須田 幸太
20
|
名前 |
すだ こうた |
生年月日 |
1986年7月31日 |
経歴 |
土浦湖北高校−早稲田大学−JFE東日本−横浜(10年D1位)−JFE東日本 |
入団年 |
10年ドラフト1位 |
在籍年 |
11年−18年 |
背番号 |
11年−18年[20] |
投打 |
右投げ右打ち |
守備 |
投手 |
|
|
:センバツ出場も:
小学校1年の時にクラブチームの監督をやっていた親戚の誘われて野球を始める。3年時から父親がチームのコーチになった事で練習量が増加して地力をつけた。家から近く強豪校でもある土浦湖北高に受験勉強を頑張って進学、1年夏には139キロを記録、2年秋に関東大会で優勝を飾ってセンバツに初出場、だが右ひじを痛めた状態で臨んだセンバツでは初戦の済美戦で鵜久森にツーランを浴びるなど大敗した。3年夏は県大会3回戦で敗退。
:若獅子賞:
早稲田大学では通算8勝3敗ながら4年春には24.2回を投げて防御率0.73で最優秀防御率を獲得。通算でも防御率1.74という好成績を残している。JFE東日本に入社するとエースとして活躍。1年目の都市対抗にはHondaの補強選手として出場すると、抑えとして起用されて胴上げ投手になり新人王にあたる若獅子賞に選出された。翌年にはチームを都市対抗に導きベスト8まで進出した。同年のドラフト会議で横浜から1位指名を受けて入団した。
:初登板:
開幕は二軍で迎えたが4月22日に昇格すると同日の阪神戦に先発予定だった眞下が虫垂炎で離脱したため、急遽先発で起用されることになった。午後1時に先発を告げられたという須田は3回までに5安打、3四球という苦しい立ち上がりとなったが何とか2点で抑えると、4回裏、5回裏は三者凡退に打ち取るなど力強いストレートで阪神打線を抑え込んで6回2失点という上々のデビュー戦を飾った。
:初勝利:
6月6日の西武戦では3回まで三人ずつで打ち取ると、4回表には一死一、二塁、5回表には一死一三塁というピンチを背負ったが後続を打ち取って無失点で抑える。先制した直後の6回表には四球がらみでピンチを招くと代打石井義のタイムリーで同点に追い付かれて須田はこの回限りでマウンドを降りたが、その裏にハーパーの犠牲フライで勝ち越しに成功して、須田に初勝利が記録された。6月26日のヤクルト戦では3回表に自ら先取点につながるライト前ヒットを放つと、投げては6イニングを4安打、4四球で無失点に抑えて2勝目を記録した。
:9対0から追い付かれる:
8月17日のヤクルト戦では初回に打線が大爆発。二死一、二塁からハーパー、金城、藤田、黒羽根と4者連続タイムリー、須田も内野安打で続くと下園がスリーラン、石川がレフト前、スレッジがライト前と球団記録にあと1に迫る8連続安打で一挙に8点を奪った。4回表にも1点を追加して9対0と楽勝ムードだったが、その裏に須田が連続四球でピンチを作るとバレンティンのスリーランなどで4点を返されてしまう。5回表に下園のタイムリーで突き放したが、その裏に須田が連打と四球で無死満塁というピンチを作って降板すると、リリーフ陣も流れを変えることは出来ず10対10の同点に追い付かれて、まさかの引き分けに終わってしまった。
:2登板:
12年は春季キャンプで左脇腹を痛めて離脱。6月18日の日本ハム戦でようやく一軍に昇格したが3回表に送りバントの処理を内野手に譲ってピンチを広げると、そこから中田のスリーランなどで4失点。続く26日のヤクルト戦では味方が同点に追い付いた直後の5回表に先頭のミレッジにストレートの四球を与えるなど、4.1回で5四球という乱調で降板となり登録抹消。結局同年は再昇格は果たせずわずか2試合の登板に終わった。
:リベンジ:
13年も二軍スタートとなったが、イースタンリーグで好成績を残して6月26日に一軍昇格。負ければ最下位転落となる7月4日のヤクルト戦で先発を任されると「体力が尽きるまで全力でいこう」と飛ばしに飛ばした須田は2回表から6イニング連続ノーヒットを記録するなどヤクルト打線を完璧に抑え込んで3安打、3四球で初完投初完封を達成。お立ち台に上がった須田は2年前のヤクルト戦に触れて「あの試合が自分の中でずっと心の中に残っていて、いつかヤクルトに仕返ししてやるぞって気持ちがずっとありました」とリベンジにかけた思いを語った。その後も先発を任されると9月8日にCSを争う広島との直接対決で6回1失点に抑えて勝利投手になるなど打線の援護に恵まれたこともあって6勝3敗、防御率4.83を記録した。
:0勝:
14年は5月16日に一軍昇格を果たすとロングリリーフとしてまずまずの成績を残していたが、7月1日の中日戦では5安打、1四球と打ち込まれて一死しか取れず降板となり翌日に登録抹消。シーズン最終盤の10月2日の中日戦で先発を任されたが、同点に追いついた直後の3回表に3安打を集中されて3失点KOと役目を果たせなかった。同年は先発陣が充実していた事もあってチャンスが少なく白星を上げる事が出来なかった。
:2年ぶりの勝利:
15年は5月3日に一軍へ昇格して同日の中日戦で6回をソロ2本に抑えて勝利に貢献。続く巨人戦では6回を3安打、無四球で1失点に抑えて開幕から負け無しの5連勝を記録していたルーキー高木勇に投げ勝ったが、リリーフが打たれて白星はならなかった。続く広島戦でも6回をソロ2本に抑えながら白星は得られなかったが、須田は「このチームでCSにいきたい。自分に勝ちがつかなくても試合を作って貢献したい」と話した。すると続く阪神戦では7回途中5失点と打ち込まれたが打線の大量援護を受けて2年ぶりの勝利投手になった。だがブルペンでは最高の状態だったという5月31日のロッテ戦では投じる球がことごとく甘く入って初回に連続本塁打を浴びると、3回裏には5安打を集中されて5失点KOとなり登録抹消となってしまった。
:初セーブ:
8月1日に再昇格を果たすとロングリリーフとして活躍。同月には13試合で20.2回を投げて防御率1.31を記録した。9月5日の巨人戦では6対4で迎えた9回表に登板過多の山崎康に代わって長田が抑えとして起用されたが、1点差とされてなおも一死一、三塁という絶体絶命のピンチを招いて須田が緊急登板、須田は代打アンダーソンを空振り三振に切って取ると、続く堂上との対戦ではカウントが3−2となってから横浜ファンから須田を後押しする大きな拍手が起こる中でライトポール際へのファウルが飛び出すなど球場の盛り上がりが最高潮を迎え、、最後は須田がセンターフライに打ち取って初セーブを記録。須田は大きなガッツポーズで喜びを表現した。またこの試合から正念場でピッチャーに大きな拍手が送られる新しい応援スタイルが横浜に定着し、その後に翌年のCSから広島ファンにも広がっていった。
:便利屋:
「究極の便利屋になる!」と宣言して臨んだ16年はストレートの球威が大幅に増して開幕から中継ぎの柱として活躍、5月24日の中日戦で乱戦の流れを食い止める好救援を見せて勝利投手になると、28日の広島戦では1点リードの7回表二死満塁で今永をリリーフして菊池を空振り三振に抑えて勝利に貢献、7月には実に14試合に登板とブルペンの柱としてチームを支えた。登板過多が不安視された8月に入っても球速がむしろ増し、外角低めへのストレートの出し入れと気迫溢れるマウンドさばきで対戦チームの反撃を断ち続け、その頼もしい姿には抑えの山崎康に並ぶほどの声援が送られるようになった。また登場曲に選んだ嵐の「GUTS
!」に合わせてファンが手拍子を送る姿も定着した。
:1秒も無駄にせず:
8月に10試合に登板して月間防御率1.74を記録すると、9月には月間防御率1.13を記録したが24日間で12登板という酷使がたたったのか9月24日の巨人戦で坂本に投じた6球目で左太ももを痛めたが、ベンチに告げず続投したが続く阿部に初球を投じたところで肉離れを起こして降板、CS出場は絶望的かと思われたが、ケガをした次の日から「1秒も無駄にせずやってきた」という須田は広島とのファイナルステージで後がなくなった第3戦から合流、肉離れは完治していなかったが8回裏の二死満塁という大舞台で復帰のマウンドへ上がると、4番新井をストレートで押し続けて最後はファウルフライを梶谷がファインプレーでアウトにして見事に無失点で抑えてみせた。
:無死満塁を零封:
17年はヤクルトとの開幕戦で登板もいきなり無死満塁のピンチを背負うと一死を取ったが代わった進藤が打ち込まれて失点、そして4月2日のヤクルト戦では10回裏の一死満塁で登板も代打鵜久森に初球をレフトスタンドに叩き込まれて満塁サヨナラ被弾、この時点での防御率は108.00まで跳ね上がった。だが4月8日からは9試合連続無失点を記録し、4月28日の広島戦では6回表の無死満塁でウィーランドをリリーフして、代打西川を空振り三振、代打新井をサードゴロ併殺に打ち取って追加点を阻止し、ベンチでウィーランドに激しく感謝された。
:日本シリーズ進出に貢献:
上り調子かと思われたが5月19日の巨人戦で10回表に敬遠も含む3四球で二死満塁のピンチを作ってマギーのレフト前で敗戦投手になり登録抹消、6月に復帰したが13日のロッテ戦で6回表二死一二塁で登板も押し出し死球などで崩れて1試合で再び登録抹消と本来の制球力と直球の威力を欠いて二軍で長い調整期間を過ごした。だがシーズン最終盤に復帰すると10月3日の中日戦で大歓声の中で無失点に抑えて復活をアピールすると、CSでもファイナル第3戦で6回裏の二死満塁でリリーフしてエルドレッドをレフトフライに打ち取るなど2試合を無失点に抑え、日本シリーズでも初戦で内川からの三振を含む三者凡退を記録した。
:まさかの戦力外:
18年は4月12日に昇格すると同日の巨人戦から3試合連続でノーヒットに抑えたが、22日のヤクルト戦で山田のソロと西浦のタイムリーで3失点となり登録抹消となった。7月10日に再昇格を果たしたが同日の中日戦で伏兵京田に試合を決めるツーランを被弾、24日の中日戦でも3失点を喫して登録抹消となった。その後は再昇格は果たせないまま二軍で秋を迎えると、二軍のシーズン最終戦でマウンドに上がって一死を取った所で降板となり、コーチやチームメイトたちと握手する姿に戦力外を感じ取ったファンからドヨメキが上がった。
:トライアウト:
合同トライアウトを受験し、高校時代から要所でホームランを浴びてきた同級生の鵜久森とも対戦、須田は「最後の打者が鵜久森淳志。 朝会った時に2人で、もう運命だなって言って笑った。
16年前から打たれっぱなしだったけど、今日はほんとに楽しかった。 またどこかで対戦したいなー」と笑顔を見せた。結果はフェンスぎりぎりのセンターフライとなり、須田は「またホームランかと思った。楽しかったです」と答え、鵜久森も「対戦できてうれしかった。向こうはアウトが取れて、こっちはいい当たり。よかったんじゃないかな」と因縁の対決を喜んだ。その後は古巣のJFE東日本に9年ぶりに復帰した。
:長浦で登板:
JFE東日本での練習を開始した際に監督やコーチに投球フォームを指摘されて、2年前に肉離れを起こした左太もも裏をかばうあまり左足の踏み込みが弱くなっていることに気付いてフォームを修正、本来のストレートを取り戻した須田は春先のスポニチ大会でNTT東日本戦で復帰、3イニングを無失点に抑えて復帰戦で勝利投手になった。6月25日には同夏からベイスターズの選手寮が横須賀に移転するため、お別れ試合となった長浦のベイスターズ球場でベイスターズの2軍戦でも登板した。
:都市対抗野球で4戦4勝:
都市対抗野球では前年覇者の大阪ガスとの初戦で0対0の9回から登板して最初の3イニングをパーフェクトに抑えると、「初めての体験」となるタイブレークの12回表無死二、三塁から2点を失ったが、その裏に逆転サヨナラで勝利投手となった。すると第2戦では9回表を三者凡退に抑えるとその裏に逆転サヨナラ満塁弾、第3戦では同点に追いつかれてなおも一死満塁となった7回表をオール直球で後続を抑えると、そのまま9回まで投げ抜いて3連勝、準決勝では7回から4イニング目となった10回表にソロで初失点も、その裏に逆転サヨナラ勝利で4戦4勝という神がかり的な活躍を見せた。
:決勝戦:
決勝戦では早大の同期でもあり横浜でもバッテリーを組んだ細山田を擁するトヨタ自動車と対戦、前日には連絡を取り合って社会人野球を盛り上げようと誓い合った。試合は細山田の同点弾が飛び出すなど接戦となったが、6対4で迎えた7回表に二死二、三塁という一打同点のピンチでマウンドへ上がって多木をサードゴロに打ち取ってピンチを脱出、「野球人生で一番気持ちが乗っていた」という須田は8回表に細山田をインコースでショートゴロに打ち取るなど三者凡退に抑えると、9回表は三者連続三振で締めて大きなガッツポーズを見せた。ヒーローインタビューでは東京ドームに須田コールが巻き起こる中で「これで勝てなきゃ男じゃない」と答えて大歓声を浴びた。
:MVP:
都市対抗野球では14イニングを投げて3安打で1失点、防御率0.64、17三振も奪って元プロ選手としては初めて最優秀選手に贈られる橋戸賞を受賞した。予選からを含めると23イニング以上を投げて無四球という圧巻の内容だった。同年には7勝を挙げて社会人野球ベストナインにも選出された。同年オフに右肘のクリーニング手術を受けたが翌20年はコロナウイルスの影響で日本選手権が中止となるなど苦しい1年となった。21年はコーチ兼任としてプレーし同年限りで現役を引退した。 |
|
初記録 |
初登板 |
2011年4月22日阪神戦 |
初勝利 |
2011年6月6日西武戦 |
初奪三振 |
2011年4月22日阪神戦:城島から |
初完投 |
2013年7月4日ヤクルト戦 |
初セーブ |
2015年9月5日巨人戦 |
|
|
|
|
投球成績
|
チーム |
登板 |
完投 |
完封 |
勝利 |
敗戦 |
S |
回数 |
安打 |
本塁 |
四球 |
死球 |
三振 |
暴投 |
ボーク |
失点 |
自責 |
防御率 |
|
11 |
横浜 |
17 |
0 |
0 |
2 |
6 |
0 |
85.0 |
93 |
16 |
32 |
3 |
52 |
4 |
0 |
52 |
50 |
5.29 |
12 |
横浜 |
2 |
0 |
0 |
0 |
2 |
0 |
9.1 |
12 |
1 |
7 |
0 |
7 |
0 |
0 |
9 |
9 |
8.68 |
13 |
横浜 |
14 |
1 |
1 |
6 |
3 |
0 |
63.1 |
64 |
6 |
36 |
3 |
35 |
1 |
0 |
34 |
34 |
4.83 |
14 |
横浜 |
9 |
0 |
0 |
0 |
1 |
0 |
14.1 |
20 |
2 |
2 |
0 |
14 |
2 |
0 |
12 |
8 |
5.02 |
15 |
横浜 |
29 |
0 |
0 |
3 |
2 |
1 |
56.0 |
59 |
10 |
23 |
0 |
42 |
1 |
1 |
26 |
24 |
3.86 |
16 |
横浜 |
62 |
0 |
0 |
5 |
3 |
0 |
53.2 |
54 |
2 |
18 |
1 |
49 |
0 |
0 |
17 |
16 |
2.68 |
17 |
横浜 |
23 |
0 |
0 |
0 |
2 |
0 |
16.2 |
16 |
1 |
9 |
1 |
14 |
0 |
0 |
15 |
15 |
8.10 |
18 |
横浜 |
10 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
10.2 |
10 |
3 |
3 |
0 |
4 |
0 |
0 |
9 |
9 |
7.59 |
|
通算 |
8年 |
166 |
1 |
1 |
16 |
19 |
1 |
309.0 |
328 |
41 |
130 |
8 |
217 |
8 |
1 |
174 |
165 |
4.81 |
|
|
打撃成績
|
チーム |
試合 |
打数 |
得点 |
安打 |
二塁 |
三塁 |
本塁 |
塁打 |
打点 |
盗塁 |
盗刺 |
犠打 |
犠飛 |
四球 |
死球 |
三振 |
併殺 |
失策 |
打率 |
|
11 |
横浜 |
17 |
18 |
2 |
4 |
0 |
0 |
0 |
4 |
0 |
0 |
0 |
7 |
0 |
0 |
0 |
7 |
0 |
1 |
.222 |
12 |
横浜 |
2 |
2 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
1 |
0 |
0 |
.000 |
13 |
横浜 |
14 |
23 |
1 |
3 |
0 |
0 |
0 |
3 |
3 |
0 |
0 |
3 |
0 |
0 |
0 |
14 |
0 |
0 |
.130 |
14 |
横浜 |
9 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
.000 |
15 |
横浜 |
29 |
7 |
0 |
1 |
0 |
0 |
0 |
1 |
0 |
0 |
0 |
3 |
0 |
1 |
0 |
3 |
0 |
0 |
.143 |
16 |
横浜 |
62 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
.000 |
17 |
横浜 |
23 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
.000 |
18 |
横浜 |
10 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
.000 |
|
通算 |
8年 |
166 |
50 |
3 |
8 |
0 |
0 |
0 |
8 |
3 |
0 |
0 |
13 |
0 |
1 |
0 |
25 |
0 |
1 |
.160 |
|
|
日本シリーズ投球成績
|
チーム |
登板 |
完投 |
完封 |
勝利 |
敗戦 |
S |
回数 |
安打 |
本塁 |
四球 |
死球 |
三振 |
暴投 |
ボーク |
失点 |
自責 |
防御率 |
|
17 |
横浜 |
1 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
1.0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
2 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0.00 |
|
通算 |
1年 |
1 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
1.0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
2 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0.00 |
|
|
日本シリーズ打撃成績
|
チーム |
試合 |
打数 |
得点 |
安打 |
二塁 |
三塁 |
本塁 |
塁打 |
打点 |
盗塁 |
盗刺 |
犠打 |
犠飛 |
四球 |
死球 |
三振 |
併殺 |
失策 |
打率 |
|
17 |
横浜 |
1 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
.000 |
|
通算 |
1年 |
1 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
.000 |
|
|
クライマックスシリーズ投球成績
|
チーム |
登板 |
完投 |
完封 |
勝利 |
敗戦 |
S |
回数 |
安打 |
本塁 |
四球 |
死球 |
三振 |
暴投 |
ボーク |
失点 |
自責 |
防御率 |
|
16 |
横浜 |
2 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
1.1 |
0 |
0 |
0 |
0 |
1 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0.00 |
17 |
横浜 |
2 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
1.1 |
1 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0.00 |
|
通算 |
2年 |
4 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
2.2 |
1 |
0 |
0 |
0 |
1 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0.00 |
|
|
クライマックスシリーズ打撃成績
|
チーム |
試合 |
打数 |
得点 |
安打 |
二塁 |
三塁 |
本塁 |
塁打 |
打点 |
盗塁 |
盗刺 |
犠打 |
犠飛 |
四球 |
死球 |
三振 |
併殺 |
失策 |
打率 |
|
16 |
横浜 |
2 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
.000 |
17 |
横浜 |
2 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
.000 |
|
通算 |
2年 |
4 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
.000 |
|
|
二軍投球成績
|
チーム |
登板 |
完投 |
勝利 |
敗戦 |
S |
回数 |
安打 |
本塁 |
四死 |
三振 |
失点 |
自責 |
防御率 |
|
11 |
横浜 |
8 |
0 |
1 |
1 |
0 |
26.2 |
30 |
1 |
9 |
16 |
10 |
10 |
3.38 |
12 |
横浜 |
12 |
1 |
3 |
2 |
0 |
54.0 |
44 |
2 |
15 |
47 |
13 |
9 |
1.50 |
13 |
横浜 |
10 |
0 |
2 |
2 |
0 |
22.1 |
15 |
1 |
9 |
14 |
7 |
4 |
1.61 |
14 |
横浜 |
17 |
0 |
4 |
2 |
1 |
50.2 |
54 |
1 |
20 |
30 |
20 |
18 |
3.20 |
15 |
横浜 |
10 |
0 |
3 |
2 |
0 |
55.2 |
44 |
3 |
7 |
36 |
15 |
13 |
2.10 |
17 |
横浜 |
16 |
0 |
0 |
1 |
0 |
18.1 |
11 |
0 |
6 |
18 |
6 |
6 |
2.95 |
18 |
横浜 |
24 |
0 |
3 |
2 |
10 |
27.1 |
25 |
1 |
10 |
25 |
8 |
7 |
2.30 |
|
通算 |
7年 |
97 |
1 |
16 |
12 |
11 |
255.0 |
223 |
9 |
76 |
186 |
79 |
67 |
2.36 |
|
|
|