山下 幸輝
66
|
名前 |
やました こうき |
生年月日 |
1993年1月31日 |
経歴 |
関東第一高−國学院大−横浜(14年D5位) |
入団年 |
14年ドラフト5位 |
在籍年 |
15年−22年 |
背番号 |
15年−20年[38]:21年−22年[66] |
投打 |
右投げ左打ち |
守備 |
内野手 |
|
|
:母との約束:
7歳年上の兄・和輝さんが野球をやっていた事もあって幼いころからプロ野球選手に憧れて、母親の君代さんに「プロ野球選手になる」と約束した。小学校時代にはテレビ番組の影響でもりを買って自転車で片道90分かけて川に行き、アユなどをもりで突いて「獲ったど〜」と雄たけびを上げるなど野生児としてすくすくと育った。
:突然の別れ:
小学6年の夏に母親の春代さんが応援に駆けつけていたグラウンドでくも膜下出血で倒れて、1週間後に42歳の若さで亡くなった。愛する母親の突然の死に山下は悲しみに暮れたが、家族や周囲の人の助けもあって野球を続けると、山下はその支えに応えるべく猛練習で強豪校の関東第一高へ入学した。
:体重53キロから:
関東第一高へ入学時には168センチ、53キロという体格で、コーチには「体が小さいし、打てないから犠打の練習だけしていたほうがいい」とも言われたが、朝と昼にどんぶり3杯、夜には4杯という食トレで2年半で体重が15キロ増加。ウエイトトレーニングの効果もあって遠投も80メートルから120メートルまで伸びた。
:甲子園:
兄・和輝さんは志学館で背番号2を背負いながら最後の夏を前に足首を骨折し、チームも県大会決勝で敗れて甲子園出場を逃した。和輝さんから「お前が甲子園に行け」と夢を託された幸輝は3年夏に甲子園出場を果たすと初戦の佐野日大戦で3安打、2回戦の遊学戦ではホームランを含む3安打、3回戦の早稲田実業戦ではベンチからは「ストレートを狙え」という指示が出ていたが、チェンジアップを狙い打って甲子園球場のライトスタンドにツーランを叩き込みスタンドで観戦していた和暉さんを喜ばせた。山下の16打数9安打という活躍もあってチームは25年ぶりのベスト8まで駒を進めた。
:山崎康晃からサヨナラ満塁ホームラン:
國學院大に進学すると木製バットに手こずって打球が外野の頭を越えなくなったが1年春からスタメンで起用されると、2年秋には打率.282を記録。「ホームランを打ちたくて欲張っていた」という山下は自腹でメンタルトレーナーと契約してチームが勝つために何をすればよいかをイメージするようになり、主将を任された4年春には勝ち点を上げた方が優勝の亜細亜大1回戦で0対0で迎えた延長10回裏に山崎康からサヨナラ満塁ホームランを放った。東都通算は一部二部合算で352打数81安打で打率.230。ドラフト会議で横浜から5位指名を受けて入団。
:念願のプロ入り:
ドラフト指名時には自身のツイッターの内容がカブトムシを「神」と名付けて飼育し、ゴキブリをペットボトルに入れてサプリメントを与えるというインパクトの強い内容だたっため大きな話題を集め「ムシキング」という異名がつけられた。なお念願のプロ入りを果たした山下は指名時に人目をはばからず号泣、山下は「真っ先に思い浮かんだのはお母さんのこと。そして家族、支えてくれた人たちのことを思うと、もうどうにも涙が止まりませんでした」。そして母の墓前にプロ入りを報告すると「現役20年」という君代さんが亡くなった42歳までの現役を誓った。
:初ヒット:
ルーキーイヤーは新人合同自主トレで行われる恒例の山登りで圧勝、幼い頃から野山を走り回っていた山下は「今日は楽でした。道があったので」とコメントした。開幕一軍には残ったがわずか1打席で登録抹消、7月28日に再昇格を果たすと同日のの巨人戦で7回裏の守備から途中出場し8回表に高木京からセンター前へ初ヒットを放ち、9回表にはライト前へタイムリーを運んで初打点も記録した。8月11日の巨人戦で初スタメンも6回表の一死一塁で送りバント失敗で追い込まれて三振併殺に倒れるなど3打数ノーヒットで途中交代となった。同年のフェニックスリーグから一本足打法に挑戦し、台湾で行われたウインター・リーグにも参加した経験を積んだ。
:一軍:
16年は開幕第2戦で代打でライト前、翌日も代打でセンター前ー、続く巨人戦でも代打でライト前を放つと、そのまま守備についてツーベースと4打数連続安打を記録。スタメンのチャンスも手にしたが5月13日の阪神戦では2安打を放ちながらも2回表に原口のサードファウルフライを落球、8回表には高山のサードフライを落球とハマスタの風に翻弄されて逆転負けの一因を作ってしまった。6月19日の楽天戦では3回裏の二死三塁でショートゴロを全力疾走で内野安打として同点に追いつくと、すかさず二盗を決めて逆転につなげる活躍を見せた。エリアン加入後はベンチに回ったが、守備固めや代打として長期間一軍でプレーした。また8月5日に守護神の山崎康が4試合連続で救援に失敗してベンチで涙を流すと関根を連れて山崎の前に立ってカメラから守ってみせた。シーズン後にはU-23の日本代表としてワールドカップに出場し、5番打者としてチームを引っ張り世界一に導いた。
:全ポジション:
17年は4月14日に負傷交代の筒香に代わって9回裏の守備にレフトの守備につくなど外野にも挑戦し、二軍では内野全ポジションに加えて外野でも12試合に出場した。春先は一か月間で登録、抹消、登録、抹消と頻繁に一軍二軍を行き来したがどこでも守れる最後の一枠という位置づけだったためほとんど試合には出場できなかった。7月22日の巨人戦には2番セカンドのスタメンを任されたが初回の守備で坂本のセカンド後方への飛球を梶谷とお見合いして失点につなげてしまうと、26日の阪神戦では守備固めで登場も2点リードの9回裏に併殺コースのサードゴロで悪送球を投じてあやわ逆転サヨナラのピンチを招くなど信頼を失って翌日に抹消となった。
:涙:
一時はイップスに陥るなど苦しい時期を過ごし、18年も開幕戦の試合前練習で故障したソトに代わって翌日に昇格したが、出場はないまま抹消とスーパーサブゆえの苦悩も味わった。5月31日に再昇格を告げられると関根に「今回の昇格でダメだったら(野球を)諦めるわ」と背水の覚悟を伝えた。そして同日の楽天戦で守備固めで出場し、同点で迎えた10回裏二死二塁で「決めてきます」と宣言して臨んだ打席で松井祐からライトオーバーのサヨナラタイムリーを放って見せた。山下は一塁を回った所で号泣し、数分後に行われたお立ち台でも涙が止まらず「打てて良かったです。絶対打ってやろうという気持ちでした。もう…しゃべれないです…」と何度も目頭をぬぐった。
:初本塁打:
スカパーサヨナラ賞を受賞した山下は表彰式が行われた6月14日には同日のロッテ戦で代打で起用されて同点タイムリーを放った。翌日のオリックス戦では2番セカンドで2安打、22日の中日戦では第1打席で先制に繋がるライト前を放つと、第2打席ではナゴヤドームの右中間へ初本塁打を叩き込んだ。だが柴田、倉本との争いに敗れて7月2日に抹消となると、二軍では7月10日に4打数4安打、27日にも4打数4安打を記録するなど打率.304(237打数72安打)と活躍したが1軍ではチャンスを掴み切れなかった。
:2年ぶりの1軍昇格:
19年はイースタンリーグで91試合に出場したが打率.260に留まり1軍出場は果たせなかった。27歳となり後がなくなってきた20年は春季キャンプで関根と話し合って野球を楽しもうと決意、金髪に染め、打席でのスイング時や守備でも大声を上げるなどプロ入り後のおとなしいイメージを一新、生き残る道も代打に絞って打撃練習に集中、精力的に取り組んできたウエイト・トレーニングの成果もあって体重も10キロ以上増加してイメージを一新、2軍で打率.375を記録して7月14日に一軍昇格を果たした。
:代打で活躍も:
7月19日の巨人戦でセンター前ヒットを放って2年ぶりのヒットを記録すると、31日の阪神戦ではレフト前にしぶとくタイムリーをはじき返して、ラミレス監督から「山下が来てからチームの雰囲気が変わった」と絶賛された。代打の切り札としての起用に加えて8月16日のヤクルト戦では3番ファーストに抜擢されて2安打を放つなど活躍、打撃でミートする瞬間に大声を上げる姿や、ビルドアップした体格も話題になり注目されたが、5番で起用された22日の中日戦で3タコに終わると以降は3割台後半だった打率が急降下、10月7日に登録抹消となった。
:2試合連続スタメンも:
21年は4月30日のヤクルト戦でワンバウンドになりそうなフォークを左中間へはじき返す悪球打ちで同年の初ヒットを記録、5月5日の中日戦ではショート後方にしぶとく落とす2点タイムリーを放って一塁ベースで笑顔を見せた。28日の楽天戦ではスタメンを任されて4打数1安打ながら打席で14球投げさせる粘りを見せると、翌日の楽天戦でもスタメンで起用されてファーストの守備では再三の好守を見せたが、同点で迎えた9回表一死満塁でスクイズのサインを見逃してチャンスを逃し後半戦は二軍暮らしとなった。
:16球:
22年は開幕直後の4月1日に1軍へ昇格したがコロナウイルスの影響で抹消となり、再昇格を果たしたが5月2日に再度抹消となった。イースタンリーグで3割を超える打撃結果を残して7月22日に再昇格、7月24日の阪神戦で代打起用されると粘りに粘って最後は見逃し三振に倒れたが16球という執念を見せた。だがその打席が最後の1軍の打席となり、同年オフに戦力外通告を受けて現役を引退した。 |
|
初記録 |
初出場 |
2015年3月27日巨人戦:代走で |
初安打 |
2015年7月28日巨人戦:高木京から |
初本塁打 |
2018年6月22日中日戦:吉見から |
初打点 |
2015年7月28日巨人戦:香月から |
初盗塁 |
2016年5月8日広島戦 |
|
|
|
|
打撃成績
|
チーム |
試合 |
打数 |
得点 |
安打 |
二塁 |
三塁 |
本塁 |
塁打 |
打点 |
盗塁 |
盗刺 |
犠打 |
犠飛 |
四球 |
死球 |
三振 |
併殺 |
失策 |
打率 |
|
15 |
横浜 |
23 |
42 |
2 |
10 |
2 |
0 |
0 |
12 |
2 |
0 |
1 |
1 |
0 |
0 |
0 |
12 |
0 |
2 |
.238 |
16 |
横浜 |
62 |
98 |
11 |
22 |
2 |
1 |
0 |
26 |
7 |
3 |
1 |
0 |
1 |
1 |
0 |
18 |
1 |
1 |
.224 |
17 |
横浜 |
21 |
21 |
3 |
3 |
2 |
0 |
0 |
5 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
6 |
0 |
2 |
.143 |
18 |
横浜 |
21 |
63 |
3 |
14 |
2 |
0 |
1 |
19 |
3 |
1 |
0 |
2 |
0 |
0 |
0 |
13 |
1 |
2 |
.222 |
20 |
横浜 |
39 |
43 |
2 |
9 |
2 |
0 |
0 |
11 |
1 |
0 |
0 |
0 |
0 |
3 |
0 |
7 |
1 |
0 |
.209 |
21 |
横浜 |
46 |
50 |
3 |
10 |
1 |
0 |
0 |
11 |
4 |
0 |
0 |
0 |
0 |
2 |
0 |
7 |
0 |
1 |
.200 |
22 |
横浜 |
12 |
12 |
1 |
1 |
0 |
0 |
0 |
1 |
1 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
3 |
0 |
0 |
.083 |
|
通算 |
7年 |
224 |
329 |
25 |
69 |
11 |
1 |
1 |
85 |
18 |
4 |
2 |
3 |
1 |
6 |
0 |
66 |
3 |
8 |
.210 |
|
|
二軍打撃成績
|
チーム |
試合 |
打数 |
得点 |
安打 |
二塁 |
三塁 |
本塁 |
塁打 |
打点 |
盗塁 |
犠打 |
犠飛 |
四死 |
三振 |
併殺 |
失策 |
打率 |
|
15 |
横浜 |
75 |
283 |
28 |
70 |
13 |
3 |
3 |
98 |
25 |
8 |
6 |
6 |
29 |
49 |
4 |
8 |
.247 |
16 |
横浜 |
32 |
117 |
13 |
35 |
8 |
2 |
1 |
50 |
12 |
3 |
2 |
0 |
7 |
21 |
3 |
2 |
.299 |
17 |
横浜 |
74 |
221 |
20 |
65 |
8 |
0 |
4 |
85 |
14 |
14 |
4 |
2 |
16 |
31 |
1 |
4 |
.294 |
18 |
横浜 |
76 |
237 |
36 |
72 |
15 |
2 |
8 |
115 |
25 |
7 |
1 |
0 |
16 |
31 |
5 |
8 |
.304 |
19 |
横浜 |
91 |
281 |
39 |
73 |
11 |
2 |
6 |
106 |
36 |
9 |
1 |
2 |
21 |
47 |
4 |
6 |
.260 |
20 |
横浜 |
22 |
62 |
6 |
20 |
5 |
1 |
1 |
30 |
11 |
1 |
2 |
2 |
3 |
5 |
4 |
2 |
.323 |
21 |
横浜 |
48 |
161 |
17 |
43 |
12 |
0 |
2 |
61 |
25 |
1 |
0 |
6 |
8 |
19 |
3 |
3 |
.267 |
22 |
横浜 |
53 |
156 |
20 |
48 |
10 |
1 |
4 |
72 |
21 |
0 |
2 |
1 |
9 |
21 |
1 |
1 |
.308 |
|
通算 |
8年 |
471 |
1518 |
179 |
426 |
82 |
11 |
29 |
617 |
169 |
43 |
18 |
19 |
109 |
224 |
25 |
34 |
.281 |
|
|
|