:ヤンキース入団:
16年のドラフトでヤンキースから6位指名を受けて契約、ルーキーイヤーはA-で13試合に登板したが、トミージョン手術を受けて翌17年は登板なしに終わった。18年に復帰して16試合に登板すると、19年にはAAで36試合に登板して防御率2.59、イニング数を大幅に上回る64奪三振という好成績を残した。
:初登板:
コロナウイルスの影響で60試合という短縮シーズンになった20年に開幕から間もない7月26日にメジャー初昇格、7月29日のオリオールズ戦でメジャーデビュー、9対3で迎えた9回裏に登板すると先頭のヌニエス(日本ハム)は四球で歩かせたが連続三振を奪うなど無安打1四球という上々の初登板となった。だが8月30日のメッツ戦でイニング跨ぎとなった5回表にカノに勝ち越しツーランを被弾すると、3イニング目となった6回表には3四球と暴投で無死満塁を作って降板、救援した投手も打ち込まれたため防御率が14.73と大きく跳ね上がった。
:初勝利の翌日にメジャー記録:
21年はヤンキースで8試合に登板、7月21日のフィリーズ戦では延長タイブレーク制の10回表無死二塁で登板して無失点に抑えると、その裏にヤンキースがサヨナラ勝利を収めたためクリスキーに初勝利が記録された。だが翌日のレッドソックス戦でも4対3で迎えた延長10回裏の無死二塁という大舞台を任されたが、いきなり先頭のボガーツの初球に暴投を投じて無死三塁とすると、立て続けに暴投を投じて同点に追い付かれてしまう。さらにボガーツを四球で歩かせると、次打者にも連続暴投でメジャー記録に並ぶイニング4暴投を記録、J・D.マルティネスこそ空振り三振に切って取ったが、レンフローに犠牲フライを運ばれて初勝利の翌日に初敗戦を記録した。
:横浜移籍:
翌日にマイナー降格となり、9月14日に40人枠を外れてオリオールズに移籍、オリオールズでは4試合に登板したが好成績は残せずオフに横浜DeNAに移籍した。横浜ではシーズン当初は制球に苦しんだが、156キロをたびたび計測するなど力強いストレートを見せて、6月にはイニング数を上回る奪三振を記録するなど徐々に評価を上げた。だが7月3日のヤクルト戦で右ひじを痛めて降板、1軍復帰は果たせず同年限りで退団となった。
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23年のロイヤルズと契約してメジャーでも4試合に登板、7月に西武に移籍すると抑えを任された8月30日の楽天戦で三者凡退に抑えてセーブを記録するなど活躍、残留も期待されたが14回で9四球という制球難は解消せず退団となった。 |
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