馬場 正平
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名前 |
ばば しょうへい |
生年月日 |
1938年1月23日 |
経歴 |
三条実業高工−巨人−大洋 |
入団年 |
60年に大洋のテストを受ける |
在籍年 |
無し |
背番号 |
無し |
投打 |
右投げ右打ち |
守備 |
投手 |
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:小柄な子供:
青果業を営んでいた父一雄と母ミツとの間に次男として生まれた。のちに2メートルを超えるにまで成長する正平だったが、生まれたときは平均よりだいぶ小さい赤ん坊だった。四日町少学校に入学した時は、新入生の中で一番小さく、記念写真の撮影では先生の隣にチョコンと座らされた。
:空襲:
正平が小学校に入った1945年8月14日夜、長岡が米軍機B29の大編隊による空襲を受けた。家の2階の屋根に父たちと上った正平は、防空頭巾をかぶって焼夷弾がバラバラと落とされるのを見たが、「こわいと言うよりは、きれいだな」と思ったそうだ。家族は家から500メートルほど離れた田んぼに板を敷きつめて仮小屋を建て、警戒警報が鳴るとその小屋に避難した。そして朝市が行われていた長岡が焼野原になった翌日に第2次世界大戦は終わった。
:少年野球団:
終戦後、木や石を芯にして毛糸をと巻きつけ手製のボールを作り三角ベースを始めた正平は、街の少年野球団若鮎クラブのエースとなった。6年生の時には白山球場に巨人の試合を見に行き「よし、オレもあのユニホームを着てみせるぞ」とプロ野球への夢を膨らませた。
:リヤカー:
5年生のころから体が急激に大きくなり、正平は家業を手伝うようになった。下垂体性巨人症
兄の正一は正平が5歳の時に、ガダルカナル島で戦死し、父は病弱だったため、家業は母が2人の姉に手伝わせて女手で切り回していた。正平は毎朝5時に起き、果物が満載されたリヤカーを朝市に引いて行くのが仕事だった。朝市の場所は曜日によって変わり、12キロ離れた朝市に行く時は自転車にリヤカーをつけた。正平は天幕張りの出店作りまで手伝ってからすっ飛んで家に帰り学校に通った。巨人に入団するまでの7年間、正平はリヤカーを引き続けた。
:警察出頭:
5年生の秋には仲間と近くの山へ栗拾いに行った帰りに、度胸試しで全員が線路を枕にして寝そべった。「オレたちは絞首刑だ!」などと怒鳴っていると、汽車が迫って来て、仲間は逃げ出した。正平はギリギリのところで逃げる気で、線路の真ん中に立って両手を広げていたが、汽車は急ブレーキをかけて止まり、正平は青くなって逃げ帰った。警察署から呼び出しがかかり、「刑務所かなぁ」と脅えながら署長室に入ると「列車妨害を未然に防いだ感心な少年」と誉められた。汽車が止まったのは機関手が正平が見て不審に思い、路線上に石が並べられているのを発見したからだった。「子供にしては大きかった」という一言で正平であることが分かった。もちろんその石は絞首刑ごっこの前に並べたものだった。
:元祖ゴジラ:
中学生になった正平は身長185センチを超え、足のサイズが30センチにもなった。当然そんな足にあう靴はなかなか見つからず、母親に「京都で見た弁慶の下駄より大きい」とまで言われた父お手製の下駄を履いていた。そんな正平につけられたあだ名は『ゴジラ』だった。
:高校野球断念:
三条実業高校に入学し、ついに硬式野球が出来ると思っていた馬場はショックを受けた。足に合うスパイクがないのだ。草野球なら運動靴でもかまわないが、高校野球となるとそうはいかない。仕方なく馬場は美術部に入った。バスケット部からも熱心な勧誘があったが、バスケットシューズだって足に合うのはなかった。馬場は「シューズがないから入部出来ません」とは言えず、「僕はもうスポーツはやめて、絵に専念したいんです」と断り、野球部やバスケット部の練習も見ないようにしていた。自分より下手だと思える選手が、普通の足をしているというだけでグラウンドやコートを走り回っているのを見るのは拷問に等しかった。
:野球再開:
高校2年の春、馬場は「僕はもうスポーツはやめて、絵に――」なんて前言は撤回し、喜々として雪どけのグランドを走り回っていた。馬場をどうしても欲しかったスパイクを野球部の先生が、靴屋に特注して作ってくれたのだ。初めて硬式ボールを握った馬場は「これが、プロ野球選手が使うのと同じボールなんだ」と夢中で練習した。実はこの靴は母が買って先生を通して正平に渡されたもので、家庭に気を遣わせまいとする母の気使いだった。
:夢の甲子園:
2年の夏の甲子園予選、同点で迎えた9回裏に二死三塁のピンチを迎えた馬場は、続く打者をセカンドゴロに打ち取った。二塁手はちょっとハンブルしたが、すぐに拾って一塁に投げた。アウトのタイミングだったが一塁塁審の両手を開いて「セーフ」をコールした。この間に三塁ランナーがホームインしてサヨナラ負けになった。馬場たちは当然を抗議したが、応援に来ていた三条実業の校長先生の、「君たちは高校生だ、アンパイアに抗議をしてはいかん」という鶴の一声で、甲子園の夢は消えた。
:巨人入団:
馬場とバッテリーを組んでいた高橋が「プロ野球のテストを受けてみないか」と馬場を誘った。高橋がユニオンズに2人分の願書を送ると、ユニオンズから「岡山の球場にテストに来い」という連絡があった。岡山は遠すぎて行けないと伝えると「それなら川崎球場に来い」と言って来た。2人ともまだ2年生ということもあって迷っていると、そんな折に巨人の源川 英治スカウトが馬場の家を訪れた。仕度金20万円、初任給1万2千円で巨人に入団しないかという勧誘だった。パ・リーグのどん尻をさまよっていたユニオンズのテストどころか、少年時代から憧れていてファンクラブのバッジを宝物のようにしていた巨人が誘ってくれるとは、まるで夢のような話だった。馬場は裏庭に飛び出しておどり狂った。
:楽しい走りこみ:
新潟県が生んだプロ野球選手第一号として巨人に入団した馬場は、ただ体が大きいという理由だけで、「足腰が弱いだろう」と決めつけられ、ひたすら走らされた。だが小学5年生の時から7年間、重いリヤカーを引いて来た馬場には一向に苦にならなかった。それどころか巨人のユニホームを着て、ピッタリと足に合ったスパイクをはいて走ることは楽しくさえあったという。そしてバッティング練習では阪神の藤村の“物干竿”と同じ長さの39インチのバットをブンブンと振り回した。
:初登板:
57年、馬場の一軍初登板は阪神戦での敗戦処理投手だった。打席には牛若丸と呼ばれた名ショートで球界一の小粒な吉田、対する馬場は球界一の大男、その身長差は40センチ以上あった。初マウンドに上がった馬場は、森のカーブのサインにうなづくと、思い切りストレートを投げ込んだ。「ストライク!」球審の手が高く上がったが、森はマスクをかなぐり捨てると、血相変えてマウンドに駆け寄って来た。「馬場!サイン見えてるか!?」もちろんサインは見えていたが、カーブのコントロールに不安がある馬場はストレートを投げたかった。結局吉田をサードゴロに打ち取った馬場は、続く打者達も打ち取り、見事に初登板を3者凡退で終えた。
:200勝試合の:
57年の対中日戦で馬場は先発した。対する中日のマウンドには通算200勝をかけて杉下が上がった。馬場はこの試合で公式戦唯一の打席に立ったが、手も足も出ずに3球3振を喫した。馬場も負けじと全力投球を続けて、5回1失点と好投を続けていたが、5回裏の打席で代打を出され降板した。結局試合は杉下が1対0で完封して200勝を達成した。「杉下投手200勝達成試合の敗戦投手は馬場
正平」、これが馬場にとってプロ野球生活最高の思い出になった。
:脳腫瘍:
西鉄の三原監督が「神様、仏様、稲尾様」と史上に残る名セリフを吐いた日本シリーズが行われているころから馬場の視力は急激に落ちていった。オフに入った時には5メートル先に人が誰であるか判別出来ないほどになっていた。これではマウンドに立っても、キャッチャーもホームベースも見えない。あわてて病院に行くと、医師に「あんた、アンマさんになりなさい」と言われてしまった。脳腫が出来ていて視神経を圧迫し、本来離れていなければならない神経が癒着してしまったのだという。治療のため側頭部にレントゲン光線を当てれば、頭髪は抜け落ちてしまうが全盲だけは辛うじて免れるだろうから、マッサージの技術でも身につけておけという宣告だった。また高身長も腫瘍が原因の下垂体性巨人症だということが判明した。
:遺言:
馬場は誰の紹介もなくフラフラと東大病院を訪れた。診察した清水健太郎博士は手術をすすめた。「生命の保証はしてくれますか?」と聞いた馬場に、「君、医者はね、盲腸の手術でも、指1本を切っても、生命の保証なんてしないんだよ」、そのキッパリとした言い方に馬場はその場で手術を申し込んだ。「野球が出来なきゃ、死んだ方がマシだ」と自分を賭ける気になったのだ。19歳の馬場は母に「この19年間、俺は楽しく過ごした。それだけでもありがたいと思っている。俺が死んでも泣かないでくれ」と遺言めいたことを口走ったりして母を嘆かせた。
:脅威の回復力:
手術は成功した。そして「生命が助かっても、1年半から2年の入院治療が必要だ」と言われていたのに、馬場は12月23日に手術を受け、28日に抜糸して、31日の大晦日に退院して、翌年のキャンプには参加した。病院側でも、「1週間で回復するなど、考えられない」と不思議がった。
:3年連続:
キャンプは長嶋が入団したこともあって活気づいていたが、馬場は二軍行きを命じられた。前年には7回を投げて失点1、防御率1.28を記録していた。
二軍では56年12勝1敗、57年目13勝2敗で2年連続で最優秀投手に選ばれていたにもかかわらず馬場は二軍だった。この年も馬場はニ軍で10連勝を記録するなどの活躍で最優秀投手を獲得した。3年連続である。
:VS王:
馬場がどんな活躍をしても首脳陣は認めてくれなかった。ストレートのスピードも早かったが、大きな体から投げ込まれたボールはベンチからはあまり早く見えなかったらしい。だが59年に入団した王は、「入団していきなり馬場さんの球を打たされたが、1本も打てなかった。長身から投げ下ろす重いスピードボールに、これがプロの球なんだなと思った」と賞賛を惜しまなかった。また長嶋
茂雄が巨人に入団した時に最初にキャッチボールしたのが馬場だったらしい。
:クビ:
3年連続で二軍の最優秀投手になった翌59年のオフ、馬場は巨人から解雇通告を受ける。だが馬場にショックは無かった。馬場が入団したときから励ましてくれた谷口コーチが、60年から西鉄から移籍する三原監督とともに大洋入りすることになっていて、その谷口コーチから「お前も来い。巨人軍には話をつけてやる」と言われていたのだ。クビの宣告は話をつける手間を省いてくれたようなものだった。
:入団テスト:
60年、馬場は大洋のキャンプに胸のマークも背番号もないテスト生として参加した。馬場は「これに俺の一生がかかっているんだ」と一心不乱に投げ込んだ。すると三原監督から採用内定が出て、大洋ホエールズ入団が決定した。ホッと一息、そんな気のゆるみもあったのかもしれない。ある休みの日、馬場は宿舎の旅館でノンビリと朝風呂に入っていた。女中さんが、「食事にしますか、風呂にしますか」と聞くから、「練習のない日くらい、朝風呂にでも入るか」とあまりやりつけないことをしたのが、運命の岐れ路だった。
:まっさかさま:
馬場は空腹でたっぷりと湯につかったため、湯舟から上がったとたんにめまいがし、ガラスにひっくり返った。左ひじが切れて、タイルがアッと言う間に朱に染まった。救急車に運ばれ、体がだるくなって目をつぶりかけると、救急隊員に「眠っちゃダメだ!」とほほをたたかれた。湯上がりだから、かなり出血多量だったらしい。病院で傷口を縫い合わせ1週間で傷はふさがったが、左ひじの筋が切れ、左手の中指と薬指は掌についたまま伸びなくなっていた。回復の見通しもはっきりしない、もうプロ野球はあきらめざるを得なかった。馬場は結局ホエールズには入団できなかったが、この怪我さえなければ60年の優勝メンバーに馬場の名があったかもしれない。
:運命:
4月11日、馬場は力道山のスカウトで日本プロレスに入門する。治らないと言われた左手はあっけなく治っていた。「これがもう1カ月早かったら、私は野球をあきらめ切れなかったと思う。だがプロ野球の公式戦はすでに開幕していた。私はプロレスラーたるべく運命づけられていたのかもしれない」
:プロレスへ:
60年9月30日にプロレスデビュー戦を白星で飾った馬場は、その後アメリカ武者修行などで力をつけ、63年にはリングネームを「ジャイアント馬場」に変更。16文キック、32文ドロップキックなどの必殺技を身に付けた馬場は、同期のアントニオ猪木とともにスター街道を駆け上がって行き、72年には全日本プロレスを設立した。プロ野球ではわずか7試合に留まったが、プロレスでは通算5759試合出場という大記録を残した。
:復活登板ならず:
94年に巨人創立60周年を記念して企画された巨人−阪神のOB戦に馬場も招待された。「1軍で最初に対戦した吉田さんの顔を見たら懐かしくなって、昔のことを思い出したよ」という馬場はユニホームを特注してこの日のために準備してきたが、残念ながら雨天中止となって35年ぶりに巨人の一員として投げることは出来なかった。 |
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初記録 |
初登板 |
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初勝利 |
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初奪三振 |
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初完投 |
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初セーブ |
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その他の記録 |
二軍最優秀投手 |
57年:58年:59年 |
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投球成績
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チーム |
登板 |
完投 |
完封 |
勝利 |
敗戦 |
S |
回数 |
安打 |
本塁 |
四球 |
死球 |
三振 |
暴投 |
ボーク |
失点 |
自責 |
防御率 |
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57 |
巨人 |
3 |
0 |
0 |
0 |
1 |
- |
7.0 |
5 |
0 |
0 |
0 |
3 |
0 |
0 |
0 |
0 |
1.29 |
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通算 |
1年 |
3 |
0 |
0 |
0 |
1 |
- |
7-0 |
5 |
0 |
0 |
0 |
3 |
0 |
0 |
0 |
0 |
1.29 |
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打撃成績
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チーム |
試合 |
打数 |
得点 |
安打 |
二塁 |
三塁 |
本塁 |
塁打 |
打点 |
盗塁 |
盗刺 |
犠打 |
犠飛 |
四球 |
死球 |
三振 |
併殺 |
失策 |
打率 |
|
57 |
巨人 |
3 |
1 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
1 |
0 |
0 |
.000 |
|
通算 |
1年 |
3 |
1 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
1 |
0 |
0 |
.000 |
|
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