:亡命:
キューバ生まれ。自動車整備の専門学校に通い、成績も良かったエレラは整備士を目指していたが、16歳から本格的に始めた野球に徐々にのめり込み急成長。キューバ代表に選出されるまでになったが、、05年6月13日にドミニカ共和国へ亡命し、翌06年12月18日にアメリカのピッツバーグ・パイレーツとメジャー契約を結んだ。ルーキーイヤーはAAで終えたが、2年目の08年には6月12日にMLB初昇格を果たし、同日のカージナルス戦で初登板初先発、5回途中6失点でKOされたが試合は延長10回の末に11対10という乱戦で物にした。3度目の先発となった6月24日のパドレス戦では6回を6安打、1四球で無失点に抑えてMLB初勝利を記録。
:メジャー復帰:
09年はAAで11勝1敗、防御率3.23、AAAでも4試合の登板ながら防御率2.30を記録したがMLB昇格はならなかった。翌年の春にプロ野球から身を引いたが、3年の空白期間を経て13年に独立リーグで復帰し、翌14年にはAAAでリリーフとして41試合に登板し防御率2.52、メジャーでも20試合の登板で防御率2.70の好成績を残した。また12年には祖国へ置いてきた家族と7年ぶりに再会を果たした。
:横浜入団:
15年に横浜と契約。当初は第5の外国人選手という位置づけだったが、目玉だったグリエルが来日を拒否して退団となったため外国人枠に滑り込む形になった。春先は4月10日の中日戦で同点で迎えた8回裏に痛恨のボークから4失点を喫するなど不安定な内容が目立ったが、5月13日の中日戦から12試合連続無失点を記録するなど信頼感を高めて8回を任されるまでになった。
:2夜連続:
7月29日には巨人との大阪ドーム2連戦の初戦で延長10回裏に登板も亀井にサヨナラホームランを被弾して敗戦、翌日の第2戦も同点に追いついた直後の9回裏に鈴木にタイムリーを打たれて2試合連続サヨナラ負けとなった。また投球モーションを審判団に目を付けられて8月4日の中日戦では走者がいないにもかかわらず2つのボークを取られるなど日本タイ記録のイニング3ボークを記録した。
:11試合連続ノーヒット:
8月に入ると登板過多の苦しい状態にもかかわらず11試合連続でノーヒットに抑える驚異的な活躍を見せた(全て1イニング)、8月25日からは9日間で7試合に登板するなどCSへの望みを残すチームを支え続けたが、同じく登板過多の山崎康に代わって抑え起用が予定されていたが9月4日の巨人戦で9回のマウンドに上がる直前に右肩違和感を発症して離脱となってしまった。
:ハマスタでは無敵も:
故障した右肩の状態は深刻と言われていたが、横浜スタジアムで27回を投げて被安打15という圧巻のピッチングを続けていたこともあって残留となった。だが翌年は開幕前から肩痛に悩まされて4月23日には二軍のロッテ戦でマウンドに上がったが右肩を痛めて緊急鋼板となり、結局二軍でも2試合しかマウンドへ上がれず退団となった。 |
|