山崎 康晃
19
|
名前 |
やまさき やすあき |
生年月日 |
1992年10月2日 |
経歴 |
帝京高−亜細亜大−横浜(14年D1位) |
入団年 |
14年ドラフト1位 |
在籍年 |
15年− |
背番号 |
15年−[19] |
投打 |
右投げ右打ち |
守備 |
投手 |
|
|
:稀哲:
母親同士が仲の良かった事もあって幼少の頃から可愛がってもらっていた森本 稀哲に憧れて小学校2年時から西日暮里グライティーズで野球を始める。小学校3年生の時に両親が離婚したが、康晃の「野球続けられる?」という言葉でフィリピン人の母ベリアさんは日本で生きていく事を決意、康晃が「お母さんと夜ご飯を食べた記憶がない」というほどベリアさんが昼夜掛け持ちで働いて康晃と姉の麻美さんを育て上げた。
:帝京:
中学時代には多くの変化球を試したが最初に投げられたのがナックルだった。森本と同じ帝京に進学。入学当初には練習をサボった事があったがベリアさんがタクシーで学校に連れて行き、監督に「中途半端はさせたくない。この子はやめさせるわけにはいかないんです」と直訴、その日の夜に山崎は小さな花束を持って帰宅し、ベリアさんに「お母さん、行かせてくれてありがとう。今日行かなかったらダメだった」と謝った。
:パワーアップ:
帝京に入学時には57キロだった体重は帝京名物の3合飯などで70キロまで増加。スポーツジムでのトレーニングで球速もアップし140キロを超えるまでになったが、1学年下の伊藤
拓郎をはじめとした強力投手陣にの中ではなかなか目立つことは出来なかった。2年夏、3年春に甲子園出場を果たしたが大勢が決した後のリリーフ登板のみで、3年夏には伊藤の不調もあって背番号1を任されたが都大会5回戦で国士舘に4回途中4失点KO、代わった伊藤も打ち込まれてコールド負けとなり涙を流した。
:ツーシーム:
自分と姉を育ててくれた母親に楽をさせるためにプロ入りを目指したが指名はなく、一時は金銭面から野球を諦めかけたが金銭面を考慮してくれた亜細亜大学へ進学、日本球界でもっとも厳しいといわれる猛練習で鍛え上げられ、さらに入寮してすぐに同部屋となった大エースの東浜から伝授されたツーシームは微調整を続けるうちに左打者の外角低めに落ちる独特の軌道を描くウイニングショットとなった。なお伝授されたツーシームとは明らかに違う球種となったが、山崎は東浜への恩義からツーシームと表現し続けている。
:MVP:
3年春には国学院大戦で杉浦に投げ勝って初完封を達成するなど4勝を上げてリーグトップの防御率1.10を記録。同夏の日米大学選手権で4試合の登板で6イニングを無失点に抑えて最優秀投手、明治神宮大会では3試合のリリーフ登板で8.1回を1失点(自責0)と大きく飛躍してチームを7年ぶりの大学日本一に導いた。4年春の中大1回戦ではカーブを有効に使って5安打1失点、10奪三振で完投勝利、3回戦では4安打、12奪三振で完封、国学院大戦では1回戦では10回裏にサヨナラ満塁弾を被弾したが、第3戦では延長10回を投げ抜いて1失点完投に抑えてチームを6連覇に導きMVPに輝いた。大学通算15勝6敗、防御率1.95。
:ルーキーストッパー:
ドラフト会議では共に有原を抽選で外した横浜と阪神から外れ1位指名を受けて、抽選の末に交渉権を獲得した横浜に入団した。キャンプからオープン戦の序盤は先発として起用されていたが、中畑監督がドラフトの指名挨拶時に顔を合わせた亜大の生田監督や、亜大で山崎康を受けていた嶺井から抑え向きとの見解を受けていた事もあってリリーフ起用に踏み切ると好結果を残した事から、開幕直前のセ・リーグファンミーティングの壇上で中畑監督が山崎に抑え起用をファンの前で伝えた。
:小さな大魔神:
開幕第2戦で大量リードの9回裏に初登板のマウンドに上がって三者凡退に抑えると、ホーム開幕戦となった3月31日の広島戦で7対6で迎えた9回表を無失点に抑えて初セーブを記録。お立ち台に上がった山崎はハマスタを埋めた満員のファンに「今日の経験を生かして『小さな大魔神』になります!」と宣言して大きな歓声を浴びた。
:チームをけん引:
同点で迎えた4月22日の阪神戦ではゴメスに勝ち越し打を許したが、セーブ機会では順調にセーブを積み上げて新人記録の9戦連続セーブ、セーブ機会17戦連続無失点と首位をひた走るチームをけん引した。5月24日の阪神戦では上本の頭部に危険球をぶつけてしまって退場、後遺症が心配されたが三浦の仲介で救急車で搬送された上本に電話し謝罪、上本からは「こっちこそごめんな」という言葉を貰った。
:ファン:
小学生のころに森本稀哲にもらったサインが本当に嬉しかったという山崎は春季キャンプから毎日のように1時間以上に渡ってサインと握手を笑顔で行い、ファンの間で神対応と話題になった。また自身が登場曲に選び、大魔神佐々木もシアトル・マリナーズ時代に登場曲として使用していたZombie
Nationの「Kernkraft 400」はファンが「ヤ・ス・ア・キ!」と大合唱して山崎をマウンドに迎える儀式になり、セーブ機会で見せる完璧なピッチング、心温まるツイッターなどもあって瞬く間にファンの心を掴んだ。
:新人記録:
オールスターゲームには球団の新人としては71年の山下 大輔以来44年ぶりにファン投票で出場。8月20日には真夏の祭典スターナイト最終戦となったヤクルト戦で大歓声を浴びながら新人新記録となる32セーブを達成。夏場に入ると登板過多から大幅に状態を落としたが、9月2日の中日戦では無死一、二塁からサードライナーや乙坂のバックホームでリードを守ってセーブ機会失敗無しのまま34セーブを記録した。だが9月4日の巨人戦で阿部のタイムリーで追いつかれて、ついにセーブ失敗、翌日からは休養となり、チームも前半戦首位からの最下位転落という悔しさの残るシーズンとなった。
:新人王:
シーズン終盤に離脱しながら58試合に登板、2勝4敗37セーブ、防御率1.92、奪三振率10.54という好成績を残し、総得票数の89%を集めて新人王を受賞した。オフには年俸5000万円へ大幅アップ。中学卒業時に母に宛てた手紙に書いた「プロ野球選手になってお母さんを幸せにするから、年収5000万円もらって、なんでも買ってやるから」を実現した。なおベリアさんは康晃からプレゼントされたシーズンシートに毎試合のように座って息子の雄姿を見守った。
:ハマスタでの球宴:
2年目のジンクスが囁かれた16年は4月にわずか月間2セーブに留まり、中6日での登板となった17日のヤクルト戦では白崎のエラーなどもあってイニング3失点で逆転サヨナラを喫するなどチーム同様に苦しい幕開けとなったが、チーム状況が好転した5月には月間12試合に登板して1勝10セーブを記録、月間MVP候補にも名前が上がった。抑え投手部門で断トツの37万票を集めて出場した球宴ではハマスタで行われた第2戦の9回表に登場すると360度のヤスアキジャンプが実現した。
:4試合で10失点:
前半戦は同点時の登板でこそ不安を残していたが防御率1点台でセーブ数もリーグトップを争っていた。だが8月2日からの阪神3連戦では初戦に押し出し四球で勝ち越し点を与えるなど4失点、第2戦ではゴメスのソロ、第3戦でも2点リードを守れず3試合連続失点、翌日の中日戦では一死満塁のピンチを招くと荒木を空振り三振に切って大歓声を浴びたが、続く平田に走者一掃のツーベースを打たれて逆転負け、山崎はベンチで涙を流したがチームメイトが山崎の前に立ってカメラから守ると、試合後には筒香が食事に誘ってカバーした。
:30セーブ:
中5日をあけた8月11日の巨人戦で復活セーブも、翌日のハマスタでは勝ち越し弾を浴びるなどハマスタでは6試合連続失点を記録したこともあって一時的に中継ぎ降格となった。だが9月になると切れの戻ったストレート主体のピッチングに切り替えて抑えに復帰すると月間12試合に登板して2失点、9月15日の阪神戦では史上初の新人から2年連続での30セーブを記録。最終的には33セーブまで数字を伸ばして球団初のCS進出に貢献した。
:中継ぎへ:
17年は新外国人投手のパットンとの抑え争いを制してシーズンに入ったが、同点で登板した4月13日の阪神戦で不運なヒットもあって3失点を喫すると、翌日のヤクルト戦では上田の犠飛で追いつかれてセーブに失敗してしまう。すると16日のヤクルト戦でハマスタがどよめきに包まれる中で7回表のマウンドに上がって、9回のマウンドにはパットンが起用された。だが抑えの座を失った山崎には変わらずチームトップクラスの歓声が上がり、山崎も無失点ピッチングを続けて勝利に貢献し続けた。
:涙の決意:
中継ぎに回って7試合目の4月28日の広島戦で三者連続三振を記録すると、試合後のアンコールヒーローズでは「最初はクローザーで始まりましたけど…」と言葉に詰まり、大粒の涙を流しながら「何とかそこに…戻れるように頑張っていきたいなと思います」と大歓声の中で語った。その後も22試合連続無失点という好投を続けて5月20日の巨人戦からクローザーに復帰、球宴から7月下旬にかけて好調なチーム状況もあって登板過多となり、30日の巨人戦で相川に逆転サヨナラ打を浴びるなど3試合連続失点を記録したが、ラミレス監督から「シーズンの最後まで抑え」と告げられた8月3日の中日戦では「死ぬ気で抑える」と連続三振を含む三者凡退に切って取った。
:内川に:
リーグ最多の68試合に登板して4勝2敗26セーブ、防御率1,64、65.2回を投げて84奪三振で13四球という素晴らしい成績を残してCS出場に貢献。CSでは6試合に登板して被安打1で無四球、8奪三振と完璧な守護神として阪神/広島打線を抑え込んだ。ソフトバンクとの日本シリーズでは第5戦で8回表の二死一、二塁でマウンドに上がって柳田を空振り三振に切って取り、同年初のイニングまたぎとなった9回表にはピンチを背負ったが無失点に抑えた。だが第6戦では内川に難しい内角のツーシームをレフトスタンドに叩き込まれて追いつかれると、チームは延長戦の末に敗れて日本一を逃すことになった。
:初のセーブ王:
18年は4月10日の巨人戦で日本人最速となる4年目での100セーブを達成、同点での登板となった26日の広島戦ではエルドレッドに勝ち越し弾を浴びたがセーブ機会では開幕から14試合連続無失点という好投を続けた。前半戦はセーブ失敗0で終えたが後半戦初戦で不運なヒットもあってまさかの5失点、8月3日の広島戦では3点リードを守れず、5日の広島戦でも勝ち越しを許すなど課題の夏場に大幅に数字を落とした。同年に喫した18失点中17失点が横浜スタジアムで記録されたためハマスタ限定での中継ぎ転向とも言われたが39回のセーブ機会で37セーブを記録して球団20年ぶりのセーブ王に輝いた。日米野球でも抑えとして活躍、オフの契約更改では史上4位となる入団5年目の2億5000万円という評価を受けるなど球界を代表するクローザーとなった。
:150セーブ:
19年はチームが7連敗中だった4月25日の阪神戦で久々のセーブ機会での登板となったが先頭打者への四球と自らのバント処理ミスでピンチを招くと、近本に入団以来初の逆転弾をレフトスタンドに運ばれて敗戦を喫するなど4月終了時点ではわずか3セーブに留まったが、14試合連続自責0に抑えるなど好投を続けて、シーズンのターニングポイントともなった6月16日のソフトバンク戦では12回裏に登板して無死満塁のピンチを背負ったが踏ん張って引き分けに持ち込み、夏場の大躍進に繋げた。ファン投票で選出されたオールスターではナックルと牽制球を披露、7月には17日の広島戦で史上最年少で150セーブを達成するなど月間12試合の登板で1失点に抑えて月間MVPに選出された。
:終盤に勝ちきれず:
8月12日のヤクルト戦では2点リードの9回裏に登板も村上に史上最年少のサヨナラ弾を叩き込まれてしまうと、嶺井の劇的な逆転弾が飛び出した24日の巨人戦では9回裏二死からサインに首を振ってツーシームを投じた所から連続四球を出して坂本のタイムリーで追いつかれて巨人にマジックが点灯と夏場に課題を残し、9月21日の巨人戦でも二死から連続四球を出して小林のタイムリーで追いつかれて、ハマスタでの巨人の胴上げを許してしまった。CSでも第2戦で9回表二死から福留に同点弾を浴びるなど完璧なシーズンではなかったが、61試合に登板して防御率1.95、3勝2敗30セーブで2年連続のセーブ王に輝いた。
:異例のシーズン:
コロナウイルスの影響で開幕が延期となった20年は自粛期間中に自らの発案でチームメイトや球団オーナーにテレビ電話でインタビューを行うなどファンサービスを精力的に行った。だが外出自粛によるトレーニング不足と精神的ストレスが影響したのかオーバーウエイトで6月19日の開幕を迎えてしまうと、開幕から不安定なピッチングが続き、27日の阪神戦では二死走者なしから四球を与えると、続く大山へのカウントが2-1となった所でベンチを出た木塚コーチからラミレス監督の指示が伝えられて、306試合目にしてプロ入り初の牽制球を投じた。これでリズムを崩したのか二盗と四球でピンチを広げると、サンズに逆転スリーランを被弾して敗戦投手になった。
:満塁弾:
7月19日の巨人戦では気合の入ったピッチングを見せたが二死二塁から内野安打で同点に追い付かれるとラミレス監督が交代を告げて降板、同点の場面での懲罰交代に批判が集まった。抑えはく奪も検討される中で22日のヤクルト戦でも連続四球などで一死満塁のピンチを背負ったが、ここは村上を三振に切って取るなど粘って無失点に抑えた。だが26日の広島戦で四球がらみでピンチを背負うと鈴木誠のタイムリーで追いつかれて、曾澤に満塁弾を浴びて抑えはく奪が決定的になった。
:初の:
7月29日の巨人戦ではどよめきに包まれる中で7回裏に登板して同年初の151キロを計測するなど無失点に抑えた。だが本来の状態には戻らず9月3日の巨人戦ではプロ入り初の試合前半に登板、しかも1対13という大差がついた場面だった。翌日の広島戦ではプロ入り以来無失点を継続してきたマツダスタジアムで28戦目にして初失点、10月8日に不振では初となる登録抹消となった。シーズン最終戦で復帰を果たしたが、40試合の登板で防御率5.68、イニング数の1.7倍の走者を出すなど苦しみ続けた一年となった。
:完全復活ならず:
21年は初の2軍キャンプとなり開幕も2軍という報道も出たが、開幕戦を目前にした3月20日に1軍昇格、抑えの三嶋につなぐ8回を任されて4月には月間12試合に登板して1失点という好投を見せた。5月以降も好投を続けて6月終了時点では防御率1.83を記録、日本代表にも選出されて東京五輪では2試合の中継ぎ登板に留まったが無失点に抑えて金メダル獲得に貢献した。だが課題の夏場に大幅に数字を落とすと、三嶋が抑えを外れた9月中盤からは抑えを任されたが26日の広島戦で自らのエラーもあって4失点を喫すると、そこから3試合連続でセーブを失敗して登録抹消となった。シーズン終了後に最愛の存在であった母ベリアさんの死去が発表された。
:抑え復帰:
22年は体重を8キロ落としてキャンプに合流、ストレートの威力を取り戻して開幕直前に抑えを勝ち取ったが同年の初登板となった3月27日の広島戦で9回表に二死満塁のピンチを背負うと西川の走者一掃のスリーベースをはじき返されてセーブ失敗となり、4月10日にはコロナウイルスに感染して離脱という厳しい幕開けとなった。一1カ月後に1軍復帰を果たすと安定感のあるピッチングを続けて、6月29日の阪神戦でお立ち台に上がると「またクローザーに戻れて本当によかったと思っています。家族とともにベイスターズファンのために、また一生懸命腕を振って頑張りたいと思います」と感情を高ぶらせながら語った。
:涙の残留発表:
8月24日の阪神戦では佐々木の30歳6カ月を抜くを史上最年少の29歳10カ月で200セーブを達成、8月31日の中日戦でお立ち台に上がると難病で離脱した三嶋へのエールを呼び掛けてスタンドから大きな拍手が上がった。同年は一か月間の離脱がありながら56試合に登板、キャリアハイの防御率1.33、37セーブ、WHIP0.70という素晴らしい成績を残した。オフにはメジャー移籍が決定的と言われていたが同年のファンフェスティバルで残留を発表、涙を流しながら母への思いを語った。6年契約という球団史上最長となり事実上のメジャー封印となった。
:炎上:
23年は初登板となった4月1日の阪神戦で近本のサヨナラ打で敗戦投手になったが、次戦からは好投を続けて月間12試合に登板して11.2回で8安打2四球15奪三振という好スタートを切った。だが5月1日にチームメイトのバウアーが奪三振時など行うソードパフォーマンスを自身のSNSで敬意に欠けると非難したことが大炎上、翌2日に謝罪したが同日の広島戦で坂倉の満塁弾などで5失点と炎上、翌日には初登板となったバウアーの初勝利を守るセーブを記録したが、強風の影響で大乱戦となった5日のヤクルト戦で長岡に逆転サヨナラツーランを被弾とわずか数日間で一気に信頼を失った。7月には中継ぎに降格し、終盤には登録抹消という苦難のシーズンになった。
::
18年からは毎試合5つのグローブを来場した子供たちにプレゼントするファンサービスを三浦から引き継いだ。 |
|
初記録 |
初登板 |
2015年3月28日巨人戦 |
初勝利 |
2015年5月22日阪神戦 |
初奪三振 |
2015年3月28日巨人戦:高橋由から |
初完投 |
|
初セーブ |
2015年3月31日広島戦 |
|
記録達成日 |
100セーブ |
2018年4月10日巨人戦 |
200セーブ |
2022年8月24日阪神戦 |
500登板 |
2023年8月20日阪神戦 |
その他の記録 |
月間MVP |
19年7月 |
|
|
|
|
15 |
16 |
17 |
18 |
19 |
20 |
21 |
22 |
23 |
|
新人王 |
● |
|
|
|
|
|
|
|
|
1回 |
最多セーブ |
|
|
|
● |
● |
|
|
|
|
2回 |
オールスター |
● |
● |
● |
● |
● |
|
● |
|
● |
7回 |
|
投球成績
|
チーム |
登板 |
完投 |
完封 |
勝利 |
敗戦 |
S |
回数 |
安打 |
本塁 |
四球 |
死球 |
三振 |
暴投 |
ボーク |
失点 |
自責 |
防御率 |
|
15 |
横浜 |
58 |
0 |
0 |
2 |
4 |
37 |
56.1 |
38 |
2 |
11 |
1 |
66 |
4 |
1 |
13 |
12 |
1.92 |
16 |
横浜 |
59 |
0 |
0 |
2 |
5 |
33 |
57.2 |
57 |
7 |
23 |
0 |
61 |
2 |
0 |
27 |
23 |
3.59 |
17 |
横浜 |
68 |
0 |
0 |
4 |
2 |
26 |
65.2 |
52 |
3 |
13 |
1 |
84 |
1 |
0 |
16 |
12 |
1.64 |
18 |
横浜 |
57 |
0 |
0 |
2 |
4 |
37 |
56.1 |
40 |
5 |
18 |
1 |
63 |
1 |
0 |
18 |
17 |
2.72 |
19 |
横浜 |
61 |
0 |
0 |
3 |
2 |
30 |
60.0 |
44 |
6 |
19 |
0 |
54 |
0 |
0 |
18 |
13 |
1.95 |
20 |
横浜 |
40 |
0 |
0 |
0 |
3 |
6 |
38.0 |
52 |
4 |
14 |
0 |
31 |
1 |
0 |
26 |
24 |
5.68 |
21 |
横浜 |
60 |
0 |
0 |
3 |
2 |
1 |
55.0 |
58 |
2 |
14 |
3 |
39 |
0 |
0 |
21 |
20 |
3.27 |
22 |
横浜 |
56 |
0 |
0 |
0 |
2 |
37 |
54.1 |
29 |
4 |
9 |
0 |
42 |
1 |
0 |
9 |
8 |
1.33 |
23 |
横浜 |
49 |
0 |
0 |
3 |
7 |
20 |
45.1 |
48 |
7 |
8 |
1 |
54 |
1 |
0 |
22 |
22 |
4.37 |
|
通算 |
9年 |
508 |
0 |
0 |
19 |
31 |
227 |
488.2 |
418 |
40 |
129 |
7 |
494 |
11 |
1 |
170 |
151 |
2.78 |
|
|
打撃成績
|
チーム |
試合 |
打数 |
得点 |
安打 |
二塁 |
三塁 |
本塁 |
塁打 |
打点 |
盗塁 |
盗刺 |
犠打 |
犠飛 |
四球 |
死球 |
三振 |
併殺 |
失策 |
打率 |
|
15 |
横浜 |
58 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
.000 |
16 |
横浜 |
59 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
.000 |
17 |
横浜 |
68 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
.000 |
18 |
横浜 |
57 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
1 |
.000 |
19 |
横浜 |
61 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
1 |
.000 |
20 |
横浜 |
40 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
1 |
.000 |
21 |
横浜 |
60 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
1 |
.000 |
22 |
横浜 |
56 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
.000 |
23 |
横浜 |
49 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
.000 |
|
通算 |
9年 |
508 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
4 |
.000 |
|
|
日本シリーズ投球成績
|
チーム |
登板 |
完投 |
完封 |
勝利 |
敗戦 |
S |
回数 |
安打 |
本塁 |
四球 |
死球 |
三振 |
暴投 |
ボーク |
失点 |
自責 |
防御率 |
|
17 |
横浜 |
3 |
0 |
0 |
0 |
0 |
1 |
3.1 |
4 |
1 |
1 |
0 |
4 |
0 |
0 |
1 |
1 |
2.70 |
|
通算 |
1年 |
3 |
0 |
0 |
0 |
0 |
1 |
3.1 |
4 |
1 |
1 |
0 |
4 |
0 |
0 |
1 |
1 |
2.70 |
|
|
日本シリーズ打撃成績
|
チーム |
試合 |
打数 |
得点 |
安打 |
二塁 |
三塁 |
本塁 |
塁打 |
打点 |
盗塁 |
盗刺 |
犠打 |
犠飛 |
四球 |
死球 |
三振 |
併殺 |
失策 |
打率 |
|
17 |
横浜 |
3 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
.000 |
|
通算 |
1年 |
3 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
.000 |
|
|
クライマックスシリーズ投球成績
|
チーム |
登板 |
完投 |
完封 |
勝利 |
敗戦 |
S |
回数 |
安打 |
本塁 |
四球 |
死球 |
三振 |
暴投 |
ボーク |
失点 |
自責 |
防御率 |
|
16 |
横浜 |
4 |
0 |
0 |
0 |
0 |
3 |
4.0 |
2 |
1 |
2 |
0 |
3 |
0 |
0 |
1 |
1 |
2.25 |
17 |
横浜 |
6 |
0 |
0 |
0 |
0 |
2 |
6.0 |
1 |
0 |
0 |
0 |
8 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0.00 |
19 |
横浜 |
2 |
0 |
0 |
1 |
0 |
0 |
3.0 |
2 |
1 |
0 |
0 |
4 |
0 |
0 |
1 |
1 |
3.00 |
22 |
横浜 |
2 |
0 |
0 |
0 |
0 |
1 |
2.0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
3 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0.00 |
|
通算 |
4年 |
14 |
0 |
0 |
1 |
0 |
6 |
15.0 |
5 |
2 |
2 |
0 |
18 |
0 |
0 |
2 |
2 |
1.20 |
|
|
クライマックスシリーズ打撃成績
|
チーム |
試合 |
打数 |
得点 |
安打 |
二塁 |
三塁 |
本塁 |
塁打 |
打点 |
盗塁 |
盗刺 |
犠打 |
犠飛 |
四球 |
死球 |
三振 |
併殺 |
失策 |
打率 |
|
16 |
横浜 |
4 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
.000 |
17 |
横浜 |
6 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
.000 |
19 |
横浜 |
2 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
.000 |
22 |
横浜 |
2 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
.000 |
|
通算 |
4年 |
14 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
.000 |
|
|
オールスター投球成績
|
回数 |
登板 |
完投 |
完封 |
勝利 |
敗戦 |
S |
回数 |
安打 |
本塁 |
四球 |
死球 |
三振 |
暴投 |
ボーク |
失点 |
自責 |
防御率 |
|
通算 |
7回 |
7 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
7.0 |
13 |
1 |
0 |
1 |
4 |
0 |
0 |
7 |
5 |
6.43 |
|
|
二軍投球成績
|
チーム |
登板 |
完投 |
勝利 |
敗戦 |
S |
回数 |
安打 |
本塁 |
四死 |
三振 |
失点 |
自責 |
防御率 |
|
22 |
横浜 |
1 |
0 |
0 |
0 |
0 |
1.0 |
0 |
0 |
2 |
2 |
0 |
0 |
0.00 |
23 |
横浜 |
3 |
0 |
0 |
0 |
0 |
3.0 |
2 |
0 |
0 |
4 |
1 |
1 |
3.00 |
|
通算 |
2年 |
4 |
0 |
0 |
0 |
0 |
4.0 |
2 |
0 |
2 |
6 |
1 |
1 |
2.25 |
|
|
オリンピック投球成績
|
チーム |
登板 |
完投 |
完封 |
勝利 |
敗戦 |
S |
回数 |
安打 |
本塁 |
四球 |
死球 |
三振 |
暴投 |
ボーク |
失点 |
自責 |
防御率 |
|
21 |
日本 |
2 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
2.0 |
1 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0.00 |
|
通算 |
1年 |
2 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
2.0 |
1 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0.00 |
|
|
|