:甲子園で連続完封:
修徳高では監督から「チェンジアップを覚えろ」と言われたが「カーブと逆にシュート回転で落ちていく球の方がいい」と考えて3年になる頃にシンカーを習得、3年夏に甲子園に出場。1回戦の岡山南戦で12奪三振を奪って7安打完封、2回戦の甲府工戦でも8奪三振を奪って2安打完封、3回戦の東海大四戦でも9イニングを3失点に抑えてチームをベスト8まで導いた。また同大会で1試合4犠打のタイ記録を達成した。
:巨人入団:
駒沢大に進学すると1年春からマウンドに上がり2度の優勝に貢献。3年春に防御率1.22で最優秀防御率、秋に2位の防御率2.61、4年春には防御率2.19で再び最優秀防御率を獲得。大学通算60試合に登板して17勝11敗、防御率2.58、239奪三振を記録した。東芝に入社すると99年の都市対抗で優勝を飾って優秀選手に選出。同年オフのドラフト会議で巨人から1位指名を受けて入団した。
:初先発初勝利:
ルーキーイヤーはオープン戦で好投を見せて開幕ローテを勝ち取ると、初登板初先発となった4月6日の中日戦で8回を4安打、1四球で1失点に抑える素晴らしいデビュー戦を飾った。なお巨人の投手が初登板初先発で勝利投手になるのは66年の堀内
恒夫以来34年ぶり8人目の快挙だった。その後も4月16日の横浜戦、4月23日の広島戦と白星を重ねると、5月7日のヤクルト戦では7四球こそ与えたが、3安打に抑えて初完封を達成。5月16日の阪神戦にも勝ってこの時点で5勝1敗とチームを引っ張った。
:新人王ならず:
新人王レースを独走していたが5月28日の中日戦で2.1回でKOされてしまうと、そこから全く勝てなくなり2ヶ月間に渡って白星に見放された。だが7月20日の阪神戦で7回を2失点に抑えて6勝目を記録すると、8月1日の横浜戦で7回2失点、8月8日の横浜戦で6安打、無四球で完封、8月15日の阪神戦で6.2回2失点と好投を続けて4連勝。9勝3敗となり最多勝も見えてきたが、そこから再び勝てなくなり同年のシーズン最終登板となった9月27日のヤクルト戦では完投して何とか規定投球回には乗せたが白星には結びつかず二桁勝利には届かなかった。また新人王も横浜の金城(178票)に大差を付けられての2位(15票)に留まった。
:日本シリーズ:
ON決戦で話題を集めた日本シリーズでは第5戦の先発を任されたが「大丈夫かと思うくらい緊張しなかった」という高橋は2安打、無四球、12奪三振とダイエー打線を完璧に封じ込めてルーキーとしては史上初のシリーズ初登板初完封を記録。被安打2は史上10度目ながらシリーズ最少記録、12奪三振は史上2位タイ、シリーズ17年ぶりの無四球完封という歴史的な快投となった。なお日本一の祝勝会では床に寝そべってお尻を丸出しにする高橋の姿がTV中継で全国に流れて話題となった。また同年には日米野球でも第6戦に先発して5回を無安打、1四球、7奪三振という好投を見せた。
:中1日で先発:
01年は4月18日のヤクルト戦で2回途中5失点KOとなったが、二日後の横浜戦に巨人の投手としては18年ぶりとなる中1日で先発のマウンドに上がり(83年の槙原以来)、7.0回を2安打、3四球で1失点に抑えて勝利投手になった。すると5月4日の横浜戦でバワーズとの投げ合いを制して1失点完投勝利、5月19日の横浜戦にも勝って早くも4勝目を記録した。前年同様に5月下旬から再び2ヶ月間以上白星なしと苦しんだが、9月には19日の阪神戦で完封を記録するなど好投を続けて、25日の広島戦にも勝って同年で退任する長嶋監督に巨人の監督としては最後の白星をプレゼントした。だが30日の横浜戦では6回途中5失点と打ち込まれて2年連続で9勝に留まった。
:月間MVP:
02年は開幕当初こそ出遅れたが4月28日の横浜戦で8回無失点の好投で三浦に投げ勝って1勝目を上げると、5月5日の横浜戦では6回までパーフェクトという圧巻のピッチングでまたも三浦に投げ勝って2勝目を記録。続く5月12日の阪神戦、5月19日の横浜戦、5月26日広島戦と登板試合5連勝を記録して月間MVPに選出された。その後もシーズン終了までローテーションを守って10勝4敗、防御率3.09という好成績でリーグ制覇に大きく貢献した。
リーグ優勝の祝賀会にヒョウ柄のTバックで登場すると、結局脱がされて再びお尻を丸出しにして自チームの原監督ばかりか、日本シリーズで対戦する西武の伊原監督からもクレームが付いたが、日本シリーズでは第4戦に先発して8回を3安打、2四球でエバンスのツーランのみに抑えて結果を残した。
:故障:
03年は開幕から3連敗を喫したが、5月に入ると登板4試合で3完投勝利を記録。中でも21日のヤクルト戦は完封ペースだったが、6回表に一死一、二塁でレフトフライを捕球したレイサムがアウトカウントを勘違いしてボールをスタンドに投げ入れてしまったため、野球規則7.05g(1)により二塁走者がホームに還って完封を逃した。6月21日の阪神戦で左肩を故障して長期離脱となりシーズン最終戦まで復帰できなかった。翌04年は開幕ローテには入ったが結果が残せず登録抹消。6月16日横浜戦で復帰したが2回5失点KO、続く中日戦では2回途中8失点KOと全く試合を作れず再降格。球宴開けに復帰すると好投を続けて8月26日の中日戦で完封を記録するなど5勝6敗まで数字を戻したが、9月には4連敗を喫して二桁敗戦を記録してしまった。
:抑え:
05年は1年間を通してローテを守って屈辱の最下位争いに沈んだチームを支えたが8勝12敗、防御率4.47に留まった。翌06年は横浜との開幕カード第2戦を任されたが村田に2本塁打を喫して5失点KO、4日後のヤクルト戦では試合をベンチで観戦していた高橋尚の右ほほをヤクルト青木が放ったファウルボールが直撃して骨折。2ヶ月間戦列から離れて復帰後はチーム事情からリリーフで起用される事になった。球宴直前からは豊田
清に代わって抑えを任されてまずまずの成績を残したが、巨人が負ければ中日の優勝が決まる10月10日の中日戦で3対3の同点で迎えた延長12回表に谷繁のライト前ヒットから、荒木のレフト前、井端のレフト前、福留のセンター前、ウッズのグランドスラム、森野のツーベースと滅多打ちにあって6失点と数字を落としてしまった。
:連続無失点:
07年は先発に復帰すると横浜との開幕第3戦で7回無失点、4月8日の阪神戦で6安打完封、4月15日のヤクルト戦で5安打完封と開幕から3試合連続無失点という凄まじいスタートダッシュを切った。続く4月22日阪神戦の4回裏に矢野にタイムリーを打たれて開幕からの連続無失点が28.1イニングでストップして、63年に阪神の中井が記録した開幕から31イニング連続無失点のリーグ記録には届かなかったが、同試合でも8回をその1失点のみに抑えると、続くヤクルト戦も7回2失点(自責1)で開幕5連勝を記録。もちろん月間MVPに選出された(5勝0敗、防御率0.45)。
:涙:
6月21日に長年闘病を続けてきた実父の隆男さんが亡くなった。その前日に見舞いに訪れた病室で「いつ投げるんだ」と聞かれて「23日に投げるよ」と答えたのが最後の会話になった。原監督からは登板回避を打診されたが、直訴して23日の西武戦で先発すると、3回表の無死満塁のピンチを1失点で抑えると、5回表にも無死満塁のピンチを背負ったが、カブレラをショートフライ、和田もショートフライ、GG佐藤はセンターフライに打ち取って無失点という驚異的な粘投で7回を1失点(自責0)に抑えて両リーグ最速の10勝を記録した。お立ち台に上がった高橋は「何とか自分の力で勝ちを取ることを誓ってきた」と答えてあふれ出る涙をぬぐった,
:タイトル:
交流戦でも4勝0敗を記録して交流戦優秀選手に輝いた。交流戦終了時で10勝1敗、防御率1.57という圧倒的な成績を残し、初めて選出されたオールスターでも第2戦の先発を任されるなど、MVPや沢村賞も含めたタイトルをそうなめにする勢いだったが、交流戦開けに2試合連続で6失点を喫するなど後半戦は15試合の登板で4勝に留まり最多勝は逃してしまった。だが防御率2.75で最優秀防御率、最多勝を獲得したグライシンガーを抑えてベストナインにも選出された。
:開幕投手:
08年は初めて開幕投手を任されたがヤクルト打線に掴まって4回5失点KO、続く阪神戦でも5失点を記録するなど打ち込まれる試合が続き、5月20日のロッテ戦でも6失点KOとなりついに登録抹消となってしまった。6月29日の再昇格後は14試合に登板して6勝2敗、防御率2.97を記録したが、前半戦の不調が響いて二桁勝利には届かなかった。09年は優勝が決定的になった9月以降に5連勝を記録して10勝6敗、防御率2.94という成績を残したが、日本シリーズでは第4戦の先発を任されたが5回5失点で敗戦投手と勝負所では結果が残せなかった。同年のオフに海外FAj権を行使してニューヨーク・メッツとマイナー契約を結んだ。
:MLB初勝利:
日本時代の成績からすれば厳しい契約内容となったが、オープン戦初登板となったナショナルズ戦で3イニングを投げて被安打1、無四球で6奪三振という好投を見せた。その後も好投を続けて開幕メジャーを勝ち取ると、開幕第2戦で6対6の同点で迎えた延長10回表に早くも初登板のマウンドに上がったが、マーリンズのロニー・ポーリーノに勝ち越しタイムリーを打たれて敗戦投手になってしまった。だが4月23日のブレーブス戦では故障で降板した先発ジョン・メインに代わって4回途中からマウンドに上がると、投げては3イニングを2安打、1四球で7奪三振という奪三振ショー、打っては川上からMLB初ヒットとという活躍でMLB初勝利を記録した。
:500勝:
ロングリリーフで好投を続けて白星を重ねると、初めて先発を任された5月21日のヤンキース戦では白星こそ付かなかったが6回を投げて5安打、1四球で無失点に抑える素晴らしいピッチングを見せた。続く5月26日のフィリーズ戦でも6回表の一死一、三塁のピンチで4年連続40本塁打のR・ハワードを空振り三振に抑えるなど、6回を5安打、無四球で無失点に抑えて先発初勝利。またこの白星は日本人通算500勝という節目の白星となった。その後もまずまずのピッチングを続けていたが、7月22日のドジャース戦で7回を3安打、2四球で2失点に抑えながら、メッツ打線が黒田から1点も奪えず敗戦投手、7月31日のダイヤモンドバックス戦でも6回で10奪三振を奪って1失点に抑えながら勝ち負けなしと援護に恵まれなかった事もあり、8月からはリリーフに再転向した。
:クローザー:
8月11日の試合後に抑えのフランシスコ・ロドリゲスが暴力沙汰を起こした上に故障して離脱。代わって抑えを任された8月16日のアストロズ戦でMLB初セーブを記録。その後もシーズン終了までクローザーを勤めて8度のセーブ機会は全て成功、クローザーになってからの19試合は防御率0.84を記録した。通算でも10勝6敗8セーブ、防御率3.61という素晴らしいシーズンとなった。オフには2年800万ドルという巨人時代を大きく超える契約でエンゼルスに移籍。移籍初年度は61試合に登板して防御率3.44という好成績を残したが、翌12年は成績のわりに失点に繋がる試合が多く、シーズン途中にパイレーツに移籍となってしまった。翌13年はカブスに移籍したが結果が残せずロッキーズ参加のマイナーを経て、同年のオフに横浜DeNAに入団した。
:誕生日に3連発:
キャンプ、オープン戦と順調な調整を続けて自身の39歳の誕生日である4月2日に古巣巨人戦で移籍後初先発。初回に一死一塁からアンダーソンにライト線へツーベースを打たれたが一塁走者をバックホームでアウトにすると、4回表には無死満塁のピンチを背負ったがロペスをセカンドフライ、阿部もセカンドフライ、坂本をレフトフライに打ち取って無失点で切り抜ける!打線も援護点をあげて5回裏が終了時点では5対0と快勝ムードだったが、6回表に尚成が先頭のアンダーソンから村田、ロペスと3者連続ソロを打ち込まれて降板してしまう。その裏に3点を上げて突き放したが、8対3で迎えた8回表に平田、山口がイニング10失点と打ち込まれて大逆転負けとなり尚成の日本復帰戦&バースデー白星は消えてしまった。
:好投しても:
完全な勝ちゲームを落とした尚成は続く4月9日の阪神戦で5回1失点に抑えると、16日の中日戦では4回6失点KOとなったが、23日巨人戦で6回1失点、東京ドーム凱旋となった5月7日の巨人戦でも5回3失点(自責2)とそれなりに試合を作り続けたが打線の援護に恵まれず初勝利はならなかった。続く中日戦で5回5失点KOとなり後がなくなった5月22日の楽天戦では気迫の投球で6回2失点(自責0)に抑えたがまたも打線の援護が得られず敗戦投手、続くソフトバンク戦で5回4失点となり登録抹消となった。
:先発試合0勝10敗:
二軍で好成績を残して再び8月29日の巨人戦で一軍のチャンスを掴むと粘投で試合を作ったが、阿部、村田、ロペスが打ち上げた飛球がハマスタのスタンドギリギリに飛び込むソロホームランとなって不運な6回3失点、打線はかつての弟子内海に完封を喫して敗戦、結局9月5日の広島戦でも破れて白星が付かないままシーズンを終えてしまった。また10試合に先発して0勝6敗、勝ち負けが付かなかった試合も全てチームが敗れて0勝10敗と同年の初登板から続く負の流れを払拭できなかった。
:現役引退:
15年は4月29日の広島戦で先発を任されたが、初回に自らのエラーでピンチを招くと新井のタイムリーなどで5失点を喫して2回6失点KO。登録抹消となりオールスター休みの際には球団に中継ぎ転向を直訴して8月2日にリリーフとして一軍昇格。8月8日の阪神戦では3回を2安打、無四球に抑えて上々の復帰登板を飾ったが、14日の広島戦では2四球で走者をためて丸にスリーランを被弾、16日の広島戦では大学の1年後輩で仲の良かった新井に納得して投げた初球のストレートをレフトスタンドに叩き込まれて失点、この時に悔しさを感じられなかった高橋は「やめる時ってこういうものなのかな」と引退を決意した。10月2日に古巣の巨人戦で引退登板。打者1人との対戦で立岡をショートゴロに打ち取ったが、倉本の送球をロペスが落球したためアウトをとることはできなかった。またこの試合もチームが敗れたため横浜で登板した16試合全てでチームが敗れてしまった。 |
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