:60エラー:
16歳の時にパイレーツと契約し、ベネズエラのサマーリーグでプレーした後に18歳からアメリカのルーキーリーグでプレー。2年目の00年にはシングルAで125試合に出場して、打率.299、16本塁打、72打点という好成績を残した。またショートの守備では強肩を生かして392補殺を記録したが、その一方で60エラーを記録している。冬にはベネズエラのウインターリーグに参加したが打率.218と結果が残せなかった。
:MLBのレギュラー:
5年目の03年にダブルAに昇格すると、本塁打は5本に留まったが打率.287を記録。セカンドに挑戦した守備でも、エラーが23個と大幅に良化し、もともと強肩だった事もあってリーグトップクラスの守備力を持つまでになった。翌04年にはトリプルAを飛び越えて、MLBのスプリング・トレーニングに合流すると、そのまま4月7日のフィリーズ戦で8番セカンドでMLBデビューを果たし、ウルフから初打席初ヒットを放った。その後も高い守備力が評価されて、主に8番セカンドでスタメンに定着して129試合に出場するなど、23歳の若さでメジャーリーグのレギュラーの座を掴んだ。
:5試合連続ホームラン:
ウインターリーグで打率.364という好成績を記録して臨んだ05年シーズンは、守備で負傷したこともあって試合数は減少したが、打撃は打率.268、11本塁打、53打点という前年を上回る成績を残した。06年には5月26日のアストロズ戦で4回裏に同点ツーランを放つと、翌日の試合でも1点を追う延長17回裏に起死回生の同点ソロ、続くブルワーズ戦でも29日、30日、31日と5試合連続ホームランを記録して週間MVPに選出された。中でも30日は2本塁打を含む4打数4安打で6打点という大活躍だった。同年はその後もまずまずの成績を残したが、9月に大幅に数字を落として打率.253に留まってしまった。
:サードにコンバート:
07年の1月に、二遊間を組んでいた名ショートのジャック・ウィルソンが、前年のカスティーヨの守備に不満を漏らし、三塁手のフレディー・サンティスが二塁を守ることを希望した事もあって、元大洋のトレーシー監督の指示で三塁にコンバートされた。追い込まれたカスティーヨは同年のスプリング・トレーニングにトレーシー監督が「20ポンド(9キロ)も痩せて見える」というほどの減量をして合流したが、トレーシー監督はサードにボーティスタを起用したため、スタメンの座を失ったカスティーヨは同年のオフにマリーンズに移籍した。
:台湾を経て横浜入団:
08年の開幕前にジャイアンツに移籍するとサードのレギュラーとして129試合に出場したが、打率.244に終わって8月にアストロズに移籍。アストロズでは15試合に出場したが同年限りで退団。翌09年はナショナルズと契約したが、スプリング・トレーニングで解雇されると、台湾の統一ライオンズに移籍。統一のセカンドにはスター選手の陽森がいたためサードを守り、73試合で打率314、13本塁打、65打点を記録し、翌10年に横浜に移籍した。なお同年のウインターリーグでは拳銃を持ったバイク強盗に結婚指輪を盗まれる被害に遭っている。
:活躍するも:
3月30日のホーム開幕戦となった巨人戦で藤井から逆転スリーランをレフトスタンドに運ぶと、4月3日のヤクルト戦では本塁打を含む5打数5安打を放つなど好スタートを切ったが、試合は共に敗れたためお立ち台には上がれなかった。特にヤクルト戦ではチームが9回までに22安打を放ちながら敗れるという史上初の珍事だった。
:お立ち台:
5月以降は徐々に数字を落としたが、8月に打率.352、5本塁打、14打点を記録して3割近くまで打率を上げる。その後も9月23日の巨人戦では6回表に勝ち越しツーランを放って、ようやく初めてのヒーローインタビューに選ばれた。すると9月26日の巨人戦でも8回裏に勝ち越しタイムリーを放ってハマスタでの初のお立ち台に上がるなど残留をアピールしたが、守備での雑なプレーが評価を落として1年限りで退団となった。
:ロッテ入団:
11年はメキシコリーグで65試合に出場して打率.367、10本塁打、60打点という好成績を残し、6月22日にロッテに入団した。就労ビザ取得の関係で二軍戦にも出場できないまま7月5日の日本ハム戦でいきなり4番ファーストで出場すると、初回にレフト前ヒット、3回裏に同点ツーラン、5回裏にレフト前、6回裏にライト前にタイムリーと4打数連続安打を記録していきなりお立ち台に上がった。
:4番で活躍も:
7月28日の西武戦で0対0で迎えた9回表二死に平野からレフトスタンドに決勝ソロ、8月18日の日本ハム戦で満塁ホームランと活躍。4番ファーストとしてシーズン最終戦までプレーして打率.269、5本塁打、34打点という統一球で打撃成績が軒並み下がった同年としてはまずまずの成績を残したが、戦力外通告を受けて退団となってしまった。帰国後もメキシコ、ベネズエラ、イタリアなどで長くプレーを続けたが、18年の12月6日にベネズエラのウインターリーグに参加した際に遠征先の町から車で本拠地に向かう途中で高速道路に置かれた岩に激突し37歳の若さで死亡した。 |
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