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徳山 壮磨



15
名前 とくやま そうま
生年月日 1999年6月6日
経歴 大阪桐蔭高−早稲田大−横浜(21年D2位)
入団年 21年ドラフト2位
在籍年 22年−
背番号 22年−[15]
投打 右投げ右打ち
守備 投手
大阪桐蔭
小学校3年から野球を始める。大阪桐蔭に進学すると1年秋からリリーフで登板、2年春にはセンバツでも登板して1回を無失点に抑えた。エースとなった2年秋には145キロを計測したが履正社との府大会準決勝では安田に特大弾を浴びて敗れた。

センバツ
3年春のセンバツでは宇部鴻城戦で7回2安打無失点に抑えると、熱戦となった2回戦の静岡戦でも6回を3安打1失点、準々決勝の東海大福岡戦では9回を完投して5安打2失点、さらに翌日に行われた秀岳館戦との準決勝でも7安打1失点に抑えて2日連続の完投勝利を達成、履正社との決勝戦では5回までノーヒットに抑え込むと、8回裏に追いつかれて完投はならなかったが、9回表に5点を勝ち越して全国制覇を達成した。徳山は全5試合に登板して5勝、39イニングを投げて581球という力投で優勝の立役者になった。

甲子園無敗
3年夏は府大会決勝で6点リードで迎えた9回に2点差に追い上げられて、なおも二死一、二塁まで追い上げられたが何とか粘って8失点完投勝利で甲子園出場を決めた。甲子園では初戦、2回戦と順調に勝ち上がったが、登板のなかった仙台育英戦でチームが敗れたため、徳山は甲子園通算7勝0敗と無敗ながら春夏連覇はならなかった。高校からのプロ入りを希望していたが西谷監督に説得されて早稲田大へ進学した。

横浜入団
早稲田大では1年春からリーグ戦で6試合に登板したが、1年秋に右肩を痛め離脱。リハビリを経て2年春に復帰すると2年秋には早慶戦で151キロを計測、3年春には2試合の登板ながら16回を無失点に抑えてベストナインに選出された。4年春は改修となった神宮のマウンドに苦しんだ事もあって3勝2敗、防御率3.54と今一つの成績に留まった。4年秋も成績は伸び悩んだが、持ち味の球速が戻って同年のドラフト会議で横浜から2位指名を受けた。

同期の三浦と投げ合い
ドラフト会議直前に行われた東大との初戦で7回途中1失点に抑えると、打ってもツーランを放った。ドラフト会議の翌日に行われた法大戦では同じく横浜から指名を受けた三浦 銀二と投げ合って7回2安打3四球で無失点に抑えて三浦からヒットも放った。三浦も負けじと9回を無失点に抑えて両者譲らずの引き分けとなった。

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ルーキイヤーはイースタンリーグで17試合に登板して2勝6敗、防御率3.49を記録、77.1回で49四死球という乱調もあって1軍登板は果たせなかった。翌23年もシーズン終盤に1軍昇格は果たしたがチームがCSを争っていたこともあって登板機会は訪れなかった。


初記録
初登板 2024年3月30日広島戦
初勝利 2024年7月9日中日戦
初奪三振 2024年3月30日広島戦:坂倉から
初完投
初セーブ


  投球成績
チーム 登板 完投 完封 勝利 敗戦 S 回数 安打 本塁 四球 死球 三振 暴投 ボーク 失点 自責 防御率
通算


  打撃成績
チーム 試合 打数 得点 安打 二塁 三塁 本塁 塁打 打点 盗塁 盗刺 犠打 犠飛 四球 死球 三振 併殺 失策 打率
通算


  二軍投球成績
チーム 登板 完投 勝利 敗戦 S 回数 安打 本塁 四死 三振 失点 自責 防御率
22 横浜 17 0 2 6 0 77.1 79 6 49 58 36 30 3.49
23 横浜 22 0 1 2 1 39.0 37 0 15 20 18 14 3.23
通算 2年 39 0 3 8 1 116.1 116 6 64 78 54 44 3.40