倉本 寿彦
5
|
名前 |
くらもと としひこ |
生年月日 |
1991年1月7日 |
経歴 |
横浜高−創価大−日本新薬−横浜(14年D3位) |
入団年 |
14年ドラフト3位 |
在籍年 |
15年−22年 |
背番号 |
15年−22年[5] |
投打 |
右投げ左打ち |
守備 |
内野手 |
|
|
:横浜ファン:
父と祖父が野球指導者で妹の美穂さんもソフトボールをプレイする野球一家に生まれる。幼いころはサッカーに興味を持っていたが小学1年の時に父親の孝之さんと始めたキャッチボールから野球を好きになり、藤沢リトルリーグでプレー。横浜生まれで7歳の時に甲子園を制した横浜高校と38年ぶりの優勝を飾ったベイスターズのファンになり、中学時代は横浜高校OBが監督を務める寒川リトルシニアに入団し、「もう帰れ」と言われるほど深夜まで練習を重ねた。
:横浜高校進学:
当時は目立ってうまい選手ではなかったため倉本が横浜高校への進学を希望すると周囲は「ベンチ入りも難しい」と説得したが、倉本は意志を変えずセレクションを受けて横浜高校へ入学。1年の夏ごろまでは上級生の練習の手伝いばかりで満足に自分の練習が出来ない日々が続き、両親に「野球をやめたい」と漏らしたが、渡辺監督に「一番成長した選手。誰より努力し、考えて振っている」と言わしめた猛練習で1年秋には背番号を手にした。
:甲子園:
2年秋にショートのレギュラーを掴むと、3年春には同期の土屋、1学年下の筒香らと共に甲子園出場を果たした。だが初戦の北大津戦で3安打を放ったが4回裏に2つの悪送球を投じて逆転を許し、初戦敗退のきっかけを作ってしまった。3年夏にもサードで甲子園出場を果たすと2回戦の広陵戦では中田廉のクセを盗んで2盗塁で揺さぶって勝利に貢献、ベスト4まで進出したが準決勝で浅村
栄斗を要する大阪桐蔭に敗れた。
:創価大から日本新薬:
創価大では主将を務めて3年秋と4年春にベストナインに選出された。堅実な守備でチームをまとめて同級生のエース小川 泰弘らとともに4年間で7度の優勝を果たしスカウトの注目を集めた。2球団から調査書が届き、倉本は社会人からの誘いは断ってプロ1本に絞ったがドラフト会議では名前が呼び上げられる事はなく指名漏れとなった。ショックを受けた倉本は自宅に引きこもって野球を諦めかけたが、両親からの説得もあって「あと2年頑張ろう」と決意し、再度声をかけてくれた日本新薬に入社した。
:門田 博光:
日本新薬2年目の開幕前にプロ野球で567本塁打を放った大打者の門田 博光臨時コーチから1週間付きっ切りで打撃指導を受けてプロ入りへの課題となっていた打撃が開花、門田は「松井
秀喜と一緒やないか!」と感じる一瞬があった倉本のスイングに化ける可能性を感じて徹底指導、細身の体からの非力なバッティングだったが打撃フォームを一本足打法し、30本のフルスイングを含む30分以上の素振りと筋力トレーニングで体重が1年間で8キロ増加、「全打席引っ張ってホームランを狙う」という指導で横浜高校では0本、創価大学でも1本だった本塁打が年間7本にまで増加した。なお門田からバットとダイエー時代のユニホームを譲り受けている。
:ベイスターズ入団:
都市対抗野球では3回戦の三菱日立パワーシステムズ横浜戦で延長12回裏にサヨナラ打を放つなど活躍し優秀選手賞を受賞、14年社会人野球ベストナイン。同年のドラフト会議では少年時代からの憧れだった横浜ベイスターズから3位指名を受けて入団した。横浜高校時代の恩師である渡辺監督に電話で報告すると「お前がプロに進むとは思わなかったよ。努力をする人間性が認められたんだな」と称賛された。
:背番号5:
小さいころから横浜スタジアムに通っていた倉本は98年のVメンバーの応援歌を覚えており、ショートを志すきっかけとなった石井 琢朗の背番号5を引き継いだ。また倉本はいつか石井
琢朗の応援歌を引き継ぐことを一つの目標にしている。キャンプではプロのボールに対抗するためにYouTubeで門田の打撃フォームを研究して社会人時代よりもさらに足を上げるフォームに修正、広島とのオープン戦の試合前には憧れの石井
琢朗から「野球をやめるまで5番をつけていろよ。DeNAの5番は倉本と言われるまで頑張れ」と声をかけられた。守備に加えて打撃でも評価を高めて中畑監督をはじめ、松井
秀喜や小久保日本代表監督からも高い評価を受けた。
:開幕戦でスタメン:
球団では71年の野口以来44年ぶりとなる新人開幕ショートスタメンの座を勝ち取ると、第2打席で巨人のエース菅野からライト前へ初ヒットを放った。第3戦では3安打を放ち好守も連発したが、打率は2割前後に低迷して左投手が先発する試合ではスタメンを外れる事も多くなった。5月10日の巨人戦では8回裏に勝ち越しタイムリーを放って開幕から負けなしの5連勝中だった高木に黒星をつけてお立ち台に上がると、6月23日の巨人戦でも高木から同点タイムリーを含む2安打を放って12連敗中のチームを救った。
:エースキラー:
7月4日の阪神戦で松田から初本塁打を放つと翌日には藤浪から同点タイムリー、7月8日の広島戦では先制のきっかけとなるツーベースにタイムリー、ツーランと活躍。最終的な打率は,208に留まったが8月15日の広島戦で前田健太から先制タイムリーを放つなど各球団のエース格からヒットを量産してエースキラーとして名前を売った。シーズン終盤には同年の首位打者に輝いたヤクルトの川端から了承を得て同モデルのバットを購入し、打撃フォームも一本足打法から川端に似たフォームへと変更して打撃力向上を図った。
:サヨナラヒット:
16年は開幕からリーグ上位の打率をキープし、5月12日の中日戦では前年から続いていた延長戦13連敗という日本記録をストップさせる自身初のサヨナラヒット、17日の巨人戦では同点で迎えた6回表に三塁走者としてファーストゴロでホームを狙うとキャッチャーのタッチをかわし続けて最後はダイブでホームインと定評のあった守備に加えて走攻でも活躍、6試合連続複数安打も記録するなど一時は打率が.350まで上昇した。
:3割逃す:
後半戦に入っても7月に月間打率.379(95打数36安打)を記録して首位打者争いにも顔を出していたが、8月から打率が急降下してラスト4試合となった9月23日の巨人戦で打率が3割を切り惜しくも打率.294に留まった。それでもヒット数はチームトップの157安打、四球はわずか22個だったがファウルはリーグトップ520球と新たな打撃スタイル確立に向けた大きな一年となった。また9月6日のヤクルト戦では無死一、二塁でファーストからの送球を二塁で受けると、間に合わない一塁ではなく三塁に送球してアウトという難しい併殺を完成させるなど安定感のある守備でもチームを支えた。CSではファーストステージ最終戦で同点で迎えた8回表にバントミスからの併殺に倒れてしまったが11回表に勝ち越しへ繋がるヒットを放つなどCSでチームトップとなる8安打を記録した。
:9番:
17年は開幕から打率1割前後という絶不調に陥り、4月14日のヤクルト戦ではラミレス監督の奇策で打力の良い投手ウィーランドが8番で起用されたため9番スタメンという屈辱を味わった。翌日には6番に戻って13試合目にして初タイムリーを放つと徐々に数字を上げたが、ウィーランドが先発した5月4日の巨人戦で再び9番で起用されると、その後はラミレス監督の代名詞ともなった9番打者に固定されて5月7日のヤクルト戦で3安打、10日の中日戦で先制タイムリー、翌日には同点ツーランを放つなど活躍、7月2日の巨人戦では前年まで同僚だった山口からのタイムリーを含む4安打の固め打ちを見せてお立ち台に上がった。
:日本シリーズで落球も:
8月16日の阪神戦でサヨナラヒットを放つと、24日の広島戦でも同点で迎えた9回裏に二死二塁で打席に入ってセカンドゴロかと思われた打球がイレギュラーして名手菊池のグラブをかわすサヨナラヒットとなりチーム3試合連続のサヨナラ勝利を達成、3位攻防戦となった9月16日の巨人戦では好守を連発してCS進出に貢献。主に9番での起用ながらリーグ2位の得点圏打率.342という勝負強さで50打点を記録。日本シリーズでは第2戦で1点をリードして迎えた7回裏に併殺コースのセカンドゴロで柴田からのトスを落球して逆転敗戦に繋げてしまったが、続く第3戦で粘り粘ってからのボテボテのセカンドゴロをヘッドスライディングで内野安打とするなど3安打を放ち、好守も見せるなどメンタルの強さを発揮した。
:コンバート:
18年は名手・大和が阪神からFAで移籍してきたため、ほぼ経験のないセカンドにコンバートされた。居残り特守や年下の柴田に助言を求めるなどキャンプから必死に新たなポジションに向き合ってオープン戦終盤にはたびたび好守を見せるようになった。シーズンに入ると前年から続いて9番で起用されて4月13日の中日戦では3安打を放ったが、同年はラミレス監督がレギュラー見直しを始めたため4月28日には早くもスタメン降格となった。5月6日の巨人戦で3安打、続く広島戦では同点タイムリーを含む4打数4安打を放ったが5月31日に登録抹消となった。6月29日に昇格すると8月3日の広島戦では11回裏にピッチャーのウィーランドが代打で四球を選んで二死満塁という異様な盛り上がりの中で打席に入って見事にサヨナラヒットを放った。
:打撃不振:
19年はショート復帰を志したがオープン戦で32打数1安打という大不振に陥り、開幕1軍に残ったが3度のスタメンではノーヒットで4月29日に抹消となった。5月26日に昇格したがほとんどチャンスが与えられることなく再び抹消、8月30日に再昇格を果たしたがシーズン終了までの12打数で1安打に終わって同年は自己ワーストの24試合出場で打率.121に留まった。
:復活:
コロナウイルスの影響で開幕が延期となった20年はスタメンのチャンスをもらった7月14日の中日戦で2安打を放つと、そこからスタメン試合では4試合連続で複数出塁を記録、7月30日の巨人戦では勝ち越しタイムリーに加えて、守ってもダブルスチールを好反応で阻止するなど活躍、8月9日のヤクルト戦では初回に自身初の満塁ホームランを放つと、試合はそのまま4対0で勝利して、史上3度目でセでは56年ぶり2度目の初回満塁弾のスミ4勝利となった。20日の広島戦では834日ぶりの3安打、27日の広島戦でも3安打、9月3日からは5試合連続で複数安打を記録して打率が.342まで上昇、18日の巨人戦では2点タイムリーを放ってお立ち台にも上がった。シーズン最終盤に20打数連続ノーヒットを記録して大幅に数字を落としたが、ショートではチームトップの49試合でスタメン起用されるなどフルシーズン一軍でプレーした。
:退団:
21年は春先からスタメンショートでも起用されてまずまずの結果を残すと、5月1日のヤクルト戦では6回裏の二死満塁で代打起用されてセンター前へ勝ち越しの2点タイムリーを運んでお立ち台に上がった。だが5月9日の阪神戦で同年からチーム方針変更で解禁されていた一塁へのヘッドスライディングを行い左手の薬指を剥離骨折、シーズン終盤に1軍復帰は果たしたが、チャンスらしいチャンスは貰えず46試合出場で打率.208に留まった。翌22年も44試合出場で打率.173と好結果は残せず、CSもベンチ入りできなかった。同年オフに戦力外通告を受けて惜しまれながら退団となった。
::
NPB復帰を目指して古巣の日本新薬で1シーズンをプレー、オフに行われた横浜スタジアム45周年の記念ゲームでは松坂や村田といったスター選手に並ぶほどの声援を受けて2安打を放った。24年はNPB2軍に新規参入を果たしたハヤテ223に入団。 |
|
初記録 |
初出場 |
2015年3月27日巨人戦 |
初安打 |
2015年3月27日巨人戦:菅野から |
初本塁打 |
2015年7月4日阪神戦:松田から |
初打点 |
2015年3月31日広島戦:大瀬良から |
初盗塁 |
2016年4月3日阪神戦 |
|
|
|
|
打撃成績
|
チーム |
試合 |
打数 |
得点 |
安打 |
二塁 |
三塁 |
本塁 |
塁打 |
打点 |
盗塁 |
盗刺 |
犠打 |
犠飛 |
四球 |
死球 |
三振 |
併殺 |
失策 |
打率 |
|
15 |
横浜 |
102 |
245 |
11 |
51 |
4 |
0 |
2 |
61 |
20 |
0 |
0 |
7 |
1 |
10 |
2 |
60 |
8 |
7 |
.208 |
16 |
横浜 |
141 |
534 |
38 |
157 |
19 |
2 |
1 |
183 |
38 |
2 |
3 |
5 |
3 |
22 |
2 |
98 |
13 |
6 |
.294 |
17 |
横浜 |
143 |
507 |
49 |
133 |
27 |
1 |
2 |
168 |
50 |
3 |
1 |
9 |
1 |
18 |
4 |
102 |
10 |
14 |
.262 |
18 |
横浜 |
85 |
228 |
11 |
53 |
7 |
0 |
1 |
63 |
14 |
1 |
2 |
0 |
1 |
6 |
0 |
51 |
5 |
5 |
.232 |
19 |
横浜 |
24 |
33 |
1 |
4 |
1 |
0 |
0 |
5 |
2 |
0 |
1 |
0 |
0 |
2 |
0 |
7 |
0 |
1 |
.121 |
20 |
横浜 |
82 |
199 |
19 |
55 |
4 |
0 |
1 |
62 |
17 |
0 |
0 |
0 |
0 |
16 |
1 |
42 |
2 |
4 |
.276 |
21 |
横浜 |
46 |
72 |
5 |
15 |
0 |
0 |
0 |
15 |
6 |
0 |
0 |
0 |
0 |
2 |
0 |
17 |
2 |
0 |
.208 |
22 |
横浜 |
44 |
52 |
3 |
9 |
0 |
0 |
1 |
12 |
2 |
0 |
0 |
1 |
0 |
1 |
0 |
12 |
0 |
1 |
.173 |
|
通算 |
8年 |
667 |
1870 |
137 |
477 |
62 |
3 |
8 |
569 |
149 |
6 |
7 |
22 |
6 |
77 |
9 |
389 |
40 |
38 |
.255 |
|
|
日本シリーズ打撃成績
|
チーム |
試合 |
打数 |
得点 |
安打 |
二塁 |
三塁 |
本塁 |
塁打 |
打点 |
盗塁 |
盗刺 |
犠打 |
犠飛 |
四球 |
死球 |
三振 |
併殺 |
失策 |
打率 |
|
17 |
横浜 |
6 |
21 |
1 |
7 |
0 |
0 |
0 |
7 |
2 |
1 |
0 |
0 |
1 |
1 |
0 |
4 |
0 |
1 |
.333 |
|
通算 |
1年 |
6 |
21 |
1 |
7 |
0 |
0 |
0 |
7 |
2 |
1 |
0 |
0 |
1 |
1 |
0 |
4 |
0 |
1 |
.333 |
|
|
クライマックスシリーズ打撃成績
|
チーム |
試合 |
打数 |
得点 |
安打 |
二塁 |
三塁 |
本塁 |
塁打 |
打点 |
盗塁 |
盗刺 |
犠打 |
犠飛 |
四球 |
死球 |
三振 |
併殺 |
失策 |
打率 |
|
16 |
横浜 |
7 |
26 |
3 |
8 |
0 |
0 |
0 |
8 |
1 |
0 |
0 |
0 |
0 |
2 |
0 |
4 |
1 |
0 |
.308 |
17 |
横浜 |
8 |
27 |
5 |
7 |
2 |
0 |
0 |
9 |
2 |
0 |
0 |
0 |
0 |
1 |
1 |
8 |
0 |
0 |
.259 |
|
通算 |
2年 |
15 |
53 |
8 |
15 |
2 |
0 |
0 |
17 |
3 |
0 |
0 |
0 |
0 |
3 |
1 |
12 |
1 |
0 |
.283 |
|
|
二軍打撃成績
|
チーム |
試合 |
打数 |
得点 |
安打 |
二塁 |
三塁 |
本塁 |
塁打 |
打点 |
盗塁 |
犠打 |
犠飛 |
四死 |
三振 |
併殺 |
失策 |
打率 |
|
15 |
横浜 |
17 |
64 |
5 |
13 |
2 |
0 |
1 |
18 |
6 |
0 |
2 |
0 |
6 |
18 |
2 |
2 |
.203 |
18 |
横浜 |
13 |
46 |
4 |
11 |
1 |
0 |
0 |
12 |
1 |
0 |
1 |
0 |
3 |
11 |
1 |
0 |
.239 |
19 |
横浜 |
57 |
188 |
15 |
48 |
5 |
0 |
5 |
68 |
20 |
0 |
4 |
0 |
18 |
22 |
6 |
8 |
.255 |
21 |
横浜 |
24 |
70 |
8 |
17 |
2 |
0 |
0 |
19 |
3 |
1 |
0 |
0 |
8 |
14 |
3 |
0 |
.243 |
22 |
横浜 |
29 |
90 |
6 |
17 |
3 |
0 |
0 |
20 |
3 |
0 |
0 |
1 |
5 |
21 |
0 |
1 |
.189 |
|
通算 |
5年 |
140 |
458 |
38 |
106 |
13 |
0 |
6 |
137 |
33 |
1 |
7 |
1 |
40 |
86 |
12 |
10 |
.231 |
|
|
|