大川 隆
40
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名前 |
おおかわ たかし(旧登録名:大川 隆哉) |
生年月日 |
1967年8月2日 |
経歴 |
銚子商−大洋(85年D3位)−横浜 |
入団年 |
85年にドラフト3位で入団 |
在籍年 |
86年−95年 |
背番号 |
86年−95年[40] |
投打 |
右投げ右打ち |
守備 |
外野手 |
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:小学生で100M12.8秒:
小学校6年生時には100メートル12.8秒という茨城県の新記録を作った。また走り幅跳びでも4m60cmを記録している。大川は小学校時代にはサッカーに熱中していたが、中学に進学するとサッカー部がなかったため、仕方がなく野球部に入部した。銚子商では1年の秋からレギュラーを掴むと、2年の春にはマウンドにも上がっていたが、夏の県大会前に肩を痛めて外野に専念。3年夏には外野兼ピッチャーで活躍して甲子園にも出場した。
:投手として入団:
85年にドラフト3位で大洋から指名され入団。入団時には「目標とする選手は400勝投手の金田さん」と応えており投手を目指していたが、100メートル11秒台という俊足を生かして両打ちの外野手に転向。
:故障:
3年目には早くも1軍で初ヒットを放ったが、4月下旬に足首の捻挫で二軍降格。二軍での調整中に再び同箇所を痛めて長い期間をリハビリに費やすことになった。翌89年もキャンプで故障して、4月1日に支配下登録から外れて治療に専念することになり、故障から2年以上が経過した90年の夏場になってようやくティーバッティングができるようになった。2年のブランクを経て91年に復帰、5月に一時帰国でチームを離れたレイノルズに代わって一軍に昇格し、即スタメンでヒットを放った。
:登録名:
実家がお寺で一時は自身の僧名である「隆哉」に登録名を変更した。
:書き間違い:
引退後に球団スタッフに転身。マネージャーを勤めていた2009年9月5日の中日戦では監督から先発をランドルフと言われたが、誤ってグリンと記入してしまい、グリンが先発し一死からランドルフがマウンドに上がる珍事を引き起こした。ところがランドルフが2安打、3四球、無失点でほぼ完封の快投を見せた。奪三振は毎回の15でこれは遠藤に並ぶ球団記録で救援投手の15奪三振は日本新記録になった。 |
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初記録 |
初出場 |
1987年10月17日広島戦:代走で |
初安打 |
1988年4月10日中日戦 |
初本塁打 |
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初打点 |
1992年4月17日ヤクルト戦 |
初盗塁 |
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打撃成績
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チーム |
試合 |
打数 |
得点 |
安打 |
二塁 |
三塁 |
本塁 |
塁打 |
打点 |
盗塁 |
盗刺 |
犠打 |
犠飛 |
四球 |
死球 |
三振 |
併殺 |
失策 |
打率 |
|
87 |
大洋 |
2 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
.000 |
88 |
大洋 |
5 |
5 |
3 |
2 |
1 |
0 |
0 |
3 |
0 |
1 |
0 |
0 |
0 |
1 |
0 |
1 |
0 |
0 |
.400 |
91 |
大洋 |
12 |
15 |
1 |
2 |
0 |
0 |
0 |
2 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
2 |
0 |
2 |
0 |
0 |
.133 |
92 |
大洋 |
28 |
33 |
4 |
6 |
2 |
0 |
0 |
8 |
3 |
0 |
1 |
7 |
0 |
3 |
0 |
12 |
3 |
0 |
.182 |
93 |
横浜 |
53 |
66 |
9 |
14 |
1 |
1 |
0 |
17 |
4 |
6 |
3 |
2 |
0 |
4 |
0 |
17 |
0 |
1 |
.212 |
94 |
横浜 |
8 |
3 |
1 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
1 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
2 |
0 |
0 |
.000 |
|
通算 |
6年 |
108 |
122 |
18 |
24 |
4 |
1 |
0 |
30 |
7 |
8 |
4 |
9 |
0 |
10 |
0 |
34 |
3 |
1 |
.197 |
|
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