ベイスターズ記録あと何?

サイト内検索>  
ホーム ニュース 通算記録 シーズン記録 日本記録 MLB記録 選手名鑑 タイトル 球団歴史 ドラフト

選手名鑑

■>打者:あ:
■>打者:か:
■>打者:さ:
■>打者:た:
■>打者:な:
■>打者:は:
■>打者:まや:
■>打者:らわ:

■>投手:あ:
■>投手:か:
■>投手:さ:
■>投手:た:
■>投手:な:
■>投手:は:
■>投手:まや:
■>投手:らわ:

■>監督
■>その他

■>大洋ホエールズ
■>横浜大洋
■>横浜ベイスターズ
■>全選手
MLB記録 タイトル

関連リンク


水野 滉也



106
名前 みずの こうや
生年月日 1994年6月1日
経歴 札幌日本大学高―東海大北海道―横浜(16年D2位)
入団年 16年ドラフト2位
在籍年 17年−19年
背番号 17年[13]:18年−19年[106]
投打 右投げ右打ち
守備 投手
野球に絞る
2歳の時からアルペンスキーを始めて、小2の時に「月寒アパッチャーズ」で野球を始めた。アルペンスキーで北海道大会2位に輝くなどスキーと野球を両立していたが小4の時に松坂 大輔に憧れて野球に専念するようになった。中学時代は豊平東シニアでプレー。札幌日大高では1年の時に右ひじを痛めた事をきっかけにサイドスローに転向「痛みが出なくなって球に勢いもあった」、3年夏には南北海道大会で決勝まで進出したが札幌第一に敗れて甲子園出場はならなかった。

MVP
東海大北海道に進学すると、1年春から起用されていきなり3勝1敗を記録して新人王に選出されたが、練習を疎かにしていたことが響いて球速/キレが低下していった。3年の全日本大学野球選手権では2回戦の早稲田戦で打ち込まれて2.0回でKOされたが、この事をきっかけにしてウエイト・トレーニングなどの自主練習にも取り組むようになり、翌4年春のリーグ戦で5勝0敗、防御率0.21という圧倒的な成績を残して最高殊勲選手に選出された。またシンカー気味に落ちるサイドスローからのフォークを覚えた事も飛躍のきっかけとなった。

16奪三振
全日本大学野球選手権では初戦の環太平洋大戦で147球を投じて3失点完投を記録すると、中1日で迎えた2回戦の立命館大戦でサイドスローからの145キロとフォークボールで16奪三振を奪って5安打完封勝利、強豪相手の快投で一気に評価を高めた。日米大学野球選手権にも選出された。4年秋にも5勝0敗、防御率1.13で2季連続最優秀選手、北海学園大戦ではノーヒット・ノーランも達成した。同年のドラフト会議で横浜から2位指名を受けて入団した。

初登板も
開幕は二軍で迎えたが4月23日にイースタン・リーグの日本ハム戦で8回を1安打に抑え込んで、5月3日の巨人戦で初登板初先発のチャンスを手に入れた。初回は坂本を見逃し三振に抑えるなど三者凡退に抑えたが、2回裏、3回裏と失点して5回途中5安打、3四死球で3失点で降板、翌日に抹消となったが、その後の右肩痛を発症、投球練習は再開したが登板できる状態には戻らず同年オフには治療に専念させるために年俸は現状維持での育成契約となり、当初は保存治療を選択したが年明けのブルペン投球で痛みが残っていたため右肩のクリーニングを手術を受けた。

::
リハビリで2軍でも登板できずにシーズンを終えると、翌19年は開幕直前に右ひじを手術して2年連続で2軍でも投げることはできず戦力外通告を受けて現役を引退した。


初記録
初登板 2017年5月3日巨人戦
初勝利
初奪三振 2017年5月3日巨人戦:坂本から
初完投
初セーブ


  投球成績
チーム 登板 完投 完封 勝利 敗戦 S 回数 安打 本塁 四球 死球 三振 暴投 ボーク 失点 自責 防御率
17 横浜 1 0 0 0 1 0 4.2 5 0 2 1 5 0 0 3 3 5.79
通算 1年 1 0 0 0 1 0 4.2 5 0 2 1 5 0 0 3 3 5.79


  打撃成績
チーム 試合 打数 得点 安打 二塁 三塁 本塁 塁打 打点 盗塁 盗刺 犠打 犠飛 四球 死球 三振 併殺 失策 打率
17 横浜 1 2 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 1 0 0 .000
通算 1年 1 2 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 1 0 0 .000


  二軍投球成績
チーム 登板 完投 勝利 敗戦 S 回数 安打 本塁 四死 三振 失点 自責 防御率
17 横浜 3 0 1 0 0 14.0 5 0 5 14 1 1 0.64
通算 1年 3 0 1 0 0 14.0 5 0 5 14 1 1 0.64