進藤 拓也
43
|
名前 |
しんどう たくや |
生年月日 |
1992年7月16日 |
経歴 |
西仙北高−横浜商科大−JR東日本−横浜(16年D8位) |
入団年 |
16年ドラフト8位 |
在籍年 |
17年−21年 |
背番号 |
17年−21年[43] |
投打 |
右投げ右打ち |
守備 |
投手 |
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|
:中学時代は登板なし:
コンビニまで車で20分という秋田の雄大な大自然の中で育ち、小学校3年から野球を始める。中学時代は1回戦負け常連の軟式野球部で控え投手兼ファーストの控えというプロを意識できるレベルではなく公式戦での登板もなかった。夏になると練習後に川で泳いだり、イワナやヤマメを釣って楽しんだ。
:甲子園には届かず:
「ここなら試合に出られそう」と先生から言われたこともあって自宅に最も近い高校の西仙北高に進学したが、1年時の野球部監督が秋田経法大付を甲子園に導いた鈴木
寿監督だったため、冬場に体育館で1日3時間の走り込みを行うなど中学時代とはけた違いの練習量で鍛え上げて入学時には110キロだった球速が2年秋には138キロまで上がり、変化球もスライダーを習得してエースを任されるようになった。3年春には142キロを記録し、夏には県大会で40イニング連続無失点を記録、準決勝の能代商戦でサヨナラ負けとなったが西仙北高を初の秋田県ベストまで導いた。
:横浜へ:
3年夏の試合を秋田でキャンプを張っていた横浜商科大の関係者が見ていた事が縁になって進学、入学直後に暖かい横浜で飛ばしすぎて肩を痛めて半年間戦列から離れイップス気味にもなったが、その間に走り込みを重ねて球速がアップした。また1学年上で日本代表に選出されていた岩貞から全国レベルのトレーニングやメンタル面を学んだ。3年秋には横浜スタジアムで150キロを計測、翌春にはDeNA2軍とのプロアマ交流戦に登板したが5回に集中打を浴びて5失点とスカウトの前でアピールをする事はできなかった。
:インコース:
岩貞と西宮というプロ入りする二人が先輩にいたこともあって中々チャンスを得られず、ようやくエースとなった4年春には開幕戦で2回KOとなり、「何がダメだったのか考えろ」と草むしりを命じられた。考え続けるうちにインコースへ投げていなかったことに気付き、インコースにしか投げないという極端な配球でインコースへの苦手感を取り除いたが、同春0勝4敗に終わるなど大学時代は3勝5敗に留まった。
:サイドスロー:
プロ志望届は提出せずに社会人の名門JR東日本へ進むとトレーニングと食事を見直して体重が20キロ増加、都市対抗野球で153キロを計測して注目を集めた。だが2年目に入るとテークバックを遅らせようと意識するあまり投球フォームがバラバラになり、堀井監督からの「オーバースローのままなら試合に使わない」という言葉で都市対抗予選の1週間前にサイドスローに転向、すると球速がサイドスローにもかかわらず148キロを計測するなど飛躍、リリーフで活躍を続けて同年のドラフト会議で横浜から8位指名を受けて入団した。
:開幕一軍も:
ルーキーイヤーはラミレス監督から高い期待を受けてドラフト8位指名ながら開幕一軍を勝ち取った。だがヤクルトとの開幕戦で2対3とリードを許した7回裏一死満塁で初登板のマウンドへ上がったが、初球を中村にはじき返されてセンターオーバーのツーベース、続く西浦にも犠牲フライを運ばれて試合を決められてしまった。続く2試合は無失点に抑えたが、4月7日中日戦では1点をリードした7回裏一死一、二塁で登板もビシエドに同点タイムリー、平田に四球、京田に押し出し死球と自滅気味に逆転許し、続く阪神戦でも3四球を与えるなど制球難に苦しみ、5月7日のヤクルト戦で4失点を喫して登録抹消となった。
:チャンス掴めず:
18年はオープン戦で5試合に登板して防御率1.69を記録したが開幕一軍を逃すと、イースタンリーグで33試合に登板して防御率4.04を記録したが1軍昇格は果たせなかった。19年は4月24日に昇格すると30日のヤクルト戦でショートスターターとして初先発を任されたが2回表に4安打を集中されて2点を失うと、3回表には申告敬遠後の初球で中村のスリーランを浴びるなど4点を追加されて試合を壊してしまった。続く4日の阪神戦では5回裏に無死一、二塁で登板も四死球で押し出して追加点を与えて登録抹消となった。シーズン終盤の9月27日巨人戦では同点の5回裏二死満塁で登板も炭谷に満塁ホームランを被弾するなどアピールすることはできなかった。
:引退:
20年は8月16日に昇格したが3試合の登板で抹消、10月10日に再昇格を果たすと同日の阪神戦で2回裏の一死満塁でスクランブル登板、糸井、大山を連続三振を奪って無失点で切り抜けると、2.2回のロングリリーフで1失点に抑えて勝利に貢献した。だが次戦でホームランを被弾して抹消となり、同年も5試合の1軍出場に留まった。オフに右ひじのクリーニング手術を受けた。21年は8月27日に初昇格、31日の広島戦で3回表一死一、二塁でマウンドへ上がったが鈴木誠に死球、坂倉に押し出し四球、曾澤に押し出し死球と崩れて試合を立て直せなかった。同年オフに戦力外通告を受けて現役を引退した。 |
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初記録 |
初登板 |
2017年3月31日ヤクルト戦 |
初勝利 |
|
初奪三振 |
2017年4月5日巨人戦:亀井から |
初完投 |
|
初セーブ |
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|
|
|
|
投球成績
|
チーム |
登板 |
完投 |
完封 |
勝利 |
敗戦 |
S |
回数 |
安打 |
本塁 |
四球 |
死球 |
三振 |
暴投 |
ボーク |
失点 |
自責 |
防御率 |
|
17 |
横浜 |
12 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
15.0 |
18 |
0 |
10 |
2 |
10 |
0 |
0 |
7 |
7 |
4.20 |
19 |
横浜 |
5 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
7.0 |
10 |
2 |
6 |
2 |
5 |
0 |
0 |
7 |
7 |
9.00 |
20 |
横浜 |
5 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
5.1 |
5 |
1 |
3 |
0 |
8 |
0 |
0 |
3 |
3 |
5.06 |
21 |
横浜 |
2 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
1.0 |
0 |
0 |
1 |
2 |
1 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0.00 |
|
通算 |
4年 |
24 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
28.1 |
33 |
3 |
20 |
6 |
24 |
0 |
0 |
17 |
17 |
5.40 |
|
|
打撃成績
|
チーム |
試合 |
打数 |
得点 |
安打 |
二塁 |
三塁 |
本塁 |
塁打 |
打点 |
盗塁 |
盗刺 |
犠打 |
犠飛 |
四球 |
死球 |
三振 |
併殺 |
失策 |
打率 |
|
17 |
横浜 |
12 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
.000 |
19 |
横浜 |
5 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
.000 |
20 |
横浜 |
5 |
1 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
1 |
0 |
0 |
.000 |
21 |
横浜 |
2 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
.000 |
|
通算 |
4年 |
24 |
1 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
1 |
0 |
0 |
.000 |
|
|
二軍投球成績
|
チーム |
登板 |
完投 |
勝利 |
敗戦 |
S |
回数 |
安打 |
本塁 |
四死 |
三振 |
失点 |
自責 |
防御率 |
|
17 |
横浜 |
26 |
0 |
1 |
0 |
1 |
38.1 |
28 |
0 |
36 |
37 |
20 |
19 |
4.46 |
18 |
横浜 |
33 |
0 |
3 |
1 |
0 |
42.1 |
42 |
3 |
23 |
41 |
20 |
19 |
4.04 |
19 |
横浜 |
36 |
0 |
2 |
1 |
2 |
42.2 |
28 |
1 |
27 |
62 |
14 |
13 |
2.74 |
20 |
横浜 |
20 |
0 |
2 |
2 |
10 |
21.0 |
19 |
0 |
17 |
27 |
8 |
6 |
2.57 |
21 |
横浜 |
29 |
0 |
0 |
0 |
0 |
29.2 |
30 |
3 |
15 |
35 |
11 |
10 |
3.03 |
|
通算 |
5年 |
144 |
0 |
8 |
4 |
13 |
174.0 |
147 |
7 |
118 |
202 |
73 |
67 |
3.47 |
|
|
|