:肘痛:
05年にアトランタ・ブレーブスから4位指名(全体の137番目)を受けて契約。3年目の07年にAで29試合に登板して防御率は5.25ながら11勝6敗を記録(先発は11試合)。翌08年にA+、09年にAA、10年にAAAと順調にステップアップしたが、11年は開幕直後に右肘痛を発症して離脱。全治6週間予定のクリーニング手術を受けたが、手術から数か月が経過しても痛みは引かず同年に復帰することはできなかった。
:肩痛:
オフシーズンには再手術を受ける事になったが手術室に運ばれる際に病院が停電となり手術は中止となった。数日後の手術が検討されたが、ブロードウェイは肘痛の原因が不明な状態での再手術に懸念を持ち、自らの血液から抽出した多血小板血漿を注射するPRP療法と腕の動きの改善で対処を行うことを選択。パドレスと契約した翌12年には痛みが投げれるレベルになり、5月下旬にAAで復帰して33試合に登板。翌13年にはナショナルズと契約してAAで防御率2.70(12試合)、AAAで防御率2.28(18試合)というMLB昇格が期待される成績を残したが、肩痛を発症して再び離脱。ジャイアンツと契約した翌14年も夏場にマイナーでの8試合登板のみに終わった。
:MLBデビュー:
15年には同年の初登板となった4月11日に8回から2イニングを投げて5奪三振を記録(試合は延長18回表に3点を勝ち越されたが、その裏に"捕手"を打ち込んで逆転サヨナラ)するなど開幕からAAAで好投を続けて40試合の登板で防御率0.93、48.1イニングで被安打25、8四球、64奪三振という圧倒的な成績を記録。6月12日にMLBへ初昇格を果たすと、翌13日のダイヤモンドバックス戦で7回表に初登板のマウンドへ上がってジェイク・ラムから初奪三振を記録するなど1回無失点でMLBデビューを飾った。
:球団記録:
初めてのMLB体験は短い期間で終わったが、7月3日の降格後にはAAAで17試合に登板して20.2イニングで1失点を記録してシーズン終盤にMLB再昇格を果たした。だがMLBでは21試合に登板して防御率5.19と期待された穂dの成績は残せなかった。翌16年は4月19日にMLBに昇格したが、29日のメッツ戦で3回裏に3安打3四球という突然の乱調で降板した先発のジェイク・ピービーに代わって無死二、三塁というピンチでの緊急登板となったが、ツーベース、四球、投手のスリーバント失敗を挟んで、ライト前、レフト前、ライト前とメッツの勢いに飲み込まれて失点を重ねてしまうと、なおも一死満塁からセスペデスにレフトスタンドへグランドスラムを叩き込まれてメッツの球団記録となるイニング12失点に貢献してしまって翌日にマイナー降格となった。
:横浜入団:
マイナー降格後はイニング数を上回る奪三振を奪ったものの、その奪三振を上回る被安打を記録するなど前年のような圧倒的な成績は残せずMLB昇格が厳しくなった7月に横浜DeNAベイスターズと契約した。平均で150キロを超えるストレートと高速スライダーが武器、サイドスロー気味という事もあって右打者は得意にしているが半面左打者には打ち込まれる試合も多い。
:初登板:
来日後は二軍で調整登板を続けたが7試合の登板で防御率6.75と結果が残せなかったが、リリーフ陣に披露の色が見えてきた事もあって8月17日に一軍へ昇格すると、同日のヤクルト戦で7回裏に初登板のマウンドへ上がったが、「本当に160キロが出るのか?」という注目の中で投じた初球をバレンティンにレフトスタンドへ叩き込まれてしまう(史上7人目の初球被弾)、なおもバント捕球で悪送球を投じてピンチを背負うと、スクイズや上田のツーランなどでイニング5失点という衝撃的なデビュー戦となった。翌日のスポーツ新聞にはブロードウェイという名前から「”初公演”で5失点」といった見出しが並んだ。 |
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