浅原 熊雄
28
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名前 |
あさはら くまお |
生年月日 |
19??年?月?日 |
経歴 |
徳山商−林兼造船−大洋−オール下関 |
入団年 |
球団創設時に入団 |
在籍年 |
50年 |
背番号 |
50年[28] |
投打 |
?投げ?打ち |
守備 |
捕手 |
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:創世記メンバー:
徳山商業では34年春に甲子園出場。戦後には林兼造船に入社して48−49年と全国健康保険組合野球大会の連覇に貢献。この活躍が認められて49年秋に設立された大洋ホエールズの第一期メンバーになった。浅原は「活躍して稼ぐぞ」と張り切り、二軍の主将にもなったが、親会社の大洋漁業が社会人野球「オール下関」を結成することになり、キャンプ中だった浅原は開幕を待たずしてオール下関に移籍することになった。
:56年後:
舞台は56年後の山口県下関市武久に飛ぶ。小学校教諭の佐竹 敏之さんが大洋ホエールズの歴史を調べていたところ、浅原の存在を知り、球団関係者に下関市で行なわれる横浜対広島戦の始球式での起用を打診し、球団側も「そんな話があるなら」と実現の運びとなった。浅原は「晴れ舞台で活躍したいと思って入ったプロでしたが果たせませんでした。涙が出るほど嬉しいです」と感激した。
:インタビュー:
86歳になった浅原は毎日新聞のインタビューに「下関の元気な年寄りを見てほしい」と語り、「股関節は痛いし、薬も数十種類飲みよるが、力は若者に負けん。野球と軍隊で鍛えたから」と意気込んだ。自宅の居間で中腰に構えると「さあ来い!」と大きな声をあげた、浅原は「こう言うと投手は安心して投げられるんです」
:始球式:
06年9月7日、大洋ホエールズのかつての本拠地である下関で行なわれた横浜対広島戦。試合前の始球式で佐竹さんから送られた当時のレプリカユニホームを着込んでキャッチャーボックスに入った浅原は元西鉄ライオンズのエース池永
正明に「さあ来い!」と大きく手を広げた。池永のストレートは頭上を越え、捕球することはできなかったが、浅原は見事に56年ぶりの大役を果たした。
:史上2度目:
浅原が始球式を務めた横浜広島戦は3対5で迎えた6回裏に佐伯のタイムリーなどで同点に追いつくと、試合はそのまま延長戦に入った。すると延長10回裏に藤田のヒットから二死満塁というサヨナラ機を作ると、バッターボックスに佐伯が入った。そして1−2からの4球目をスイングした佐伯のバットが、広島の捕手石原のミットに当たりまさかのサヨナラ打撃妨害となった。サヨナラ打撃妨害は、1964年の8月22日東京対阪急戦で阪急のキャッチャー住吉重信が達成して以来42年ぶりプロ野球史上二人目の珍事だった。 |
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打撃成績
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チーム |
試合 |
打数 |
得点 |
安打 |
二塁 |
三塁 |
本塁 |
塁打 |
打点 |
盗塁 |
盗刺 |
犠打 |
犠飛 |
四球 |
死球 |
三振 |
併殺 |
失策 |
打率 |
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通算 |
出場なし |
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