわらずリーグ2位の56試合に登板して防御率2.33を記録する鉄腕ぶりを見せた。
:チームリーダー:
21年はコロナウイルスの影響で来日が遅れて1軍昇格はチーム22試合目の4月20日までずれ込んだ。チームはその間に3勝15敗4分でダントツの最下位に沈んで光が見えない状況となっていたが、4月28日広島戦の試合前にエスコバーが選手全員の前に歩み出て「いま、負けに慣れてしまっていて雰囲気があまりよくない。この現状を打破するために、もう一度、一人ひとりがパフォーマンスを上げよう。そして、しっかりと準備をして、目の前の戦いに全力で挑もう!」
と熱いスピーチを行いチームは13対2で大勝、この試合を転機にしてチームは状態を上げて交流戦で3位に食い込んだ。
:114試合中61試合に登板:
5月11日の巨人戦では前年までの同僚である梶谷と対戦、6球目のスライダーでピッチャーゴロに打ち取るとエスコバーは一塁へ送球せずに梶谷に近づき、手を差し出した梶谷と笑顔でタッチをかわしてハマスタが拍手に包まれた。6月13日の日本ハム戦では札幌ドームのスピードガンで163キロを計測、7月7日の広島戦では球団の外国人リリーフ投手としては史上初の250投球回を達成、チームのBクラスが決定後に7試合を残して帰国したため来日遅れと合わせて29試合に欠場しながらリーグ7位の61試合に登板、防御率は3.38に留まったが制球力を大幅に改善させて50試合以上に登板した投手ではリーグ2位のWHIP0.85という好成績を残した。また前年までのストレートとスライダーのシンプルな組み立てにツーシームを加えるスタイルへのモデルチェンジにも成功した。
:鉄腕:
22年は調整が遅れたが開幕にはしっかり間に合わせると、4月26日の巨人戦では抑えを務めてセーブを記録、お立ち台では「オトコハダマッテナゲルダケ」と3度繰り返すと、共にお立ち台に上がった牧も「男は黙って打つだけ」と応えてファンを喜ばせた。8月11日の阪神戦でも休養の山崎康に代わってセーブを記録した。8月28日に行われたヤクルトとの首位攻防戦では絶好調だった村上にインローのツーシームを驚愕の一打でライトスタンドに運ばれ、9月25日のヤクルト戦では丸山にサヨナラヒットを浴びてヤクルトが優勝決定と印象的な一打も浴びたが、4月から9月にかけて全て二桁登板を記録するなどキャリア2度目の70試合登板を達成、幼少期に母親のオネイダさんから贈られた「文句を言わずに黙って自分の仕事を全うしなさい」という言葉を体現し続けた。
:後半戦に復調:
23年は4月12日のヤクルト戦で無死満塁を零封する好救援でお立ち台に上がったが次戦から3試合連続で失点、5月5日のヤクルト戦では5点リードの8回裏に登板したがホームラン、ヒット、四球で一死も取れずに降板して抹消となった。6月16日に再昇格を果たすと19日の日本ハム戦で無死一、三塁を零封して、イニングを跨いだ9回表も三者凡退に抑える圧巻のピッチングを見せた。激しくCSを争う9月には9試合に登板して無失点、3連投となった25日の巨人戦では1点リードの7回表二死二、三塁で登板して代打ウォーカーを三球三振に切って取ってお立ち台に上がると「男は黙って投げるだけ」を4連呼してスタンドを沸かせた。
:新しいページ:
同年は40試合に登板して防御率4.55と数字を落としたが、6月の再昇格後に限れば31試合に登板して防御率1.80、25.1回を投げて被安打17、25奪三振という好成績を残した。球団から来季へのオファーも受けたが惜しまれながら退団となった。エスコバーは自身のSNSで「簡単な決断ではありませんでしたが、そのページを閉じて新しいページを始める時が来ました。横浜で経験したすべてのことに常に感謝します。さよならとありがとうを言う時間です」と旅立ちへの決意を語った。 |
|