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伊藤 光



29
名前 いとう ひかる
生年月日 1989年4月23日
経歴 明徳義塾高−オリックス(07年高校生D3巡目)−横浜
入団年 18年シーズン途中に移籍
在籍年 18年シーズン途中−
背番号 18年シーズン途中−[29]
投打 右投げ右打ち
守備 捕手
あと一歩で甲子園ならず
愛知県の岡崎市出身、5歳から父の勧めで硬式野球をはじめる。当初は投手や野手でプレーしていたが、ボーイズリーグの東名古屋スターズで捕手に転向、明徳義塾高では2年春からベンチ入り、リードの勉強のためにピッチャーとしてもプレーした。2年夏には県大会決勝までコマを進めたが高知商に逆転で敗れると、高校No.1キャッチャーとして注目を集めていた3年夏も県大会決勝に敗れて甲子園出場を2年連続で逃した。

椎間板ヘルニア
高校生ドラフトの3巡目でオリックスから指名を受け入団、ルーキーイヤーにはウエスタンリーグで43試合に出場、シーズン終盤の9月13日日本ハム戦では守備のみではあったが一軍出場も果たした。翌09年にはキャンプ、オープン戦と一軍に帯同するなど高い期待をかけられていたが、椎間板ヘルニアを発症して開幕直後の4月14日に手術、当初は夏場に復帰予定だったが、手術で痛みこそ無くなったが左足全体のしびれと麻痺が残り、同年は二軍でも試合出場なしに終わった。

1本のヒット
伊藤は10か所以上の病院を回って復帰を目指したが回復せず、「野球人生終わったな」と絶望の淵に立たされたが、手術から1年が経過した頃にテレビで脊髄損傷者のためのジムの存在を知り、通い始めると3日間で症状が改善し、2か月間で回復、6月5日にはウエスタンリーグのソフトバンク戦で復帰後初ヒットを放っで一塁ベース上で涙を流した。同年にはウエスタンリーグで29試合に出場するまでに回復、一軍でも2試合に出場した。

初ヒット
11年にはソフトバンクとの開幕戦に8番キャッチャーでスタメン出場、翌日にはホールトンから初ヒットとなるライト前ヒットを放った。同年はエース金子 千尋の信頼を掴み、強肩も評価されたが打撃が打率.156と苦しみ、9月11日の西武戦では中村 剛也との本塁クロスプレーで右手人差し指を骨折した事もあって66試合出場に留まった。背番号が22に昇格した12年は開幕から間もないロッテ戦で強烈なスイングを見せたホワイトセルのバットが後頭部を直撃した事もあって二軍での調整期間も長かったが2年連続で66試合に出場、ソフトバンク小久保の引退試合として開催された同年のシーズン最終戦で西とバッテリーを組んでまさかのノーヒットノーランも達成した。

正捕手に
13年はベテランの日高がFAで移籍した事もあって開幕から正捕手として起用されて137試合に出場、課題だった打撃が大きく飛躍して、6月8日の横浜戦で逆転の2点タイムリースリーベースを含む2安打を放って打率を.318まで上昇させるなど活躍、球宴にはファン投票で初選出されて第2戦でヒットも記録した。夏場には打率を落としたが終盤には再び数字を上げて打率.285を記録。オフには日本代表にも選出された。

優勝へ
14年は開幕から17打数連続ノーヒットという不振に苦しんだが4月8日のロッテ戦では決勝打となる2点タイムリーツーベースを含む2安打、25日の楽天戦でも決勝打となる2点タイムリーツーベースを含む2安打、5月17日のソフトバンク戦では延長12回裏にサヨナラの犠牲フライとお立ち台に上がり続けて開幕から絶好調のチームを支えた。球宴にも2年連続でファン投票で選出して、その直前には首位に立つなどオリックスとしては18年ぶりの優勝が現実味を帯びてきた。

ゲーム差0
9月17日には春先から激しいデッドヒートを続けてきたソフトバンクとの首位攻防戦で勝ち越しタイムリーを放ってお立ち台に上がった。9月30日の楽天戦では3安打を放って勝利に貢献、ついに2位ながらソフトバンクとゲーム差0に並んで10月を迎える事になった。残り試合はソフトバンクは直接対決の1試合を残すのみで、オリックスは3試合を残しているため、勝率の関係でソフトバンクが勝てばソフトバンクが優勝、オリックスが勝てばオリックスの優勝が濃厚という状態で10月2日の直接対決を迎える事になった。


息詰まる投手戦となった天王山は2回裏に吉村のツーベースなどでソフトバンクが先制したが、7回表に代打原のタイムリーでオリックスが追いついて試合は延長戦に突入、引き分けでも優勝の可能性が残る所だったが10回裏に一死満塁のピンチを背負うと、松田の打球が左中間を抜けるサヨナラヒットとなって優勝を逃した。伊藤はショックのあまりホームで号泣し、チームメイトに抱えられて戻ったベンチでもタオルに顔を埋めて涙を流し続けた。伊藤は涙の理由を問われて「僕は小学校も中学校も高校も、常に「あと一歩」というところで負けてきた。高校2年も3年も夏の県大会決勝で負けて、一度も甲子園に出ていません。僕が「あと一歩」という人間だから、また自分がキャッチャーをやっているから負けたのかなとか、僕の人生はこんなもんなんだなと思ったら、あの場から動けませんでした」。なおオリックスはラスト2ゲームに連勝してゲーム差0での2位と意地を見せた。

サヨナラパスボール
ベストナイン、ゴールデングラブに加えて金子 千尋と最優秀バッテリー賞も受賞するなど球界を代表する捕手となり、オフには選手会長も任される事になった。15年はチームもブランコ、中島といった大型補強を行い優勝への期待が高まったが、春先から補強した選手の絶不調もあってチームが低迷、伊藤もスタメンを外れる試合が増えるなど完全な正捕手からは外されてしまう。8月5日のロッテ戦ではリーグ4人目のサヨナラパスボールを記録、同年は104試合に出場して打率.271を放ったがチームは5位に終わってしまった。

打撃不振
16年は開幕直後に登録抹消になるなど首脳陣から守備面の信頼を失い、一軍と二軍を行き来し、二軍ではファーストとしても出場。前半戦は打率2割前後に低迷していたが、球宴明けから状態を上げて8月6日のロッテ戦では一軍でファーストの守備にも就き、以降はファーストや代打としての起用も増えていった。オフには主力選手が27歳にしてフェニックスリーグにも出場、17年からはキャンプでサードの練習も行い、開幕第2戦ではサードで出場してツーベースを含む2安打を放った。だが打率が2割前後を低迷し、同年は途中出場も含めて捕手として前年を上回る93試合に出場したが25打数連続ノーヒットでシーズンを終えるなど打率.189に留まった。

横浜移籍
18年は4月17日のロッテ戦でパスボールで勝ち越し点を与えてしまうと、7回表には送りバントを失敗して痛恨の併殺となり登録抹消となった。ウエスタンリーグでは打率.284とまずまずの成績を残したが再昇格のチャンスはもらえず、7月9日に赤間と共に白崎、高城とのトレードで横浜に移籍した。

移籍直後にお立ち台
多くのサインを覚え、バッテリ−を組む投手陣の動画を寝る間も惜しんで見続けるなど、シーズン途中の捕手の移籍ならではの苦労もあったが、オールスター明けの16日ヤクルト戦でスタメンマスクを任されると第1打席で前年9月9日以来50打席ぶりとなるヒットを放ち、二盗も刺して大歓声を浴びた。第3戦では2点タイムリーを放ってお立ち台に上がり「11年目の伊藤光です!」とファンにあいさつ、続く試合でホームランを放つと、8月4日の広島戦では3打数3安打を記録するなど移籍当初は打撃でアピールしたが、その後は打撃不振に苦しんで打率.195と期待に応える事はできなかった。

古巣凱旋弾
19年は開幕前から正捕手に指名されて4月10日の阪神戦で絶好調とはいえなかった濱口を1安打完封に導くとマウンドに歩み寄って濱口を抱きしめて祝福、さらに2日後の広島戦でも今永の1安打完封を好リードして再びマウンドで今永を抱きしめて「ヒカルの抱擁」と話題になった。5月12日の広島戦でリプレー検証弾を放つと、続く中日戦では大野から満塁弾を放つなど打撃でも活躍、大阪ドーム凱旋となった6月4日のオリックス戦ではオリックスファンからの大きな拍手にも送られて臨んだ第1打席で山本から先制ソロを放つなど猛打賞の活躍を見せた。お立ち台では「移籍して初めての京セラドーム、凄く楽しみにしてきました。10年間、オリックス球団に支えていただいて今の自分がある。横浜ベイスターズで活躍することが恩返しになると思って一生懸命やりました」

故障離脱から復帰
6月29日の広島戦ではアドゥワから先制弾、7月6日の巨人戦でソロ、翌日の巨人戦でも勝ち越しスリーランと完全に正捕手を掴んだが、7月30日ヤクルト戦でファウルチップを左手薬指に受けて剥離骨折となり離脱した。シーズン中の復帰は絶望的と思われていたが、8月31日に2軍戦に出場すると、9月11日の巨人戦で1軍復帰、好リードとツーベースなどで勝利に貢献すると、14日のヤクルト戦では前年から日本記録となる38回連続盗塁成功中だった山田哲の二盗を刺して大記録をストップさせた。オフには球団としては異例の4年契約を結んだ。

チームオーダー
正捕手を掴んだかと思われたが翌20年は7月4日のヤクルト戦でベンチからの牽制球のサインを見落として途中交代、18日の巨人戦ではベンチの策略と違うリードをしたとの理由で2回で交代となり、翌日に抹消となった。10日後に肉離れで離脱したこともあって抹消から二か月以上が経過した9月29日に72日ぶりに1軍復帰、同日のヤクルト戦で大きな拍手の中で代打で起用されてツーベースを放った。10月18日の巨人戦では代打の代打として起用されてタイムリーを放って三か月ぶりの打点を記録、28日の巨人戦では12球粘って決勝タイムリースリーベースを放ってお立ち台に上がり「僕にも意地がある」と胸を張った。

2番
21年は開幕直前に左ふくらはぎの肉離れを発症して離脱したが、5月8日に2軍戦で復帰すると18日に一軍昇格、同日の中日戦で0対5で迎えた5回裏に代打で復帰して四球を選ぶと、そのまま試合に残って迎えた8回裏の打席でソロを放って一矢を報いた。交流戦初戦から球団としては14年ぶりとなる2番捕手として起用されると、26日のオリックス戦で10点差をつけられた打席で16球粘って四球を選び、6月13日の日本ハム戦では4打席で30球を投げさせるなど持ち前の粘りを見せて交流戦で打率.263ながら出塁率.382、7犠打を記録、開幕から低迷していたチームの流れを変える一因となった。だが6月下旬に腰痛で離脱すると復帰後は大幅に状態を落とし、シーズン終盤には右肩のクリーニング手術を受けてシーズンを終えた。

ファースト
22年は開幕早々に左足の張りで抹消となり、その後にコロナウイルスに感染して長期離脱となった。6月17日にイースタンリーグで5打数5安打を放って21日に1軍昇格、23日の巨人戦でスタメンで起用されて3安打を放って勝利に貢献した。8月3日の広島戦では離脱したソトに代わって5年ぶりにファーストでスタメン出場するなど打撃力を期待されて代打でも起用された。8月20日の広島戦では代打で決勝タイムリーを放ち、9月1日の中日戦ではタイムリーと完封リードでお立ち台に上がった。9日の阪神戦では上茶谷が初回に連続四球を出すとマウンドに向かって檄を飛ばし立ち直らせるなど活躍、同年は出場試合は40試合にとどまったが打率.277を記録した。

バウアー
23年は山本、戸柱を含めた3人を均等に併用する正捕手を置かない異例のシーズンとなったが、4月25日のヤクルト戦で2点タイムリーを含む2安打を放ってお立ち台、27日のヤクルト戦では劣勢を盛り返す先頭打者ツーベースを放つと二塁ベースを叩いてチームを鼓舞して一挙5点につなげるなど活躍、5月からはメジャーリーグでサイヤング賞も獲得したバウアーの専属捕手として起用されて多彩な変化球をリードした。


初記録
初出場 2008年9月13日日本ハム戦
初安打 2011年4月13日ソフトバンク戦:ホールトンから
初本塁打 2011年5月25日ヤクルト戦:松井から
初打点 2011年4月20日日本ハム戦
初盗塁 2011年4月17日楽天戦:二盗で
記録達成日
1000試合 2023年8月6日阪神戦






08 09 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23
ベストナイン 1回
ゴールデングラブ 1回
オールスター 2回


  打撃成績
チーム 試合 打数 得点 安打 二塁 三塁 本塁 塁打 打点 盗塁 盗刺 犠打 犠飛 四球 死球 三振 併殺 失策 打率
08 オリックス 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 .000
10 オリックス 2 4 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 1 0 0 .000
11 オリックス 66 160 15 25 7 0 2 38 11 3 2 14 1 11 2 57 0 5 .156
12 オリックス 66 176 11 36 9 0 0 45 10 0 0 12 4 5 0 48 2 3 .205
13 オリックス 137 410 36 117 20 2 3 150 40 4 0 35 3 24 3 84 10 8 .285
14 オリックス 137 358 37 92 16 1 3 119 48 0 2 39 3 24 5 80 2 3 .257
15 オリックス 104 247 20 67 9 1 1 81 28 0 1 11 2 29 1 53 4 1 .271
16 オリックス 80 187 18 45 7 0 3 61 15 1 0 12 0 3 1 36 6 2 .241
17 オリックス 103 196 21 37 9 2 5 65 23 0 0 22 1 18 2 47 2 2 .189
18 オリックス 7 13 0 0 0 0 0 0 0 0 0 1 0 2 0 3 1 0 .000
18 横浜 47 128 12 25 5 0 1 33 11 1 1 0 2 18 3 29 5 3 .195
19 横浜 84 256 30 65 8 0 8 97 27 5 5 3 2 37 3 45 4 4 .254
20 横浜 30 51 5 11 3 1 0 16 6 0 0 1 0 10 1 15 2 0 .216
21 横浜 53 160 14 34 6 0 2 46 13 1 1 12 1 17 2 43 3 2 .213
22 横浜 40 94 9 26 7 0 0 33 8 0 0 0 0 8 1 23 3 1 .277
23 横浜 61 160 11 36 8 0 1 47 8 0 0 4 1 9 2 41 2 0 .225
球団 6年 315 849 81 197 37 1 12 272 73 7 7 20 6 99 12 196 19 10 .232
通算 15年 1018 2600 239 616 114 7 29 831 248 15 12 166 20 215 26 605 46 34 .237


  クライマックスシリーズ打撃成績
チーム 試合 打数 得点 安打 二塁 三塁 本塁 塁打 打点 盗塁 盗刺 犠打 犠飛 四球 死球 三振 併殺 失策 打率
14 オリックス 3 7 0 2 0 0 0 2 0 0 0 1 0 1 1 4 0 0 .286
19 横浜 2 7 0 1 0 0 0 1 0 0 0 0 0 0 0 1 0 0 .143
22 横浜 2 4 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 1 0 0 .000
23 横浜 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 .000
通算 4年 8 18 0 3 0 0 0 3 0 0 0 1 0 1 1 6 0 0 .167


  オールスター打撃成績
回数 試合 打数 得点 安打 二塁 三塁 本塁 塁打 打点 盗塁 盗刺 犠打 犠飛 四球 死球 三振 併殺 失策 打率
通算 2回 5 5 0 1 0 0 0 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 1 .200


  二軍打撃成績
チーム 試合 打数 得点 安打 二塁 三塁 本塁 塁打 打点 盗塁 犠打 犠飛 四死 三振 併殺 失策 打率
08 サーバス 43 78 9 15 2 0 0 17 6 0 5 0 11 24 2 0 .192
10 オリックス 29 55 1 9 0 0 0 9 4 0 3 1 5 17 1 1 .164
11 オリックス 10 28 5 7 1 0 1 11 2 0 0 0 2 5 0 1 .250
12 オリックス 33 86 10 21 6 0 3 36 9 0 3 1 5 18 2 1 .244
14 オリックス 1 4 1 2 0 0 0 2 1 0 0 0 0 1 1 0 .500
15 オリックス 4 13 4 6 2 0 0 8 5 0 0 0 3 1 0 0 .462
16 オリックス 18 65 6 15 2 0 0 17 4 0 1 1 3 7 8 1 .231
17 オリックス 1 4 1 3 2 0 0 5 1 0 0 0 0 0 0 0 .750
18 オリックス 31 88 8 25 4 0 2 35 12 0 1 0 15 15 4 1 .284
19 横浜 6 15 2 5 0 0 1 8 1 0 0 0 3 4 2 2 .333
20 横浜 10 22 2 3 0 0 0 3 1 0 0 0 4 5 2 1 .136
21 横浜 4 9 2 3 1 0 0 4 2 0 0 0 2 0 0 0 .333
22 横浜 14 41 3 12 3 0 0 15 4 0 0 0 1 7 3 0 .293
通算 13年 204 508 54 126 23 0 7 170 52 0 13 3 54 104 25 8 .248