浜中 祥和
2
|
名前 |
はまなか よしかず |
生年月日 |
1938年1月14日 |
経歴 |
若狭高−立教大−大洋−中日 |
入団年 |
60年に立教大から入団 |
在籍年 |
60年−64年 |
背番号 |
60年−64年[2] |
投打 |
右投げ右打ち |
守備 |
内野手 |
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|
:減りすぎ:
立教大学に入学すると野球部の一年生が170人いて、ショートだけでも25人もいた。その25人のなかで一番小柄だったのが浜中だった。3年生の9月6日の明大戦でデビューした浜中は初打席で四球を選ぶと、第二打席で2点タイムリー三塁打を放ち、続く打席でも2つの四球を選んだ。試合も12対0で勝利し、見事なデビュー戦を飾った浜中は、「試合後に体重をはかると58キロだった体重が46キロに減っていた」と証言する。
:失神:
4年生になった浜中は9月12、13日に行われた東大戦でさっぱり打たなかった。そこで下級生に打撃投手を頼んで打撃練習を始めた。30球を越えた頃だった、下級生の投げた球がヘルメットを被っていない浜中の顔面に当たった。浜中は病院に担ぎ込まれて、レントゲン検査をしたが異常は無かった。だが退院した翌日にチームメイトがある事に気づいた、「おい浜中、お前の左眼が動いていない」、浜中はすぐに眼科に駆け込み再入院した。そして毎日眼球に注射を打たれた。麻酔も無しで打たれるものだから浜中は「数秒間は我慢するが、あとはダーンとぶっ倒れて失神です。毎日注射しますから、毎日失神するんです。1週間で7回失神しました」
:2球で:
11月12日に行われた早稲田との優勝決定戦、退院した浜中は初回に四球で歩くと、続く打者の初球に盗塁を成功させた、そして2球目にまたも盗塁を敢行した、するとあわてた捕手がを三塁に悪送球をして浜中は塁に出てから2球でホームに帰ってきた。試合は4対2で勝利し立教は8度目の優勝を飾った。同年の春、秋には連続でベストナインに選出された。
:40センチ以上:
60年に大洋に入団した浜中は、明石キャンプでひどく驚いた。なんと相部屋の同室者が巨人を首になってテストを受けにきていた馬場正平だったのである。馬場は身長2メートルをこえる大巨人で、対する浜中の身長は161センチと球界一の小兵だった。策士の三原監督が話題作りで仕組んだ相部屋だった。「馬場さんのスパイクにはただただ呆然としたなぁ、あの人のスパイクに私の両足が入っちゃうんだから」
:約束:
馬場と浜中はある約束をした。「グラウンドに出たら、カメラマンが2メートルと161センチを並べて写真をとりたがる。だから絶対2人で一緒になるのは止めような」、キャンプが始まると予想通りカメラマン達は二人を狙った。だが二人は離れて行動し、部屋に帰ると「やったな今日もカメラマンのヤツ、頭にきていた。」と手を叩いて喜んだ。
:スーパースター誕生:
キャンプの中旬になった頃、ある事件が起こった。テストに合格した馬場が浜中と二人だけで旅館の湯船に入っていた。随分と長く湯船につかっていた馬場は、突然立ち上がると後ろに倒れ始めた。馬場は頭からガラスに突っ込み、割れたガラスで左手を切ってプロ野球を断念した。馬場はのちにジャイアント馬場としてプロレス界で活躍することになる。
:落球:
3月中旬、下関球場で西鉄とのオープン戦が行われた。6回表、一塁に豊田を置いて打席の中西太が投ゴロを放った。秋山は併殺を狙って二塁に送球した、だが二塁ベースに入った浜中が、送球をグラブの土手に当てて落とした。「なぜあの高さのボールがグラブの土手に当たって落ちたのか納得がいかない。その夜、旅館の大広間で秋山さんに同じ高さのボールを何十球と投げてもらい、体がしびれました。死球の後遺症のため左斜め上のボールに対しては左眼が動かない」、大学時代に完治したかに見えた左眼だったが完全には治っていなかった。この障害は治ることはなく浜中は目でボールを追うのではなく、顔をボールに向けて守った。
:代走屋:
60年、新人だった浜中は三原監督からトップバッターとして期待されていたがオープン戦で41打数2安打とい大不振でれギャラーを獲得できなかった。だが浜中は代走、守備固めで多く起用され、94試合に出場し12盗塁と優勝に貢献した。
:ノーヒットノーラン:
63年5月26日阪神戦、球場は勝ち負けを超えた緊張感に包まれていた。と言うのも阪神のバッキーが8回が終わってパーフェクトピッチングを繰り広げていたからだ。9回もワンアウトを取り、あと二人と言うところで8番土井に四球を出し完全試合は逃した。そして続く稲川のバントを三塁手ヤシックが暴投し、一転してバッキーは一死一、三塁のピンチを迎える、だがまだ大洋はノーヒット。そして1番島田が投ゴロに倒れ三塁ランナーが刺され、ついにあと一人。そして最後の打者浜中が放った打球は名手吉田の守備範囲に転がった。だがここで奇跡が起こる、打球は吉田の眼前で二塁ベースに当たり、ころころとマウンドに戻り始めた。この間に二塁走者稲川がホームインした。しかもこの1点が決勝点となって大洋は勝ってしまった。この試合でバッキーは完全試合どころか敗戦投手として記録されることになった。
:中日に移籍:
65年3月、中日に移籍した浜中は甲子園球場に来ると新しい仲間達にこう提案した、「二塁ベースから内野の屋根に向かって遠投をしようてみようじゃないか」、西沢監督が見守る中、次々にチームメイト達は失敗していった。だが5番手に登場した浜中の投げたボールは見事に屋根を超え「ドーォン」と鉄製の屋根の上に落ちた。最終的に屋根越えを果たしたのは、浜中と島野育夫の二人だけだった。
:試合数<打数:
浜中は代走や守備固めで起用されることが多く、引退するまでの8年間で589試合に出場したが、打数は395と、打数より試合数のほうが上回っている。中日時代では3年間でヒット15本に対して、38得点、18盗塁と代走で活躍した。 |
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打撃成績
|
チーム |
試合 |
打数 |
得点 |
安打 |
二塁 |
三塁 |
本塁 |
塁打 |
打点 |
盗塁 |
盗刺 |
犠打 |
犠飛 |
四球 |
死球 |
三振 |
併殺 |
失策 |
打率 |
|
60 |
大洋 |
94 |
135 |
12 |
25 |
3 |
1 |
1 |
33 |
11 |
12 |
3 |
11 |
1 |
4 |
1 |
23 |
3 |
14 |
.185 |
61 |
大洋 |
74 |
44 |
8 |
3 |
0 |
0 |
0 |
3 |
0 |
2 |
2 |
3 |
0 |
1 |
0 |
5 |
0 |
2 |
.068 |
62 |
大洋 |
75 |
43 |
9 |
9 |
3 |
0 |
0 |
12 |
0 |
3 |
2 |
5 |
0 |
2 |
0 |
5 |
0 |
4 |
.209 |
63 |
大洋 |
63 |
42 |
8 |
11 |
4 |
0 |
0 |
15 |
2 |
5 |
4 |
1 |
0 |
0 |
1 |
7 |
2 |
5 |
.262 |
64 |
大洋 |
90 |
32 |
13 |
4 |
1 |
0 |
0 |
5 |
1 |
11 |
6 |
4 |
0 |
8 |
0 |
3 |
1 |
3 |
.125 |
65 |
中日 |
78 |
54 |
16 |
8 |
0 |
1 |
0 |
10 |
2 |
10 |
3 |
5 |
1 |
7 |
0 |
8 |
0 |
3 |
.148 |
66 |
中日 |
78 |
13 |
15 |
2 |
0 |
0 |
0 |
2 |
0 |
4 |
4 |
0 |
0 |
0 |
0 |
2 |
0 |
2 |
.154 |
67 |
中日 |
37 |
32 |
7 |
5 |
0 |
0 |
0 |
5 |
2 |
4 |
3 |
0 |
0 |
1 |
1 |
2 |
0 |
4 |
.156 |
|
球団 |
5年 |
396 |
296 |
50 |
52 |
11 |
1 |
1 |
68 |
14 |
33 |
17 |
24 |
1 |
15 |
2 |
43 |
6 |
28 |
.176 |
|
通算 |
8年 |
589 |
395 |
88 |
67 |
11 |
2 |
1 |
85 |
18 |
51 |
27 |
29 |
2 |
23 |
3 |
55 |
6 |
37 |
.170 |
|
|
日本シリーズ打撃成績
|
回数 |
試合 |
打数 |
得点 |
安打 |
二塁 |
三塁 |
本塁 |
塁打 |
打点 |
盗塁 |
盗刺 |
犠打 |
犠飛 |
四球 |
死球 |
三振 |
併殺 |
失策 |
打率 |
|
通算 |
1回 |
2 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
.000 |
|
|
|