山本 武白志
101
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名前 |
やまもと むさし(登録名:武白志(18年−)) |
生年月日 |
1998年2月17日 |
経歴 |
九州国際大付属高−横浜 (15年育成D2位) |
入団年 |
15年育成ドラフト2位 |
在籍年 |
16年−18年 |
背番号 |
16年−18年[101] |
投打 |
右投げ右打ち |
守備 |
内野手 |
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:山本 功児:
巨人、ロッテで活躍し、世紀の珍プレーとして知られる宇野のヘディング事件で打球を放った選手であり、監督としても99年から5年間ロッテで指揮を執った山本
功児の長男として生まれる。小学3年時に元石川サンダーボルトで野球を始め、中学時代にはロッテ、巨人で活躍した前田 幸長が主宰する都築ジャイアンツボーイズで4番ピッチャーを務めた。九州国際大付ではサードに転向して1年秋からレギュラーとなり、2年夏には甲子園出場を果たしたが、初戦の東海大四戦で4打数0安打で3三振、チームも初戦敗退となった。
:2年連続:
大会後に就任した元西武の楠城 徹監督とトレーナーの指導や、ジムでの個人練習で体を鍛え上げてパワーアップ、3年春の九州大会では3本塁打を含む打率.462を記録した。準決勝の試合前練習で左手小指を骨折し、夏に不安を残したが県大会では打率.500を記録し、一発を浴びれば追いつかれる重要な場面でマウンドに上がってファーストゴロ併殺に抑えるなど投打に活躍して2年連続の甲子園出場を果たした。
:史上29人目:
甲子園では2回戦の大阪偕星学園戦で5回にレフトスタンドへスリーラン、7回にはバックスクリーンへ同点ソロを運んで史上29人目(31度目)の2打席連続本塁打を記録、続く作新学院戦でもレフトスタンドに先制ソロを運んでチームのベスト8進出に大きく貢献した。高校通算24本塁打。
:まさかの育成指名:
ドラフト会議では上位指名という報道も出ていたが、なかなか名前が読み上げられることはなく育成ドラフトになってようやく横浜から2位指名を受けた。プロ野球選手の息子という話題性もあってテレビ局の密着取材を受けており、当日は生中継で放送されていたが、まさかの育成指名にとまどいを見せ、父親の功児も「うれしい反面、なんて言うか複雑な気持ち」と神妙な表情で話していたが、入団を決意し親子2代でのプロ野球選手となった。
:巨人戦で本塁打:
開幕直後に父功児が死去、武白志は闘病中にもかかわらず前年夏の甲子園に駆け付けた父を想い「命懸けで甲子園に来てくれた。少し早いですね」と沈痛な表情で語った。ルーキーイヤーはプロのスピードに戸惑いイースタンリーグで打率.143で0本塁打という厳しい成績に終わった。翌17年はさらに成績を落とし56打数3安打で打率.054と土俵際に追い込まれた。18年には7月9日にイースタンリーグの巨人戦でプロ初本塁打を放つなど自己最多の110打席に立って打率.213と数字を上げたが、同年限りで戦力外となり現役を引退した。
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引退後はクリケット選手へ転身した。 |
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二軍打撃成績
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チーム |
試合 |
打数 |
得点 |
安打 |
二塁 |
三塁 |
本塁 |
塁打 |
打点 |
盗塁 |
犠打 |
犠飛 |
四死 |
三振 |
併殺 |
失策 |
打率 |
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16 |
横浜 |
60 |
91 |
9 |
13 |
5 |
0 |
0 |
18 |
5 |
0 |
2 |
0 |
10 |
39 |
3 |
1 |
.143 |
17 |
横浜 |
31 |
56 |
0 |
3 |
0 |
0 |
0 |
3 |
3 |
0 |
1 |
0 |
3 |
18 |
3 |
1 |
.054 |
18 |
横浜 |
51 |
94 |
14 |
20 |
3 |
0 |
1 |
26 |
8 |
0 |
2 |
1 |
13 |
20 |
5 |
0 |
.213 |
|
通算 |
3年 |
142 |
241 |
23 |
36 |
8 |
0 |
1 |
47 |
16 |
0 |
5 |
1 |
26 |
77 |
11 |
2 |
.149 |
|
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