:カナダ代表:
03年のドラフトでアトランタ・ブレーブスから第4ラウンド(全体の127番目)で指名されて入団。初年度はルーキーリーグで打率.176、翌年も打率.190と苦しんだが、4年目にAに昇格すると、5年目の07年にはA+で85試合に出場して打率.252、15本塁打を記録。同年にはカナダ代表に選出されてIBAFワールドカップに出場した。そこから数年間は伸び悩んだが、11年に再びカナダ代表に選出されてIBAFワールドカップで銅メダルを獲得、パンアメリカン競技大会ではカナダ史上初の優勝を遂げた。
:MLB昇格:
プロ入りから10年目の2012年にAAA初昇格、翌13年にはスタメンに定着して打率.242、22本塁打、74打点を記録した。同年オフにドジャースとマイナー契約を結ぶと、翌14年には開幕からAAAで好成績を残して5月28日に28歳にしてMLB昇格を果たした。同日のレッズ戦で7回裏に代打で起用されてMLBデビュー(セカンドゴロ)、6月8日のロッキーズ戦では6回表に二死一、二塁で打席に入り左中間を抜く2点タイムリーツーベースを放って初安打初打点を記録したが、翌日から14打数連続ノーヒットに倒れてしまうなど21打数1安打に終わって6月25日に戦力外通告を受けた。
:横浜移籍:
マイナー降格後もAAAでは活躍を続けて打率.280、24本塁打、85打点を記録。翌15年はダイヤモンドバックスとマイナー契約を結んでAAAでリーグトップの27本塁打、100打点(3位)、42二塁打(2位)という素晴らしい成績を残し、MLBにも8月、9月と2度昇格し、数少ないチャンスで15打数5安打を記録した。同年の11月13日に横浜DeNAベイスターズとの契約が発表された。
:初打席初ヒットも:
バルディリスに代わる5番サードとして高い期待を受けていたが、キャンプからサードの守備で拙いプレーを連発して開幕はライトでの出場となった。広島との開幕戦では初打席初ヒットを記録したが、第3戦からの8試合は23打数0安打で13三振という大不振に苦しんだ。4月5日の中日戦では守備でもライトフライを落球して先制につながるスリーベースにしてしまうなど攻守に足を引っ張って4月9日に早くも登録抹消となった。
:新外国人獲得:
4月20日に再昇格を果たすと同日の広島戦で3番に抜擢されて先制犠飛に四球で勝利に貢献すると第5打席にはライト前ヒットを放って連続打数ノーヒットを26でストップさせた。そこから3試合連続でヒットを放ったが新外国人選手エリアン獲得のニュースが流れた26日の中日戦でライト前への飛球をチャージせずポテンヒットにした上に後逸し、直後の打席では覇気なく三球三振に倒れて珍しく横浜ファンからブーイングが上がった。
:大歓声:
再び抹消となると交流戦で一軍に復帰したが2三振に併殺打と好結果が残せず交流戦終了と共に二軍降格となった。それでも腐らずに練習を続け、ベンチでチームを盛り上げる姿などがファンの評価を高めて、シーズン最終盤の9月23日に一軍へ昇格すると代打でショートゴロに倒れたがスタンドから大きな声援が上がった。結局わずか30試合の出場で71打数8安打、期待された本塁打は0で同年限りで退団となった。
:韓国で活躍:
17年にはカナダ代表に選出されて第4回WBCに出場、第1ラウンドのコロンビア戦でセンター前ヒットこそ放ったが8打数1安打で5三振に留まった。同年はパドレス傘下のAAAで4月に月間打率.372、11本塁打、25打点と打ちまくってパシフィック・コースト・リーグの月間MVPに選出された。5月7日に韓国のSKワイバーンズと契約して、入団から25試合で打率.347、11本塁打、25打点、OPS(出塁率+長打率)1.192という驚異的な成績を残した。その後は二軍調整などもあったが、打率.242ながら31本塁打を記録、同シーズンに放った87安打中50本が長打だった。9月には1週間で18打数7安打(5本塁打)でアウトは全て三振という珍記録で話題になった。
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18年は春のオープン戦でSKの4番として巨人戦で特大の先制弾を放った。シーズンに入っても驚異的なペースでホームランを量産して打率.315、43本塁打、106打点を記録、翌年以降もSKの主砲として活躍して3年連続90打点を記録した。21年限りで現役引退。 |
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