:MLBデビュー:
11年にロイヤルズから24巡目指名を受けて入団。3年目の13年に飛躍してA+で25試合の登板で防御率1.96、AAでも12試合の登板で防御率1.50という好成績を残した。翌14年には夏場までにAAAで34試合に登板して防御率4.08を記録し、7月16日にジェイソン・フレイザーとのトレードでテキサス・レンジャーズに移籍、9月4日にMLB初昇格を果たすとMLBデビュー戦となった同日のマリナーズ戦で2イニングをパーフェクトに抑えるなどシーズン終了までに9試合に登板して防御率0.96という好成績を残した。
:大量失点:
15年はMLBでキャリアハイとなる27試合に登板したが、7月4日のエンゼルス戦で6回表から登板も2死球に暴投も絡んで失点を重ねると、C・J・コロンのスリーランを浴びて二死しか取れずに6失点KO、8月26日のブルージェイズ戦でも6回表にエンカーナシオンのグランドスラムなどで一死も取れずに5失点と大量失点が響いて防御率9.00という成績に終わった。同年オフにトレードでシカゴ・カブスに移籍。
:世界一:
16年はAAAで35試合に登板して1勝0敗11セーブ、防御率0.75、イニング数36を大幅に上回る59奪三振という好成績を残し、MLBでも6月25日のマーリンズ戦では6回裏からマウンドに上がってイチローをセカンドゴロに打ち取るなど16試合に登板して防御率5.48を記録、108年ぶりの世界一に輝いたシカゴ・カブスの一員として歴史に名前を残した。
:レフト:
16年の6月28日レッズ戦では13回裏に野手を使い切ったカブスがレフトに投手のウッズを起用すると、14回表のマウンドへ上がったパットンがフィリップスをセンターフライに打ち取ったところで知将マドン監督が動いてウッズが本来の投手、パットンがレフトというピッチャーチェンジを実行。さらにウッズがブルースをファーストゴロに打ち取ると、再びウッズがレフトへ回り、マウンドに戻ったパットンがデュバルをセカンドゴロに打ち取って三者凡退を記録した。15回表には1点を勝ち越してなお一死満塁でパットンに打席が回ると代打でピッチャーのハメルが起用されるなどマドン・マジックでカブスが接戦をものにした。なおパットン、ウッズのレフトでの守備機会は訪れなかった。
:横浜移籍:
17年に横浜ベイスターズへ移籍すると開幕から8試合連続無失点を記録、4月16日のヤクルト戦からは不調の山崎康に代わって抑えを任されたが、抑え2試合目の18日広島戦で4安打を集中されて逆転サヨナラ負け、21日の中日戦で平田に同点ソロ、30日の広島戦で4安打2四死球と抑えでは不安定なピッチングが続いた。5月にはチーム批判とも受け取れるインタビューが報道されて、その直後の阪神戦で2失点を喫するなど一時は防御率4点台まで落ち込んだが、5月下旬から中継ぎに回ると9戦連続で自責0を記録、球宴明けからは29試合に登板して防御率0.96という圧倒的な成績を残してチームのCS進出に大きく貢献した。CSから日本シリーズにかけては14試合中11試合に登板して防御率0.00を記録、同年にはペナントとポストシーズンで計73試合に登板した。
:お立ち台:
18年は夫人の出産を目前に控えた4月7日に4四球の大乱調、11日には3失点を喫したが19日の巨人戦では一死一、二塁のピンチで救援して坂本を見逃し三振、阿部をショートゴロに打ち取ってお立ち台に上がった。だが5月11日のヤクルト戦でも3失点を記録するなど春先は今一つの内容で外国人選手が軒並み好調だったこともあって20日に登録抹消となった。6月5日に昇格すると同月に10試合に登板して防御率1.69を記録、7月4日の巨人戦では1点差に追い上げられて、なおも無死一塁の7回裏にリリーフして坂本を空振り三振、田中にはレフト前ヒットを許したが、マギーを空振り三振、岡本をセカンドゴロと中軸を抑えてお立ち台に上がった。
:退場:
9月14日の巨人戦では自らのベースカバーの遅れから失点すると、なおも続いたピンチで岡本への内角球が死球と判定されてスイングだと抗議、ラミレス監督が求めた死球かどうかのリプレー検証では明らかにスイングをしていたが、ハーフスイングはリプレー検証の対象外となるため判定は覆らず激高したパットンは審判員に詰め寄って退場となった。翌日の巨人戦では大歓声の中で登板して三者凡退に抑え込んで見せた。前年同様に球宴明けからは30試合の登板で防御率1.82を記録するなどCS争いの中で好投を続けた。シーズンを通しても58試合に登板して防御率2.57、リーグ2位の33ホールドを記録。オフにはMLB復帰との報道もあったが球団のリリーフ投手としては異例の2年契約で残留した。
:炎上:
19年は開幕間もない4月2日のヤクルト戦で上茶谷の初登板初勝利を消すイニング4失点、翌日のヤクルト戦でも同点スリーランで3失点という連日の大誤算、9日の阪神戦でも4失点を喫すると、19日の広島戦では不運なボール判定でピンチを招いてポテンヒットでサヨナラ負けとなり、試合後にはSNSで審判批判を行い、29日には胃腸炎で登録抹消という厳しい一か月間となった。
:冷蔵庫:
5月10日に一軍へ復帰すると17日のヤクルト戦で好リリーフを見せてお立ち台に上がるなど6試合連続無失点に抑えたが、5月31日から3試合連続失点を喫するなど本来の状態には戻らず、7月19日の中日戦で2失点、翌日にも2失点、8月3日の巨人戦では8回表を任されたが3連打を浴びて一死も取れずに降板、ベンチに戻ると怒りを制御できず冷蔵庫を右手、左手、右手と3発のパンチで殴りつけて右手を骨折、500万円の罰金と野球振興活動への参加の処分が課された。手術から2か月後のCSには何とか間に合わせて、ファースト第2戦で復帰登板を果たしたが球速が上がらず一死しか取れずに降板となった。
:冷蔵庫:
コロナウイルスの影響で開幕が延期となった20年は開幕間もない7月1日の巨人戦で4者連続奪三振を奪う圧巻のパーフェクトリリーフで勝利投手となったが、翌日の巨人戦では3連続タイムリーを打たれて3失点、8日の広島戦では堂林に逆転満塁ホームランを被弾、24日の広島戦でも打ち込まれて2失点、続く26日の広島戦でも堂林、会沢に連続被弾しと大量失点が重なって防御率が7.20まで上昇した。だが8月に入ると月間12試合に登板して10.2回で被安打6、3四球と大幅に数字を改善した。また27日の広島戦では1点をリードした6回表の一死一、三塁でリリーフすると、松山、田中を打ち取ってピンチを脱出、お立ち台では偶然にもノジマの冠ゲームだったためヒーロー賞として冷蔵庫が贈られた。
:2668日ぶり:
9月7日の巨人戦ではラミレス監督の発案でオープナーを任されて、自身2668日ぶりとなる先発のマウンドに上がったが、初回に味方の拙守もあって3失点を喫すると、2回裏も続投となったが気持ちが切れたのか投手への四球、伏兵松原に初本塁打となるスリーラン、岡本にツーランと滅多打ちにあって1.1回7安打2四球で9失点という悲劇的な一日となった。同試合で首位巨人に3タテを許して優勝が絶望的になった事もあってファンに強烈な印象を残した。だが次戦からはリリーフに戻って16試合連続無失点を記録、10月27日の巨人戦で外国人選手3人目の通算100ホールドを達成した。同年は先発試合の9失点が響いて防御率は4.92と苦しんだが、短縮シーズンの中でリーグトップの57試合に登板、奪三振率11.04という高い三振奪取率も残したが同年限りで退団となった。
:メジャー復帰:
21年はレンジャーズとマイナー契約を結んだ。開幕メジャーは果たせなかったがAAAで11試合に登板して防御率0.00を記録して6月9日に5年ぶりにメジャーリーグへ復帰、同日のジャイアンツ戦で1対2で迎えた9回表に登板、ソラノをライトフライ、ダガーをサードゴロ、デュボンを空振り三振と見事に三者凡退に抑えてチームの逆転勝利に貢献した。同月に10試合に登板して1失点に抑えるなど好投を見せて評価を高めると、7月31日のマリナーズ戦では1点リードの9回表を任されたがフランスのソロで追いつかれると、イニングまたぎとなった10回表にも失点を喫したが、その裏にハイムが逆転サヨナラツーランを叩き込んでパットンに5年ぶりの白星が記録された。
:メジャー初セーブ:
8月2日のエンゼルス戦で再びセーブシュチュエーションの9回表を任されると三者凡退に抑えてメジャー初セーブを記録、同年にMVPを受賞するエンゼルスの大谷に日本中が沸いていた時期だったこともあり日本でも注目を集めた。8月10日のマリナーズ戦でも抑えを任されたがイニング3四球目となる押し出し四球を出して降板するなど抑えに定着することはできなかった。9月4日のエンゼルス戦では大谷にライト前ヒットを打たれたが、6日の再戦ではショートフライに打ち取って雪辱を果たした。同年には42試合に登板して防御率3.83というキャリアハイの成績を残した。 |
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