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濵口 遥大



26
名前 はまぐち はるひろ
生年月日 1995年3月16日
経歴 三養基高-神奈川大-横浜(16年D1位)-ソフトバンク
入団年 16年ドラフト1位
在籍年 17年-24年
背番号 17年-24年[26]
投打 左投げ左打ち
守備 投手
4番手
生まれる2か月前に神戸に住んでいた家族が阪神大震災が遭って九州に移住し、佐賀県で育った。生まれた時から父が和歌山へ単身赴任していたため10歳年上の兄が父親代わりだった。小1から野球をはじめたが中学時代は2年まで試合に出られず3年時にも外野兼任の4番手投手で試合での登板はなかった。

チェンジアップ
野球をやめるつもりだった濱口は猛勉強で進学校の三養基高に入学、中学時代の主将に誘われてしぶしぶ野球部に入部するとピッチャーに専念して1年秋から公式戦に出場、練習試合で対戦した戸田 隆矢から教わり「手首をロックしながら投げる」という感覚を掴んだチェンジアップという大きな武器を身につけた。2年冬に下半身を鍛えると球速も上がり、3年春に県ベスト8まで進出、夏には2試合連続完封を記録したが、3回戦では体調を壊して完投も6失点を喫して敗れた。

神奈川へ
地元九州を離れて神奈川大学へ進学すると1日4食から5食で丼飯7~8杯をたいらげて体重を10キロ増加させた。高校時代まではチェンジアップはさほど投げていなかったが古川監督の勧めで割合を増やし、1年秋には松蔭大戦で1安打、13奪三振で完封勝利を記録するなど2勝5敗ながら防御率1.71という好成績を残してフレッシュマン賞に選出された。入学時は142キロだった球速はエースとなった2年春に毎試合のように球速を上げて最速150キロまで上昇、同春には4勝0敗、防御率2.05で最優秀投手賞に輝くなど神大のリーグ優勝に貢献した。

酷使
全日本大学野球選手権では前日の試合で7回80球を投じた状況で臨んだ慶応戦で161球を投じながら5安打、11奪三振で1失点完投勝利を達成。続く仙台大戦でも後のチームメイトの熊原に投げ勝って中1日で7回1失点(104球)、決勝の東海大には破れたものの中1日で148球の2失点完投と6日間で実に493球を投げて防御率1.13という無尽蔵のスタミナで全国大会での準優勝に大きく貢献、同年には日本代表にも選出されて国際大会で先発も経験した。

2日連続9回零封
3年春にはリーグ戦で6勝0敗、防御率0.85という圧倒的な成績を残して2度目の最優秀投手賞に選出され、全日本大学野球選手権でも2日連続で9イニングを無失点に抑えるなど21イニングを投げて防御率0.00を記録した。日本代表にも故障で辞退した今永の代替え選手として選出されたが、プロ野球2軍選抜との対戦で西武の山川に2ランを喫するなど2回で被安打7と滅多打ちにあった。

ベイスターズを抑える
ドラフトイヤーとなる16年には3月3日にベイスターズの2軍と対戦し、青柳、百瀬、乙坂から三振を奪うなど3回を無安打無失点に抑えて評価を高めた。ドラフト1位でプロに行くために圧倒的な結果を残したいと防御率0.00を目標に掲げた4年春には開幕戦の横浜国大戦では3回に左ふくらはぎをつりながら4安打、11奪三振で完封を記録するなど前半戦は26.1イニングを1失点に抑えたが、関東大戦では打ち込まれれるなど3勝4敗、防御率2.03に留まった。

ドラフト1位
中学3年の時に中学の大先輩である長野が巨人からドラフト1位指名を受けてJRの基山駅に祝福の垂れ幕が上がっているのを見てプロへの憧れを強くした濱口は3年連続で選出された日本代表のチームメイトたちから刺激を受けて食生活を改善させるなど、プロへの準備を整え、ドラフト会議で横浜か外れの外れながら1位指名を受けた。子供時代は父の影響もあって阪神ファンだったが神奈川大学に進学後は横浜スタジアムに通っていたこともあって「意中の球団」と喜びを表した。大学通算20勝16敗、防御率2.10、311奪三振。

甲子園
初登板となった4月2日のヤクルト戦では山田に逆転ツーランを被弾して5回4失点でマウンドを降りたが、続く9日の中日戦では4回裏の一死満塁を連続三振で切り抜けるなど6.1回を7安打、2四球で1失点に抑えて初勝利を記録した。なお球団の新人左腕投手が開幕3カード目までに白星を記録したのは53年の権藤、58年の鈴木に続く3人目の快挙だった。続く18日の広島戦で5回5安打5四球ながら粘って1失点に抑えると、25日にはかつて声援を送っていた阪神と甲子園球場で対戦、阪神グッズを封印し大洋の福嶋のジャンパーを着て応援に駆け付けた父の前で6回までノーヒットに抑え込むなど、6.2回を2安打、7奪三振で無失点に抑えてお立ち台に上がった。

球宴選出も
5月2日の巨人戦で不運な打球が重なった事もあって6回4失点で敗れると、そこから9日の中日戦で4回6失点、16日の広島戦では4回までノーヒットも5回裏に無死から連続四球、ヒット、犠飛、ピッチャーに四球、タイムリー、押し出し四球などで突然の5失点で3連敗。23日の中日戦でも5回途中4失点と先発の座が危うくなってきたが、5月30日の日本ハム戦で7回無失点、6月6日の楽天戦で7回1失点、14日のロッテ戦で6回途中1失点と交流戦で3連勝を記録して復調、7月3日の阪神戦も勝って前半戦でチームトップの6勝を記録して球宴にも選出されたが前半戦の最終戦で左肩に違和感を訴えて抹消となり、球宴も辞退となった。

ルーキー10勝
復帰戦となった8月13日阪神戦で6回を1失点に抑えて7勝目を記録すると、続く巨人戦は四球から崩れたが、27日のヤクルト戦では中盤まで好投を続けて8勝目、負ければ4位転落となる9月3日の巨人戦では8回2安打に抑え込み、守ってもバントで二塁を2回封殺するなど二塁ベースすら踏ませずチームの巨人戦の連敗も7でストップさせて9勝目。次戦からは3試合連続で四球から崩れたが、シーズン最終戦で7回を1失点に抑えて球団史上20年ぶりの新人10勝に到達した。なお新人左腕としては球団史上3人目の快挙となった。また同年には本拠地横浜スタジアムで5勝0敗、防御率2.19という好成績を残した。

ポストシーズンで躍動
CSでは初戦を落として迎えた広島とのファイナル第2戦で7回を2失点に抑えて流れを変えると、日本シリーズ進出決定となった第5戦では4対2で迎えた4回裏からマウンドに上がって2イニングを無失点に抑えて勝利を大きく引き寄せた。ソフトバンクとの日本シリーズでも0勝3敗と後がなくなった第4戦で登板、宝刀チェンジアップに加えてフォークも有効に使って7.1回までノーヒット・ノーランで四球も2つという圧巻のピッチングで流れを変えて名勝負となった第5戦、第6戦へ勝負を繋いだ。新人王の有力候補と言われていたが、中日・京田だけではなく、わずか221打席の出場で打率.237、7本塁打の阪神・大山に続く3位という意外な結果に終わった。

好投続けるも
18年は3月の強化試合で日本代表に選出されていたが左肩の違和感で欠場、開幕ローテからも外れると5月2日に復帰予定も雨天中止、続く8日の広島戦も雨天中止で12日のヤクルト戦でようやく初登板のマウンドに上がった。続く巨人戦は1失点も足をつって4回降板、26日のヤクルト戦では5.1回1失点も援護なく白星を逃すと、6月2日のソフトバンク戦で5回2失点、9日の日本ハム戦で5回3失点、16日のオリックス戦で7回無失点、24日の中日戦では6回無失点と試合を作り続けたが、白星が記録されず防御率2.65で0勝0敗という不運が続いた。

真夏の悪夢
真夏のデーゲームという厳しいマウンドとなった7月1日の広島戦では1対1の同点で迎えた3回表に2四死球を与えてピンチを作ると鈴木のタイムリーで勝ち越しを許し、なおも続いた二死二、三塁から申告敬遠で塁を埋めると、そこから西川に押し出し四球、曾澤にも押し出し四球、ピッチャーの岡田にも押し出し四球、田中も押し出し四球とプロ野球記録に71年ぶりに並ぶ4連続押し出し四球を記録、5連続四球もワーストタイでイニング6四球はリーグタイ記録という悪夢の一戦となった。前年は無敗だった横浜スタジアムでの初黒星となり抹消となった。

チームの勝利に貢献
7月17日のヤクルト戦で復帰したが6回3失点で敗戦投手という苦しい日々が続き、負ければ最下位転落となる25日の中日戦では毎回のようにピンチを背負いながらも気迫のピッチングで6回2失点に抑えて同年の初勝利を記録したが、続く巨人戦では6回4失点で敗れると、11日の阪神戦では2.2回4失点でKOされてベンチで涙を流した。続く広島戦でも力投が報われず敗れたが、24日のヤクルト戦で大量援護を受けて2勝目をあげると、そこからは投打がかみ合うようになり先発試合でチームが5連勝を記録した。同年の勝敗は4勝5敗に留まりチーム低迷の原因の一人としても名前が上がったが、19試合に登板して防御率3.90、先発試合のチーム勝敗は10勝8敗と決して悪くはない成績を残した。

1安打&2安打
19年は同年の初登板となった4月3日ヤクルト戦で6回を1失点に抑えると、続く10日の阪神戦では7四球と苦しみながらも1安打、9奪三振で史上5人目、セでは初となる7四球以上での完封勝利を達成した(初完投)。続く中日戦でも好投を見せたが打球を足に受けて降板して翌日に抹消となった。復帰まで一か月を要したが復帰戦となった5月19日のヤクルト戦で初回の二死から22者連続凡退に打ち取るなど2安打、3四球で再び完封勝利を記録、9回裏に先頭の西田に2安打目を打たれて江夏以来47年ぶりのシーズン2度の1安打完封こそ逃したが、平松以来球団49年ぶりの2安打以下の完封2回を達成した。

好投と乱調
素晴らしいシーズンになるかと思われたが、続く5月26日の阪神戦で3本塁打を浴びて1.2回KO、6月2日のヤクルト戦でも初回3失点KO、11日のロッテ戦では6回3失点でまとめたが抹消となった。一か月後に復帰すると直球の切れも戻り好投を続けたが、8月14日のヤクルト戦では初回の先頭打者に死球をぶつけてしまうと山田のスリーランと大引のスリーランなどで初回7失点KO、その後は股関節を痛めて離脱するなど17試合の登板で6勝5敗に留まった。10月1日の紅白戦では2回7安打と打ち込まれてCSでの登板は絶望的と思われたが、4日のブルペン投球では見違えるようなピッチングを見せてCS第2戦の先発を任されると5回2失点に抑えて勝利に貢献した。

6回
コロナウイルスの影響で開幕が遅れた20年は開幕第4戦を任されて、外れ1位の濱口にとって「すごく意識した」相手という当初の1位中日・柳と初対戦、気迫あふれるピッチングで被安打10を浴びながら8.1回を無失点に抑えて柳に投げ勝った。続く巨人戦でも白星こそ逃したが5.1回を2失点に抑えると、7月8日の広島戦では10四死球を出しながら5.1回を2失点に抑える怪投を見せ、続く中日戦でも5.1回で10人の走者を出しながら2失点、さらに29日の巨人戦では初回から四死球を連発したが4回までノーヒットで無失点に抑えるなど粘りのピッチングを続けた。だが球数がかさんで5試合連続で6回途中降板という評価の分かれる内容となった。

ローテ守り切れず
8月に入っても5日の中日戦で5回まで2安打に抑えて8奪三振を奪いながら足がつって5回で降板すると、続く阪神戦では4回表にイニング5失点を喫して降板、19日の広島戦では粘りのピッチングで5回まで無失点に抑えたが6回裏一死から堂林のソロで1点を返された所で交代を告げられてぼう然とした顔でマウンドを降りた。続く広島戦では9試合ぶりに6回を投げ抜いたが、その6回に勝ち越し点を許して敗戦と苦しい日々が続いた。9月には26日の広島戦で6回2失点に抑えるなど月間3勝を上げて、開幕からただ一人ローテーションを守り続けたが、10月3日の中日戦では1.1回8失点、続く阪神戦でも1.1回で3四死球を出して2失点降板となり抹消となった。

開幕投手
21年はキャンプ前から志願していた巨人との開幕戦を任されたが、初回に先頭の梶谷に四球を与えると、そこから四球、ヒット、ツーベース、四球、ヒットと無死からの6連続出塁で初アウトまで34球という悲劇的な立ち上がりになり、3回裏にも連続四球からのスリーランを喫して3回6失点でKOされてしまった。チームはそこから引き分けを挟んで開幕6連敗、4月2日の広島戦では6回2失点の好投を見せながらリードを許した状態でマウンドを降りると感情を抑えきれずベンチで涙を見せた。続く阪神戦では初回に押し出しを含む3四球、3回裏の攻撃では出塁して三塁まで進んだが佐野のライトフライでタッチアップを怠るなどチームの流れを潰してしまった。

交流戦
4月15日のヤクルト戦では6回4安打1四球で10奪三振を奪ったが援護なく連敗を重ねると、続く中日戦では気迫のピッチングで6回を無失点に抑えたがチームは完封負けで10連敗とどん底に沈んだ。だが29日の広島戦で6.0回を無四球に抑えると、打ってもヒットで出塁して佐野のヒットで激走してホームに還るなど投打にわたる活躍で同年の初勝利を上げた。交流戦では楽天戦で田中将と投げ合って6回を無失点、日本ハム戦では138球の力投で4安打完封に抑えるなど初見殺しの魔球チェンジアップで交流戦12球団トップの防御率0.90を記録した。だが6月に左わき腹の炎症で抹消となり、五輪明けに復帰したが状態が上がらず終盤は2軍暮らしとなった。

気合
22年はローテ6番手で開幕を迎えたが初登板となった3月31日の中日戦では力強いストレートで押して8回を6安打1四球で無失点に抑える抜群の内容を見せた。続く登板予定日にコロナウイルス陽性となり抹消となったが5月26日のソフトバンク戦で1軍復帰を果たすと、5回で7四球を出しながら1失点に抑えるらしいピッチングで勝利投手になった。7月から8月にかけては9試合に先発して5勝1敗、防御率1.67を記録、ピンチを迎えてもマウンドに来たコーチをにらむ気迫を見せるなど頼もしい姿でチームの快進撃を支えた。


8月終了時点では防御率2.43を記録していたが優勝が現実的には難しくなった9月に入ると、7日の巨人戦で初回にボークからピンチを作って先取点を許し、4回裏にはウォーカーの満塁弾とポランコのスリーランなどでイニング9失点を喫して3.2回11失点KO、16日の広島戦でも6回4失点と黒星を重ねて最終的な勝敗は8勝7敗、防御率3.36に留まった。だが与四球率が大きく改善するなど成長を感じさせたシーズンとなった。CSでも1勝1敗で迎えた阪神とのファーストシリーズ最終戦で先発、好投を見せたが2対1で迎えた6回表に近本のタイムリーで追いつかれて降板、接戦の末にファーストシリーズ敗退となった試合後にはファンへの挨拶で涙を流した。

前半絶不調
23年はホーム開幕戦を任されたが3回表にプリンソンのソロで先制を許すと、4回表にはプリンソンの2点タイムリーで追加点を奪われるなど5回4失点KOとなった。続くヤクルト戦でも初回に4.0回6失点、地元佐賀での凱旋登板となった巨人戦でも7回4失点で開幕3連敗、大量援護を受けた5月6日のヤクルト戦でも2.2回4失点と崩れて前半戦は5試合の登板で防御率8.10で終えた。後半戦に入るとストレートに力が戻って8月10日の中日戦では1失点完投に打っても2安打をと躍動、9月17日の阪神戦では防御率1位の村上と投げ合って6回無失点に抑えた。

自責0で完投
24年は開幕ローテに入ったが4月17日の広島戦で3回裏に押し出しを含む3四球、4回裏に自らの連続エラーなどで自滅、続く阪神戦では粘ったが押し出しで先取点を与えるなど3戦で11四球を与えて抹消となった。復帰戦となった6月14日の西武戦で6回1失点、続く巨人戦でも6回1失点と復調、9連戦の7戦目となった7月15日の広島戦ではリリーフ陣を救う自責0で完投勝利、走者としても佐野の犠飛で三塁から激走タッチアップでホームインするなど勝利への執念を見せた。だが次戦から2戦連続で5失点KOを喫して抹消となった。

鼓舞
シーズンは11試合の先発で2勝4敗で防御率3.25、WHIP1.44という厳しい結果に終わったが、ポストシーズンでは巨人とのCSファイナル第5戦の先発を任されて4回を零封、「僕自身を鼓舞しながら投げた」と語るほどの気迫満点の投球を見せた。日本シリーズでは日本一決定試合となった第6戦で2点差に追い上げられた直後の5回表に登板、何度も自身の体を叩いて雄たけびを上げるなど最強ソフトバンクを飲み込むほどの気持ちを見せて、三者凡退に抑えてベンチに戻る際にはスタンドに向かって両手を3度挙げて観衆をあおってハマスタのムードを最高潮にすると、その裏に打線が7得点を上げて日本一を決定的にした。

ソフトバンク移籍も
オフにはリリーフ転向を直訴して新たな挑戦に意欲を見せたが、メキシコでウインターリーグに参加している際に三森とのトレードでソフトバンクに移籍との連絡を受けた。浜口は「求められた仕事をしたい」と気合を見せたが、横浜時代から診断は受けていた「胸椎黄色靱帯骨化症」が悪化してシーズン開幕後に手術、合わせて左ひじのクリーニング手術も受けた。7月に復帰するとウエスタンリーグでは登板したが1軍昇格は果たせず移籍からわずか1年で戦力外通告を受けた。


初記録
初登板 2017年4月2日ヤクルト戦
初勝利 2017年4月9日中日戦
初奪三振 2017年4月2日ヤクルト戦:畠山から
初完投 2019年4月10日阪神戦
初セーブ


  投球成績
チーム 登板 完投 完封 勝利 敗戦 S 回数 安打 本塁 四球 死球 三振 暴投 ボーク 失点 自責 防御率
17 横浜 22 0 0 10 6 0 123.2 116 9 69 2 136 9 1 54 49 3.57
18 横浜 19 0 0 4 5 0 94.2 92 9 48 3 97 6 0 42 41 3.90
19 横浜 17 2 2 6 5 0 82.1 59 8 38 3 85 1 0 33 29 3.17
20 横浜 16 0 0 6 5 0 78.1 84 8 47 3 67 4 0 43 40 4.60
21 横浜 17 1 1 5 7 0 91.1 73 8 52 3 84 5 0 42 40 3.94
22 横浜 19 0 0 8 7 0 112.1 104 8 33 2 88 3 1 42 42 3.36
23 横浜 14 1 0 3 7 0 68.0 71 6 35 0 56 1 0 42 34 4.50
24 横浜 11 1 0 2 4 0 52.2 47 3 29 1 45 0 0 26 19 3.25
通算 8年 135 5 3 44 46 0 703.1 646 59 351 17 658 29 2 324 294 3.76


  打撃成績
チーム 試合 打数 得点 安打 二塁 三塁 本塁 塁打 打点 盗塁 盗刺 犠打 犠飛 四球 死球 三振 併殺 失策 打率
17 横浜 22 34 1 2 0 0 0 2 0 0 0 5 0 1 0 19 0 0 .059
18 横浜 19 22 0 1 0 0 0 1 1 0 0 8 0 0 0 13 0 1 .045
19 横浜 17 26 0 0 0 0 0 0 0 0 0 1 0 0 0 16 1 1 .000
20 横浜 16 26 0 2 0 0 0 2 0 0 0 4 0 1 0 15 0 1 .077
21 横浜 17 23 1 2 0 0 0 2 0 0 0 2 0 1 0 12 0 0 .087
22 横浜 19 30 0 3 0 0 0 3 1 0 0 4 0 0 0 13 0 0 .100
23 横浜 14 18 3 5 1 0 0 6 0 0 0 3 0 0 0 3 0 2 .278
24 横浜 11 14 1 3 0 0 0 3 0 0 0 0 0 1 0 7 0 4 .214
通算 8年 135 193 6 18 1 0 0 19 2 0 0 27 0 4 0 98 1 9 .093


  日本シリーズ投球成績
チーム 登板 完投 完封 勝利 敗戦 S 回数 安打 本塁 四球 死球 三振 暴投 ボーク 失点 自責 防御率
17 横浜 1 0 0 1 0 0 7.2 2 0 2 1 7 1 0 0 0 0.00
24 横浜 2 0 0 0 0 0 3.0 2 0 0 0 2 0 0 1 1 3.00
通算 2年 3 0 0 1 0 0 10.2 4 0 2 1 9 1 0 1 1 0.84


  日本シリーズ打撃成績
チーム 試合 打数 得点 安打 二塁 三塁 本塁 塁打 打点 盗塁 盗刺 犠打 犠飛 四球 死球 三振 併殺 失策 打率
17 横浜 1 2 0 0 0 0 0 0 0 0 0 1 0 0 0 1 0 0 .000
24 横浜 2 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 .000
通算 2年 3 2 0 0 0 0 0 0 0 0 0 1 0 0 0 1 0 0 .000


  クライマックスシリーズ投球成績
チーム 登板 完投 完封 勝利 敗戦 S 回数 安打 本塁 四球 死球 三振 暴投 ボーク 失点 自責 防御率
17 横浜 2 0 0 1 0 0 9.0 9 0 1 0 7 2 0 2 2 2.00
19 横浜 1 0 0 0 0 0 4.2 4 0 3 0 8 0 0 2 1 1.93
22 横浜 1 0 0 0 1 0 5.0 4 1 2 0 5 1 0 3 3 5.40
24 横浜 1 0 0 0 0 0 4.0 1 0 2 0 5 0 0 0 0 0.00
通算 4年 5 0 0 1 1 0 22.2 18 1 8 0 25 3 0 7 6 2.38


  クライマックスシリーズ打撃成績
チーム 試合 打数 得点 安打 二塁 三塁 本塁 塁打 打点 盗塁 盗刺 犠打 犠飛 四球 死球 三振 併殺 失策 打率
17 横浜 2 3 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 1 0 0 .000
19 横浜 1 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 1 0 1 0 0 .000
22 横浜 1 2 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 2 0 0 .000
24 横浜 1 1 0 1 0 0 0 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 1.000
通算 4年 5 7 0 1 0 0 0 1 0 0 0 0 0 1 0 4 0 0 .143


  二軍投球成績
チーム 登板 完投 勝利 敗戦 S 回数 安打 本塁 四死 三振 失点 自責 防御率
17 横浜 3 0 0 1 0 7.0 8 0 2 7 3 3 3.86
18 横浜 3 0 0 0 0 12.0 4 0 6 21 1 1 0.75
19 横浜 6 0 0 1 0 24.0 20 3 7 22 7 7 2.63
20 横浜 2 0 1 0 0 8.1 7 0 4 8 2 2 2.16
21 横浜 5 0 1 0 0 20.2 14 1 10 15 3 3 1.31
22 横浜 2 0 0 0 0 10.1 5 1 6 9 2 2 1.74
23 横浜 10 0 3 1 0 55.0 44 4 16 43 15 15 2.45
24 横浜 14 0 4 2 0 55.1 35 3 16 41 12 8 1.30
通算 8年 45 0 9 5 0 192.2 137 12 67 166 45 41 1.92