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寺田 光輝



54
名前 てらだ こうき
生年月日 1992年1月5日
経歴 伊勢高−筑波大学−石川ミリオンスターズ−横浜(17年D6位)
入団年 17年ドラフト6位
在籍年 18年−19年
背番号 18年−19年[54]
投打 右投げ右打ち
守備 投手
壁当てから野球に
伊勢神宮のすぐ近くで生を受ける。父は開業医で祖父や叔父2人も医師という家系で育つ。幼い頃はサッカーが好きで友達の誘いでチームに入る所だったが、小学3年の時になぜか自宅にあったおもちゃのグローブで壁当てを行った所、投げる事の楽しさにハマって野球を始める。当初は外野手だったが中学時代は故障がちで右ひじを手術、1年間は左投げでプレーするなどなかなか試合に出場できなかった。

進学校で県ベスト4
進学校である伊勢高では投手に転向したが控え投手でサードも三日で首になるなどプロ野球はイメージできない世界だった。3年の時にエースがケガしたため3年春からエースになると、春は学校にとって36年ぶりの県ベスト4に進出した。だが夏は自らの制球難で自滅して4回戦でコールド負け、寺田は仲間への申し訳なさと、これで野球が終わる悔しさからプロを目指して野球を続けることを決意した。

医師かプロ野球
猛勉強を重ねて三重大学に進学したが野球部の練習に物足りなさを感じた事とプロ野球選手になれなかった時の進路が不安になり「医師かプロ野球選手」という2つの目標を目指して大学を休学し、ジムや投げ込みを行いながら受験勉強に精を出した。二浪の末に三重大の医学部は不合格となったが、野球部が首都大学リーグ1部の筑波大に合格し、プロ野球を目指して進学、なお浪人中は「スシロー」でアルバイトをしていた。

一度は野球を諦めるも
プロを目指して練習に励んだが筑波大では故障もあって3年までスタンドで応援団として太鼓を叩いていた。4年になって敗戦処理での登板機会は貰えたが寺田はプロ野球の夢を諦めて内定をもらっていた地元の銀行への就職を決意した。だが筑波大の奈良コーチが「諦めるのはまだ早い。挑戦してみろ」とBCリーグの石川への入団を進めて、寺田も「ボコボコにされて諦めよう」とダメなら野球への未練を断ち切れるとの思いもあって石川に入団した。

前後期優勝に貢献
大学まではオーバースローだったがサイドスローに転身、格下と考えていた北陸大とのオープン戦で3連打を打たれて2失点した事で気持ちにも火がついて持ち前の向上心を取り戻した。リーグ戦が始まると開幕から守護神として起用されて40試合に登板、3勝1敗19セーブ防御率1.11という好成績を残してチームの前後期優勝に貢献した(前期MVP)。だが地区シリーズチャンピオンシップでは1対1の同点で迎えた9回表にBCリーグで初めてのホームランを打たれて敗戦、勝っていれば次戦は行われずチームメイトが合同トライアウトにチャレンジする事ができたが、そのチャンスを奪う結果となり大きなショックを受けたが、試合後にはチームメイトたちが食事に誘い、冗談で笑わせてくれた。寺田は「あの時食べたハンバーグの味は一生忘れません」と仲間たちに感謝した。

指名漏れ
同年のドラフト会議では指名濃厚と言われ、自身も「何も不安はなかったし、いけるものと思い込んで疑わなかった」と指名を確信していたが、チームメイト3人が指名される中でまさかの指名漏れとなり、寺田は急性胃腸炎や肺炎を発症するほどの心的ダメージを受けた。病気の影響で体重を落としたが、サイドスローの先輩でもある巨人の田原の自主トレに参加して、多くの技術的なアドバイスを貰って刺激を受けた。自主トレ後も田原からLINEでアドバイスを受け続けた。またスカウトの「もう少し球速があれば…」という声に応えるためにストレート強化を意識して短距離ダッシュや筋トレでパワーアップを図り、最速球速を2キロ増しとなる146キロまで上昇させた。

アドバイス
シーズンが開幕すると球速は出ているものの打者がフルスイングしてくるなど手応えを得られず、自身の投球動画を見ても修正点が分からなかった。だがYouTubeで寺田を見た前年までのチームメイトから「投球フォームがおかしい」と電話で助言され、昨年の動画と今年の動画を比較してみると今年は手投げになっている事に気付いて下半身主導のフォームを取り戻した。同年は35試合に登板して0勝3敗10セーブで防御率2.41と前年からは成績を落とした。

寺…
17年のドラフト会議では指名があるとしても育成と考えていなかったが、調査書すら届いていなかった横浜から6位指名を受けた事に驚きを隠せず、自身を指さして「オレ?オレ?」と何度も周りに確認した。指名後に横浜のテーブルが動揺した様子を見せたことから同チームの寺岡を指名しようとして間違えた可能性が噂になった(寺岡には横浜からの調査書が届いていた)。寺田も「寺…って聞いた瞬間、寺岡が来たと確信した。ラミレス監督が間違えたんじゃないかとも思った。それくらい、信じられない」と興奮を隠せなかった。

ヘルニア
独立リーグの最後の試合で右足を負傷、完治しないまま迎えたルーキーイヤーはイースタンリーグで13試合に登板したが、足をかばいながらプレーしていたためか6月に横浜スタジアムで行われた二軍戦で腰を負傷して8月15日に椎間板ヘルニアの手術を受けて離脱した。翌年は一旦は痛みがなくなったが、自主トレ中に感じた違和感が投球フォームをアンダースローに変更したこともあってか徐々に大きくなり、痛みを座薬でごまかしながら登板を続けたがイースタンリーグで18試合の登板で防御率9.86に留まり戦力外通告を受けた。

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トライアウトを経て現役引退を決め、27歳にして医師への道を志す異例の転身を発表、21年7月17日に東海大医学部の編入試験に合格したことをSNSで報告した。


  二軍投球成績
チーム 登板 完投 勝利 敗戦 S 回数 安打 本塁 四死 三振 失点 自責 防御率
18 横浜 13 0 0 1 0 18.0 26 1 11 17 13 12 6.00
19 横浜 18 0 1 0 0 21.0 34 2 17 16 28 23 9.86
通算 2年 31 0 1 1 0 39.0 60 3 28 33 41 35 8.08