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宮國 椋丞



65
名前 みやぐに りょうすけ
生年月日 1992年4月17日
経歴 糸満高−巨人(10年D2位)−横浜
入団年 21年に巨人から移籍
在籍年 21年−23年
背番号 21年シーズン途中[106]:21年シーズン途中−23年[65]
投打 右投げ右打ち
守備 投手
0x64
沖縄県生まれ、父の透さんは宮古高校の外野手としてクリーンナップを打って2年連続で県大会決勝まで勝ち上がったが共に敗れて甲子園出場は果たせなかった。大学、社会人でもファーストとして活躍し、引退後も中学校の野球部監督を務めた。家族の影響もあって幼少期から野球にふれていた宮國は小1から野球部に入り、入部一か月後に行われた1、2年生の初の対外試合で初先発、0対64で敗れたが宮國は笑顔で野球を楽しんだ。

1年生大会で優勝
中学時代には投手兼ショートとしてプレー、糸満高に進学時は体重63キロという細身だったが秋に行われた沖縄県の1年生大会では決勝戦の興南高戦で7安打1失点で完投、リリーフした島袋から決勝点を上げて優勝を果たした。

42年ぶり県大会決勝も
エースとなった2年春には九州大会に進出、2年夏は2回戦で敗れたが、3年夏には42年ぶりとなる県大会決勝まで勝ち上がった。決勝の興南高戦では島袋と投げ合って6回までは1対1の投手戦となったが、7回裏にエラーで勝ち越し点を奪われると流れを止めることができず失点を重ねて、最後は満塁ホームランでとどめを刺されてイニング8失点で甲子園の夢は叶わなかった。

沖縄県
糸満高を破って甲子園に出場した興南高は史上6校目となる春夏連覇を達成した。エース島袋は「今思えば、甲子園で戦ったチームより糸満の方が強かった。沖縄の決勝はレベルの高い試合だったし、同じ沖縄にすごいライバルがいたんだなと思います」と語った。

19歳でメジャー相手に
前夜は緊張からなかなか寝られなかったというドラフト会議では巨人から2位指名を受けた。ルーキーイヤーは小谷コーチの元で体力づくりに費やしてイースタンリーグでも4試合登板に留まったが、3勝0敗で防御率0.00を記録した。秋季キャンプで原監督に評価されて、翌年の春には1軍キャンプに参加、開幕直前に行われたメジャーリーグのアスレチックスとの親善試合で先発を任されて5回1失点で9奪三振を記録して大きくアピールした。

初登板
初登板初先発となった4月8日の阪神戦では親子の夢だった甲子園球場のマウンドに上がり、初回、2回を三者凡退に抑えると、3回裏には先頭の新井良に四球を出したが続く小宮山を併殺、4回裏にも先頭打者出塁を許したが鳥谷を併殺に抑えるなど6回まで1安打2四球とピンチすら招かず、7回表に1点こそ失ったがブラゼルを併殺に仕留めて7回を3安打3四球の1失点に抑え込んだ。打線も村田の先制タイムリーなどで5点を上げて快勝、巨人では槙原以来29年ぶりとなる10代での初登板初勝利を記録した。宮國は甲子園での初登板を振り返って「神聖な場所、高校時代に味わえることができなかったのでうれしい」

初完封
初登板の翌週にも新潟で行われた横浜戦で7回を5安打無四球で自責0に抑えたが打線の援護は得られず、チームは延長11回裏に中村紀にサヨナラツーランを浴びて惜敗した。だが1軍では初の東京ドームのマウンドとなった5月1日の広島戦では3回裏に第76代の巨人4番に座った村田のタイムリーで先制すると、宮國もタイムリーを放って自らを援護、投げては3日前に覚えたツーシームを有効に使って付け入る隙すら与えず3安打無四球で初完封を達成した。堂々たるマウンドだったが、お立ち台ではシャイな性格に戻って小さな声量で初々しい姿を見せた。

スターナイトで復活
5月16日のオリックス戦で右肩を負傷して抹消となると、痛みはすぐに消えたが食生活を含めた肉体改造を行い、140キロ台そこそこだった球速をアップさせた。7月15日の中日戦で復帰すると、8月5日には横浜の夏の風物詩となる第1回STAR☆NIGHTの最終日に先発、4回までパーフェクトに抑えると先取点を貰った直後の5回裏に後藤のソロを被弾したが、7回を2安打1失点に抑えて8回2失点の三浦に投げ勝って復活勝利を上げた。

日本シリーズでも好投
その後もシーズンの最後まで先発ローテーションに定着、援護点に恵まれなかったこともあって6勝2敗に留まったが、16度の先発を含む17登板で防御率1.86、WHIP1.07という高卒2年目としては破格の成績を残した。CSでも中日とのファイナルステージ第3戦を任されて5回3失点、日本ハムとの日本シリーズ第4戦では「自分が日本シリーズのマウンドに立ってるなんて信じられなかった」と言いながら7回を3安打2四球で無失点に抑え込んだ。試合前のイメージトレーニングでも滅多打ちに合う姿ばかりが思い浮かぶマイナス思考だが、「打たれて当たり前」と開き直ってマウンドに上がった。

20歳で開幕投手
13年には主力がWBCに出場した影響もあって弱冠20歳にして開幕投手を任された。巨人では桑田以来25年ぶりとなる20歳での大役だったが6.1回を8安打3四球ながら3失点でまとめて勝利に貢献した。続く阪神戦では7回2失点、翌週の阪神戦でも8回2失点という好投を続けたが、続く横浜戦では5.0回5失点で降板すると、次戦からは2戦連続で5回を投げ切れず抹消となった。6月11日に2軍の日本ハム戦で話題のルーキー大谷と投げ合って8回途中2失点を記録するなど状態を上げて6月27日に復帰すると3戦連続で好投を見せたが、7月25日の広島戦で1.2回8失点で再び抹消となった。同年は6勝7敗ながら防御率4.93、WHIP1.69と大幅に数字を落とした。

不振
原監督が「ウチの若大将」と呼ぶほど高い期待をかけられていたが、14年もオープン戦から防御率4.85と不調から抜け出せず同年の初登板となった4月2日の横浜戦では梶谷、石川にホームランを被弾するなど4回5失点KO、試合は8回表にイニング10得点を上げて大逆転となったが宮國は抹消となった。8月7日の横浜戦で1軍復帰も、またしても石川にホームランを浴びるなど3回5失点で再び抹消となった。3度目の登板となったシーズン最終戦で広島の前田健に投げ勝って7回1失点で白星を上げたが、同年は二軍でも2勝9敗で防御率4.62という苦しいシーズンとなった。

中継ぎで好投
オフに内海、菅野らと自主トレを行い刺激を受けた15年は中継ぎに転向して6月から1軍に定着、敗戦処理からポジションを上げてイニングまたぎも多くこなす便利屋として活躍、39試合の登板で49.0回を投げて防御率2.94を記録した。翌16年も中継ぎとして34試合に登板して防御率2.95を記録したが、肩痛で7月29日に戦列を離れた。オフには先発再転向の調整でアジア・ウインターリーグに参加、欧州選抜戦で7回を4安打1失点に抑えた。

先発復帰
17年にはキャンプイン初日の2月1日に父・透さんが急性心筋梗塞で56歳の若さで急逝、「僕が投げて勝ってというのが一番の供養になると思うので頑張りたい」と決意を語った宮國はオープン戦で3試合に登板して防御率2.08を記録、開幕は二軍で迎えたが15イニングを無失点に抑えて4月12日に昇格を果たした。当初はチーム事情で中継ぎ起用となったが4月27日の広島戦で先発登板、6回を投げて3安打無四球、曾澤の犠牲フライのみに抑える見事な先発復帰のマウンドになったが打線が大瀬良に封じ込まれて完封負けとなり敗戦投手となった。

1010
続く横浜戦では宮崎と梶谷にツーランを浴びて4回5失点KOとなったが、続く先発となった5月18日のヤクルト戦では7回を投げて3安打2四球で内野ゴロの間の1失点に抑えた。だが打線が9安打を放ちながら完封負けとなった。その後も好投と炎上を繰り返したが勝敗は全て黒星となり0勝7敗で6月12日に抹消となった。オールスター前の9連戦の9戦目となる7月12日のヤクルト戦で1軍復帰、初回に山田のタイムリーで先制を許したが、勝利投手の権利がかかる5回表のピンチでは山田をサードゴロに打ち取って5回1失点、その裏に打線が爆発して宮國に1010日ぶりの先発勝利が記録された。

中継ぎ再転向
18年には再び中継ぎに転向、4月19日の横浜戦では興南高の1年後輩である神里と初対戦してセカンドゴロに打ち取ったが、5月4日の横浜戦では同じくセカンドゴロながら内野安打を勝ち取られた。同年は主に大差がついた試合での登板ながら29試合に登板して防御率1.97を記録した。

代走
19年には28試合に登板して防御率3.94を記録。9月16日の阪神戦では1点を追う9回裏に阿部が四球で出塁すると野手をほぼ使い果たしていたため代走で宮國が起用されて東京ドームがどよめきに包まれた。阿部の打席中に急遽代走を伝えられた宮國は「ビックリしました」と驚きながら一塁ベースへ向かったが、後続が連続三振に倒れたため走塁での見せ場は作れなかった。

横浜入団
20年は21試合に登板したが25.1回で5本塁打を浴びるなど防御率5.33と好結果は残せなかった。10月には右肩を負傷して登録抹消となり、11月11日に戦力外通告を受けた。故障が癒えていない状態で合同トライアウトを受験したが獲得球団はなく、厳しい立場に追い込まれた。だが宮國は亡くなった父の「投げれるんだったら、1年でも長く野球を続けなさい」という言葉を胸に年末年始も沖縄で兄を相手に練習を続けて、年が明けると西武内海の自主トレに同行、ブルペン投球の動画をスポーツ新聞に送るなどアピールも続けて、開幕を目前に控えた3月15日に横浜DeNAに育成契約で入団した。

支配下契約
入団当初は4月13日に行われた二軍戦で一死しか取れず6失点を喫するなど厳しい登板が続いた。夏場に入ると従来のフォーク主体の投球スタイルから左右を揺さぶる投球術を模索して、支配下契約期限まで後がなくなった8月22日のヤクルト戦で151キロを計測すると、川村投手コーチから「ラストチャンス」と明言された8月28日の巨人戦では思い出がつまったG球場で登板、初回にマウンドへ上がる際にはビジター球場にもかかわらず巨人時代の登場曲が流される粋な演出も受けて6回を6安打無四球で無失点に抑えて待望の支配下契約を勝ち取った。

古巣相手に移籍後初登板
9月7日に1軍へ昇格するとスターナイト初戦でもある同日の巨人戦で先発登板、自主トレなどにも同行していた師匠の一人でもある大エース菅野と対戦、初回に吉川、岡本のタイムリーで2点の先制を許したが、2回以降は菅野に2安打を許すなど毎回のように得点圏に走者を背負いながら丹念に両サイドをついて追加点を許さず5回を7安打1四球で2失点に抑えた。すると5回裏に宮國への代打楠本がスリーランを放つなど打線が大爆発して逆転勝利!お立ち台に上がった宮國は「はじめまして宮國と申します」とスタンドに挨拶して大きな拍手を受けた。

ホールド
22年は同年の初登板となった4月19日の阪神戦で2点をリードされた3回表から登板して2回を無失点に抑えて逆転勝利につなげる役割を果たした。続くヤクルト戦でも3回を無失点に抑えると、26日の巨人戦では1点差に追い上げられてなおも二死二塁のピンチで起用されて代打大城は歩かせたが、代打若林を空振り三振に抑えて3年ぶりのホールドを記録した。だが次戦以降は5月8日の広島戦で火のついた広島打線に打ち込まれて1回6失点を記録するなど4試合連続失点と数字を落とした。23年はロングリリーフとして2度の昇格も2度とも試合を作れず同年限りで戦力外通告を受けた。


初記録
初登板 2012年4月8日阪神戦
初勝利 2012年4月8日阪神戦
初奪三振 2012年4月8日阪神戦:柴田から
初完投 2012年5月1日広島線:完封で
初セーブ 2015年10月3日横浜戦


  投球成績
チーム 登板 完投 完封 勝利 敗戦 S 回数 安打 本塁 四球 死球 三振 暴投 ボーク 失点 自責 防御率
12 巨人 17 1 1 6 2 0 97.0 76 4 28 3 54 3 1 27 20 1.86
13 巨人 17 0 0 6 7 0 87.2 113 8 35 2 50 2 0 52 48 4.93
14 巨人 3 0 0 1 1 0 14.0 22 3 3 1 6 2 0 11 10 6.43
15 巨人 39 0 0 3 1 1 49.0 38 4 15 0 28 3 0 17 16 2.94
16 巨人 34 0 0 4 1 0 39.2 38 6 9 0 14 0 0 14 13 2.95
17 巨人 17 0 0 1 7 0 57.0 64 5 18 0 41 0 1 32 30 4.74
18 巨人 29 0 0 0 0 0 32.0 27 4 10 3 25 0 0 8 7 1.97
19 巨人 28 0 0 0 2 0 29.2 26 2 9 1 21 1 0 16 13 3.94
20 巨人 21 0 0 0 0 0 25.1 27 5 8 0 22 1 0 15 15 5.33
21 横浜 3 0 0 1 1 0 16.0 18 3 5 0 14 0 0 11 11 6.19
22 横浜 17 0 0 0 0 0 20.2 35 6 5 1 13 1 0 20 20 8.71
23 横浜 2 0 0 0 0 0 4.0 7 1 1 0 3 0 0 4 3 6.75
球団 3年 22 0 0 1 1 0 40.2 60 10 11 1 30 1 0 35 34 7.52
通算 12年 227 1 1 22 22 1 472.0 491 51 146 11 291 13 2 227 206 3.93


  打撃成績
チーム 試合 打数 得点 安打 二塁 三塁 本塁 塁打 打点 盗塁 盗刺 犠打 犠飛 四球 死球 三振 併殺 失策 打率
12 巨人 17 29 1 1 0 0 0 1 2 0 0 5 0 1 0 17 0 2 .034
13 巨人 17 29 0 3 0 1 0 5 2 0 0 2 0 0 0 14 1 0 .103
14 巨人 3 5 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 4 0 1 .000
15 巨人 39 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 1 .000
16 巨人 34 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 .000
17 巨人 17 14 0 1 0 0 0 1 1 0 0 1 0 0 0 5 0 2 .071
18 巨人 29 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 .000
19 巨人 29 2 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 2 0 1 .000
20 巨人 21 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 .000
21 横浜 3 3 0 0 0 0 0 0 0 0 0 2 0 0 0 2 0 0 .000
22 横浜 17 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 .000
23 横浜 2 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 1 0 0 .000
球団 3年 22 5 0 0 0 0 0 0 0 0 0 2 0 0 0 3 0 0 .000
通算 12年 228 85 1 5 0 1 0 7 5 0 0 8 0 1 0 45 1 7 .059


  日本シリーズ投球成績
チーム 登板 完投 完封 勝利 敗戦 S 回数 安打 本塁 四球 死球 三振 暴投 ボーク 失点 自責 防御率
12 巨人 1 0 0 0 0 0 7.0 3 0 2 0 4 0 0 0 0 0.00
通算 1年 1 0 0 0 0 0 7.0 3 0 2 0 4 0 0 0 0 0.00


  日本シリーズ打撃成績
チーム 試合 打数 得点 安打 二塁 三塁 本塁 塁打 打点 盗塁 盗刺 犠打 犠飛 四球 死球 三振 併殺 失策 打率
12 巨人 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 .000
通算 1年 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 .000


  クライマックスシリーズ投球成績
チーム 登板 完投 完封 勝利 敗戦 S 回数 安打 本塁 四球 死球 三振 暴投 ボーク 失点 自責 防御率
12 巨人 1 0 0 0 0 0 5.0 4 0 4 0 2 0 0 3 3 5.40
15 巨人 3 0 0 0 0 0 4.0 4 0 3 0 2 0 0 0 0 0.00
通算 2年 4 0 0 0 0 0 9.0 8 0 7 0 4 0 0 3 3 3.00


  クライマックスシリーズ打撃成績
チーム 試合 打数 得点 安打 二塁 三塁 本塁 塁打 打点 盗塁 盗刺 犠打 犠飛 四球 死球 三振 併殺 失策 打率
12 巨人 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 1 0 0 0 0 0 0 .000
15 巨人 3 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 .000
通算 2年 4 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 .000


  二軍投球成績
チーム 登板 完投 勝利 敗戦 S 回数 安打 本塁 四死 三振 失点 自責 防御率
11 巨人 4 0 3 0 0 19.0 14 0 5 11 3 0 0.00
12 巨人 3 0 0 0 0 14.0 12 0 5 4 3 2 1.29
13 巨人 5 0 4 0 0 32.0 21 1 7 17 7 7 1.97
14 巨人 17 1 2 9 0 97.1 102 13 24 58 57 50 4.62
15 巨人 13 0 2 1 0 24.2 28 0 6 10 9 6 2.19
16 巨人 17 0 2 1 3 20.0 21 0 4 11 5 2 0.90
17 巨人 12 1 5 0 0 51.2 41 3 10 28 14 9 1.57
18 巨人 17 0 1 1 1 19.1 18 0 6 15 6 5 2.33
19 巨人 17 0 0 1 1 17.0 9 1 5 19 6 5 2.65
20 巨人 4 0 2 1 0 17.0 18 1 6 15 10 7 3.71
21 横浜 20 0 4 3 1 42.2 49 5 10 36 24 23 4.85
22 横浜 15 0 1 2 0 32.0 38 3 8 28 13 12 3.38
23 横浜 31 0 3 3 0 34.1 33 3 16 25 21 18 4.72
通算 13年 175 2 29 22 6 421.0 404 30 112 277 178 146 3.12