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岩田 将貴



68
名前 いわた まさき
生年月日 1998年6月16日
経歴 九州産大九州高−九州産業大−阪神(20年育成D1位)−横浜
入団年 25年に阪神から移籍
在籍年 25年−
背番号 25年−[68]
投打 左投げ左打ち
守備 投手
変則フォーム
福岡市出身、小1から兄の影響で野球を始めて中1の冬に長い腕を生かすためにサイドスローに転向、地元ソフトバンクで活躍する変則左腕・森福を参考に特徴的な投球フォームを作り上げた。中3時にはNOMOジャパンに選出されてアメリカ遠征も経験、野茂監督から大きな刺激を受けて変則フォームにトルネード投法をミックスした投球フォームに挑戦した。

浜地に被弾
九産大九州高に進学するとエースになった1年秋に九州大会でベスト4に進出してチームをセンバツ出場に導いた。センバツでは初戦の近江戦で初回に3四球で先制こそ許したが、2回からは3イニング連続の三者凡退に抑えるなど8回完投で3安打4四球で2失点自責1という好投を見せた。120キロ台だった球速アップを求めて苦手だった下半身強化にも取り組み投球フォームも変えるなどもがいたが、球速が135キロを超えなかったことで球速へのこだわりを捨ててサイドスローに復帰、2年夏には県大会で福岡大大濠の浜地と投げ合ったが浜地にホームランを打たれて0対2で敗れた。

2度の手術
九州産業大に進学すると初先発となった1年秋の福教大戦で8.1回までパーフェクトという衝撃の先発デビューを飾った。エースになった2年春には7勝0敗でMVPに選出されて大学選手権でも東海大、東洋大相手に好投を見せた。だが左ひじを痛めて手術となり2年秋を全休、3年夏にもひじを手術するなどプロ入りが危ぶまれたがドラフト会議を直前に控えた4年秋に復帰してリリーフながら5試合に登板して阪神から育成1位指名を受けた。

支配下
プロ入り後は体力不足を痛感して連日のように体力強化に精を出してルーキーイヤーの登板はウエスタンリーグでの8登板にとどまった。2年目には6月25日からウエスタンリーグで10試合連続無失点に抑えて7月25日に支配下契約を勝ち取った。背番号は出身校の九産大に縁のある93(キューサン)になった。同年は1軍登板は叶わなかったがウエスタンリーグで41試合に登板して防御率1.97を記録した。

好成績も
23年は今一つの成績に終わって「ラストチャンスだと思って」迎えた24年はキャンプでジェフ・ウィリアムスからスライダーの指導を受けて左キラーに磨きをかけ、球速もアップするなど手応えを掴んでウエスタンリーグで46試合に登板、防御率2.11という好成績を残した。だが1軍初登板は果たせないまま同年オフに戦力外となった。岩田は「チャンスが欲しかった」とショックを受けたが横浜からオファーがあり次のチャンスを手にした。

浜地
高校時代に敗れた浜地とはプロ入り前に成人式で再会してツーショットの写真を撮り、その後に阪神でチームメイトとなるなど何かと縁があるが、浜地も現役ドラフトで横浜移籍となり現役ドラフト当日には公式発表前に「同じ」と2文字だけのLINEが送られてきた。


初記録
初登板
初勝利
初奪三振
初完投
初セーブ


  投球成績
チーム 登板 完投 完封 勝利 敗戦 S 回数 安打 本塁 四球 死球 三振 暴投 ボーク 失点 自責 防御率
通算


  打撃成績
チーム 試合 打数 得点 安打 二塁 三塁 本塁 塁打 打点 盗塁 盗刺 犠打 犠飛 四球 死球 三振 併殺 失策 打率
通算


  二軍投球成績
チーム 登板 完投 勝利 敗戦 S 回数 安打 本塁 四死 三振 失点 自責 防御率
21 阪神 8 0 2 0 0 6.2 2 1 6 6 2 2 2.70
22 阪神 41 0 4 1 0 32.0 19 1 13 34 9 7 1.97
23 阪神 44 0 2 3 0 42.2 51 2 16 39 25 23 4.85
24 阪神 46 0 1 2 0 38.1 28 2 5 29 12 9 2.11
通算 4年 139 0 9 6 0 119.2 100 6 40 108 48 41 3.08