土井 淳
39
|
名前 |
どい きよし |
生年月日 |
1933年6月10日 |
経歴 |
岡山東高−明治大−大洋 |
入団年 |
56年に明治大学から入団 |
在籍年 |
56年−68年 |
背番号 |
56年[25]:57年−68年[39] |
投打 |
右投げ右打ち |
守備 |
捕手 |
|
|
:合併:
秋山と土井、長年にわたってバッテリーを組むことになる二人は、土井の通っていた岡山県立第一商業と秋山の通っていた県立第二商業が、49年8月16日に学校改革(6-3-3制)によって合併したことから顔をあわせるようになった。この頃の土井はまだショートだった。
:捕手転向:
50年9月に岡山球場で、秋山と土居の岡山東商と、怪童の異名を持つ中西太の高松一高の試合が行われた。そして5回表に中西の放った打球が三遊間に飛んだ、この試合でショートを守っていた土井は逆シングルで捕球すると、一塁に矢のような送球を送り、中西をアウトにした。話は数時間後に跳ぶ、試合後に松三監督に呼び出された土居はこう言われた、「なぁ土井、お前明日から捕手に転向しろ」、「どうしてですか?」、「さっき4番打者のバカ力のゴロを捕球した後の小さな送球動作と鉄砲肩、この二つの利点を生かすには遊撃手より捕手のほうがいいと思うんだよ」
:中西に敗れる:
土井が捕手に転向して一年後の51年夏の甲子園。その1回戦で土井を捕手に転向させた中西太が率いる高松一校と対戦したが、その中西にランニングホームランを打たれるなど3対12で惨敗した。
:明大へ:
秋山の明大受験のとき、土井はすでに住友金属から内定をもらっていたが、「東京六大学に是非行け」という周囲の進めで、推薦で早稲田大学を受験することになり、早大監督の森(のちに大洋球団社長)にもOKをもらったが、進学適正検査を受けていなかった土井は早大を受験することが出来ず、検査の必要が無い明大を受験することになった。もし土井が早大に入っていたら、秋山との黄金バッテリーは解消していたことになる。
:アジアチャンピオン:
明大では六大学リーグでは2年秋、3年春、4年春と3度の優勝を果たした。4年生時の12月にはマニラで開かれたアジア大会に出場、見事に6勝1分けで優勝した。このときのチームは、同じ明大の秋山、近藤和、立教の長嶋ら、そうそうたるメンバーが揃い、16人の選手中14人がプロに進んでいる。
:大洋入団:
六大学で3年秋、4年春にベストナインに選出された。プロ入り時には西鉄の三原監督(のちの大洋監督)が「土井をどうしても獲ってくれ」といっていたが、土井は秋山と「せっかくここまで縁があってきたのだから、プロもバッテリーで挑戦しよう」と決めていた。明大3年時には巨人との約束ができていたが、秋山の腰の状態を気にした巨人が「一回白紙に戻す」と言った。その空白を大洋が突いて秋山、土井を含む5人を明大から獲得した。
:三原監督就任:
58年の10月3日に土井はフロントの平山菊二から「西鉄の三原監督に会って欲しい」といわれた。土井は日本シリーズ対策のために巨人のデータを聞き出そうとしているのではと思っていたが神楽坂の料亭で待っていた三原は「僕は大洋の森茂雄代表から監督就任の要請を受けたんだ。それで僕はその要請を受けようと思っている。ついては土井君に大洋のチーム事情や、選手一人ひとりの特徴などを教えてもらいたいんだ」と言った。二日前に奇跡の大逆転で西鉄をV3に導いたばかり三原が大洋監督に就任するという事態に土井は驚きながらもベテランが多いチーム編成や、勝利への執着のない選手の意識などを三原に語った。このとき土井はまだ25歳とい若さであったにもかかわらず三原は熱心に耳を傾けていたという。
::
マスコミが三原大洋監督をすっぱ抜いたため実際に三原が監督に就任するのは1年後になったが、60年に三原が監督に就任すると26歳にしてプレーイングコーチに指名された。
::
60年には好リードで投手陣を引っ張ってチーム防御率2.33を記録して優良に大きく貢献、打率.212ながらベストナインに選出された。また優勝を目前した9月26日から行われた2.5ゲーム差をつけた2位巨人との3連戦初戦では1対1で迎えた8回裏に一死三塁で打席に入ると自らスクイズのサインを出して決勝点を上げるなど、知将三原から絶対的な信頼を得た。
:日本一:
60年日本シリーズの1回戦、秋山が初回に一死二塁のピンチを招いた。すると二塁ランナーの柳田がタイムをかけて西本監督のところに行った。これにピンと来た土井は秋山に「いつもお前は1回しかランナーを見ないが、今度は2回やってみろ」、といった。秋山は言われたとおりに1回見た後、もう一度二塁を見た。すると柳田が盗塁を敢行していた。柳田は二三塁間でアウトになり、大洋はピンチを切り抜けた。このプレーでシリーズの流れを掴んだ大洋は4連勝で日本一に輝くことになる。なお第4戦でウイニングボールを掴んだ土井は誤ってボールをスタンドに投げ入れてしまって、球団初の優勝記念ボールは行方不明になってしまった。
:7年連続:
薄いミットで秋山の剛速球を受け続けた土井の左手の人差し指は紫色になり、バットも握れないほどに腫れ上がった。その後遺症は現役を退いてからも残ったという。それが理由でもないだろうが土井の通算打率は.215と極めて低い、にもかかわらずオールスターに7年連続で選ばれるのだから、土井の守備力がいかに高く評価されていたのかが分かる。
:開幕戦で最後のホームラン:
68年には巨人との開幕戦で、5回の無死満塁で打席に入ると金田の真ん中高めのストレート弾き返し、史上初の開幕戦グランドスラムを達成した。だが同年の本塁打はその一本に留まり、同年限りで引退した。
::
引退後はバッテリーコーチを務めたが「外から野球を見たい」と退団して野球解説者に転身したが、これが中部オーナーの逆鱗に触れて76年に盟友の秋山登が監督に就任した際にはチームに戻れずコーチとして補佐することは叶わなかった。中部オーバーが死去した事もあって78年にコーチで復帰、80年に大洋の監督に就任した。同年にアリゾナ州で行われた球団史上初の海外キャンプには親会社のマルハから300帖の海苔が差し入れられ、梅干を36キロを持ち込むなど初めての体験に球団は力を入れたが、現地が100年に1度という異常気象で大雨が続いてまともにキャンプが送れなかった。
::
開幕から5割前後の成績を残すと6月7日から4連勝、連敗を挟んで6連勝で首位広島に3.5ゲーム差と肉薄したが、、そこから引き分けを挟んで12連敗を喫して一気に転落してしまった。 |
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監督成績 |
97勝 |
|
133敗 |
|
16分 |
|
勝率.422 |
|
Aクラス0回 |
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|
56 |
57 |
58 |
59 |
60 |
61 |
62 |
63 |
64 |
65 |
66 |
67 |
68 |
|
ベストナイン |
|
|
|
|
● |
|
|
|
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|
|
|
|
1回 |
オールスター |
● |
● |
● |
● |
● |
● |
● |
|
|
|
|
|
|
7回 |
|
打撃成績
|
チーム |
試合 |
打数 |
得点 |
安打 |
二塁 |
三塁 |
本塁 |
塁打 |
打点 |
盗塁 |
盗刺 |
犠打 |
犠飛 |
四球 |
死球 |
三振 |
併殺 |
失策 |
打率 |
|
56 |
大洋 |
85 |
232 |
11 |
44 |
10 |
1 |
2 |
62 |
13 |
2 |
2 |
7 |
1 |
19 |
2 |
33 |
7 |
10 |
.190 |
57 |
大洋 |
111 |
262 |
22 |
65 |
12 |
1 |
4 |
91 |
25 |
5 |
2 |
2 |
1 |
29 |
3 |
45 |
8 |
10 |
.248 |
58 |
大洋 |
108 |
360 |
34 |
87 |
12 |
1 |
7 |
122 |
38 |
6 |
7 |
13 |
2 |
38 |
4 |
51 |
10 |
7 |
.242 |
59 |
大洋 |
102 |
305 |
23 |
58 |
5 |
3 |
2 |
75 |
18 |
4 |
4 |
9 |
1 |
26 |
3 |
55 |
10 |
7 |
.190 |
60 |
大洋 |
117 |
269 |
13 |
57 |
10 |
0 |
2 |
73 |
22 |
4 |
6 |
16 |
0 |
32 |
1 |
46 |
2 |
10 |
.212 |
61 |
大洋 |
115 |
204 |
6 |
40 |
6 |
0 |
0 |
46 |
12 |
3 |
3 |
9 |
1 |
11 |
2 |
26 |
2 |
4 |
.196 |
62 |
大洋 |
99 |
141 |
6 |
28 |
4 |
1 |
0 |
34 |
9 |
2 |
1 |
6 |
0 |
12 |
0 |
23 |
3 |
7 |
.199 |
63 |
大洋 |
118 |
244 |
21 |
59 |
5 |
0 |
1 |
67 |
11 |
0 |
3 |
10 |
2 |
22 |
2 |
30 |
5 |
5 |
.242 |
64 |
大洋 |
60 |
60 |
3 |
12 |
2 |
0 |
2 |
20 |
5 |
0 |
0 |
3 |
1 |
4 |
1 |
6 |
0 |
0 |
.200 |
65 |
大洋 |
72 |
64 |
5 |
9 |
2 |
0 |
0 |
11 |
2 |
1 |
0 |
3 |
0 |
4 |
1 |
14 |
3 |
1 |
.141 |
66 |
大洋 |
61 |
95 |
7 |
18 |
3 |
0 |
0 |
21 |
4 |
0 |
1 |
1 |
0 |
4 |
0 |
13 |
1 |
2 |
.189 |
67 |
大洋 |
71 |
105 |
4 |
26 |
3 |
0 |
2 |
35 |
9 |
0 |
2 |
10 |
0 |
8 |
0 |
18 |
2 |
1 |
.248 |
68 |
大洋 |
19 |
28 |
2 |
5 |
0 |
0 |
1 |
8 |
8 |
0 |
0 |
3 |
0 |
2 |
0 |
7 |
1 |
2 |
.217 |
|
通算 |
13年 |
1138 |
2364 |
157 |
508 |
74 |
7 |
23 |
665 |
176 |
27 |
31 |
92 |
9 |
211 |
19 |
367 |
54 |
66 |
.215 |
|
|
日本シリーズ打撃成績
|
チーム |
試合 |
打数 |
得点 |
安打 |
二塁 |
三塁 |
本塁 |
塁打 |
打点 |
盗塁 |
盗刺 |
犠打 |
犠飛 |
四球 |
死球 |
三振 |
併殺 |
失策 |
打率 |
|
60 |
大洋 |
4 |
12 |
1 |
2 |
0 |
0 |
0 |
2 |
0 |
0 |
0 |
1 |
0 |
2 |
0 |
1 |
0 |
1 |
.167 |
|
|
オールスター打撃成績
|
回数 |
試合 |
打数 |
得点 |
安打 |
二塁 |
三塁 |
本塁 |
塁打 |
打点 |
盗塁 |
盗刺 |
犠打 |
犠飛 |
四球 |
死球 |
三振 |
併殺 |
失策 |
打率 |
|
通算 |
7回 |
13 |
14 |
0 |
1 |
0 |
0 |
0 |
1 |
0 |
0 |
0 |
1 |
0 |
1 |
0 |
3 |
0 |
1 |
.071 |
|
|
監督成績
|
チーム |
順位 |
勝利 |
敗戦 |
分け |
勝率 |
ゲーム差 |
本塁 |
被本 |
盗塁 |
打率 |
防御率 |
失策 |
|
80 |
大洋 |
4 |
59 |
62 |
9 |
.488 |
16.0 |
135 |
139 |
93 |
.259 |
4.18 |
91 |
81 |
大洋 |
6 |
38 |
71 |
7 |
.349 |
31.5 |
105 |
131 |
70 |
.252 |
4.41 |
75 |
|
通算 |
2年 |
|
97 |
133 |
16 |
.422 |
47.5 |
240 |
270 |
163 |
.256 |
4.30 |
166 |
81年は開幕から9月24日まで。
ゲーム差から右は一年間のチーム成績 |
|
|
|