:18巡指名も:
アイルランド系の父親とメキシコ系の母親のもとに生まれる。両親は虐待を受けた子供たちを支援するボランティア活動などを熱心に行い、南アフリカに両親をエイズで亡くした子供達のために孤児院も開設した。ソリスはアグアフリア高で398奪三振を記録してドラフトでダイヤモンドバックスから18巡目指名を受けたがサンディエゴ大へ進学した。
:故障:
サンディエゴ大では1年時に7度の先発を含む17試合に登板して3勝1敗、防御率3.83という好成績を残し、2年時には背中を痛めてしまったが、3年時には復活して92イニングを投げて9勝2敗、防御率3.42を記録。ドラフトでナショナルズから2巡目指名(全体51位)という好評価を受けて100万ドルで契約したが、11年のシーズン最終盤に肘を故障、トミー・ジョン手術を受けて翌12年はリハビリに費やした。
:いきなりのメジャー昇格:
手術から1年以上が経過した13年の5月に復帰したが、肩の違和感で再び離脱するなど同年は13試合登板に留まった。翌14年も肘の違和感に苦しんで4つのマイナーリーグで合計5試合登板と満足に投げれない日々が続いた。この時点ではメジャーどころかAAでも1試合だったが、翌15年には4月29日にAAAを飛び越えてMLBに初昇格、翌日のメッツ戦の5対2とリードした7回裏というソリスも予想していなかった重要な場面でMLBデビュー、強打者カーティス・グランダーソンから見逃しで初奪三振を記録するなど三者凡退に抑えると、8回裏も続投して無失点に抑える素晴らしいデビュー戦となった。
:シーズン終盤に再昇格:
続く5月5日のマーリンズ戦では先発のストラスバーグが3回で緊急降板したため、4回表からのロングリリーフで内野安打1本に抑える好リリーフを見せてイチローもショートゴロに打ち取った。だが12日のダイヤモンドバックス戦で4失点、続く試合でも失点してマイナー降格となった。9月に再昇格を果たすと好投を続けて18試合の登板で防御率3.38という好成績を残した。
:ポストシーズンで好投:
16年は4月27日にMLBへ昇格すると5月10日からの10試合で13.2イニングを投げて無失点に抑えるなど一時は防御率1点台前半を記録、ひざ痛と肩の故障で2度戦線から離脱しながらも37試合に登板して防御率2.41という好成績を残した。また6月5日のレッズ戦では3イニングで6奪三振を奪うなどイニング数を超える47奪三振を記録、ポストシーズンでもドジャースとの地区シリーズで5戦すべてに登板して4.2回を1失点に抑えた。
:4試合連続失点:
17年はひじの故障で開幕早々に故障者リスト入り、7月に復帰したが4試合連続失点を喫して防御率14.73まで数字を悪化させた。8月24日のアストロズ戦では5対3と勝ち越して迎えた10回裏を任されると、いきなりホームランで1点差に迫られたがグリエルをライトフライに打ち取るなど後続は抑えて初セーブを記録。9月5日のマーリンズ戦では1点リードの7回裏に登板し、味方のミスで二死二塁のピンチを背負ったが、代打イチローをセカンドゴロに打ち取って勝利に貢献、9月23日のメッツ戦で3対3の同点で迎えた9回裏に登板して三者凡退に抑えると、10回表にマーフィーが勝ち越し弾を放って勝利投手になるなどシーズン終盤には11試合連続無失点で数字を上げたが30試合登板で防御率5.88に留まった。
:横浜入団:
18年は自己最多の56試合で起用されたが左打者に被打率.329と打ち込まれたことが響いて防御率6.41と好結果は残せず翌19年の3月9日に自由契約となった。3月11日にパドレスとマイナー契約を結ぶとAAAで19試合に登板して防御率3.57を記録。5月31日に横浜への入団が発表された。珍しい左投げ右打ち、非常に高い奪三振率を残す反面で四球や暴投もかなり多い。
:史上73人目:
6月7日に行われた入団会見では「ニックネームはビッグアンガス。牛からとっていて簡単に言えば大きな肉の塊」と196センチ114キロという巨漢をアピールした。7月7日の巨人戦で初登板、最初の打者である山本にソロを被弾して史上73人目の初登板第1打者被弾を記録した。続く陽にセンター前、中島に大飛球(センターフライ)と冷や冷やさせたが牽制球で刺して1失点で切り抜けた。10日のヤクルト戦では7回裏二死二塁で登板も代打雄平に勝ち越し打を浴びてしまった。15日の広島戦では2回を無安打1四球に抑えるなど4試合に登板して防御率2.08と光るものも見せたが外国人枠の関係で抹消となると左肩の治療で帰国しそのまま退団となった。
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21年には東京五輪にメキシコ代表として出場予定だったが、出発の前日にコロナウイルス陽性との診断を受けて夢舞台に立つことはできなかった。 |
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