波留 敏夫
2
|
名前 |
はる としお |
生年月日 |
1970年5月25日 |
経歴 |
大谷高校−熊谷組−横浜−中日−ロッテ |
入団年 |
93年ドラフト2位 |
在籍年 |
94年−01年 |
背番号 |
94年−00年[2]:01年[1] |
投打 |
右投げ右打ち |
守備 |
外野手 |
|
|
:完全試合:
3850グラムで生まれた波留は小学校2年のときに兄二人とともに軟式野球チーム「山科ユーロー」で野球を始めた。中学3年時には府大会で完全試合を達成するほどの投手になったが肩を壊して野手に転向した。
:内野手:
社会人の熊谷組では都市対抗野球で準優勝に貢献、横浜の松岡スカウトから「お前が来てチームの雰囲気を変えてくれ」という言葉に「必要されている」と感じて横浜を逆指名。熊谷組ではショートとしてベストナインを獲得し、入団したときも内野手登録で当初は故障の進藤に代わってショートでのスタメン起用もあったが、すぐに外野に転向しゴールデングラブを争うほどの名センターになった。
:初年度:
ルーキーイヤーの94年は、オープン戦の初戦でフェンスに激突してリタイヤすると、復帰後の4月2日の阪神との練習試合で左ヒザの靭帯を損傷し、開幕から3月間を棒に振った。だが復帰後は168打数50安打で打率.298と活躍し準レギュラーとして活躍した。2年目の95年には1番打者を任されてリーグ5位の打率.310を記録した。
:涙のお立ち台:
96年4月9日地元横浜での開幕戦となった広島戦。試合は谷繁のツーランなどで5対3と2点リードして9回表に入ったが、佐々木が前田、江藤に連打を打たれて同点に追いつかれてしまう。9回裏二死でここまで4打数無安打で、守りでもミスを犯すなどいいところが無かった波留が打席に入った。「いままでの分を取り返したい!」と打席に入った波留は井上祐の3球目を打って打球はレフトポール際に飛び込むサヨナラホームランとなった。お立ち台にあがった波留は泣きながら「仕事ができなかった…」と声を詰まらせた。
:フォームチェンジ&チェンジ:
打撃フォームを変えて望んだ96年は打率.265と不調に終わった。だが波留は「開き直ってやってみよう」、と最後の5試合は前年の打撃フォームに戻してみた。すると13打数6安打と大爆発したため、フォームを元に戻すことを決意した。
:優勝争いへ:
97年7月1日から佐々木が4連投で投げ続けた。そして5日の広島戦、試合は6点をリードしていたが、追いつかれて、またも1点リードで9回に入った。大矢監督は「今日は使わない」、と言っていた通り最終回のマウンドに島田を送ったが、その島田がピンチを招くと、大矢監督はこらえきれずに「ピッチャー佐々木」をコールした。だが佐々木は木村拓に打たれチームは敗れた。
:優勝争いへ2:
翌7月6日広島戦、前日とは逆に広島に5点をリードされていたが、8回裏に4点を挙げて1点差に迫ると9回裏二死から宮里がポテンヒットで判断良く二塁をおとしいれ、続く石井がセンター前と盗塁で二死二、三塁と攻め立てた。そして大歓声の中で打席に入った波留がセンター前に逆転サヨナラヒットを放った。これで勢いを取り戻した横浜は7月を13勝5敗と大きく勝ち越し、久しぶりに優勝争いに顔を出すことになった。
:終焉:
8月を20勝6敗という凄まじい成績で勝ち進み首位ヤクルトを猛追して迎えた。9月2日の直接対決。波留は9回ニ死から石井一の153キロのストレートの前に空振り三振に倒れ、石井一にノーヒットノーランを達成させてしまった。翌日の直接対決にも破れ、チームの37年ぶりの優勝は風前の灯となっていた。
:届かない打球:
9月9日巨人戦。試合は5回表まで3対0とリードしていたが、5回裏に三浦が二死二、三塁のピンチで3試合連続ホームランと絶好調の松井を打席に迎えた。敬遠も考えられたが勝負して最悪の同点スリーランを浴びた。そして7回裏二死二塁で川相がセンターへライナー性の打球を放った。波留はその明らかに届かない打球にありえない角度で飛び込んだ。打球はグラブにかすることもなくフェンスへ向かい、波留は顔面から着地して、そのまま1回転した。
:終焉2:
翌日の巨人戦、顔に大きなヤケドを負ってグラウンドに現れた波留の目はうつろに漂っていた。そのまま同カードに3連敗した横浜は優勝争いから消えていった。波留は「僕はあれで燃え尽きてしまったような気がしますね。ヤクルト戦の連敗より、巨人戦の3連敗のほうがダメージが大きかった。正直言って『今年のベイスターズはこれで終わったな』と思いました」
:出場停止:
97年オフに脱税事件で6週間の出場停止となり、球団が二軍にも出場させない厳しい処置をとったため、波留はぶっつけ本番での実戦復帰となった。そして出場停止が解除される98年5月15日、権藤監督はかねてから明言していた通りに波留をスタメンで起用した。だがなかなか野球勘が戻らず6月まで打率2割代前半の不振に陥った。
:奇跡の3連戦.1:
98年7月12日帯広で行われた中日戦、試合は3対9と大きくリードされて9回に入った。だがここから打線が爆発し、落合、宣
銅烈を攻めてなんと6点を挙げて同点に追いつく。試合はそのまま延長戦に突入し、ここで点が入らなければ日没コールドゲームになる12回に入った。だが中日は一死二塁と攻め、代打の音が左中間に鋭い当たりを放った。万事休すかと思われたが、波留がこれをダイビングキャッチしてピンチをしのぎ、完全な負け試合を引き分けに持ち込んだ。また波留は翌年に北海道で行われた中日戦でも、9回に5点差をひっくり返すという大逆転勝利の最後を締めるサヨナラヒットを打っている。
:奇跡の3連戦.3:
98年7月15日巨人戦、帯広の同点劇から休日をはさんで翌日の巨人戦にサヨナラ勝ちと最高の状態で迎えた試合だったが、3回表終わって0対7と一方的に巨人が押していた。だが横浜は4回裏に5点を上げるなど追い上げを開始。ついに7回裏に中根のタイムリーで同点に追いついた。だが負けられない巨人は8回表に高橋のスリーランで勝ち越し、勝負は決まったかに思えたが8回裏に佐伯の打ち直しホームランなどで同点に追いつくと、9回裏には波留がセンターオーバーのサヨナラタイムリーを打って試合を締めくくった。この試合から権藤監督は横浜打線を「もののけ打線」と呼ぶようになった。
:月間MVP:
98年7月は上記の巨人戦でのサヨナラタイムリーなど大活躍。全試合に出場し、77打数32安打、打率.412で月間MVPに輝いた。波留は「ファンの皆様にお詫びができました。神様はいんねんな、って思いました」と語った。
:マジック点灯:
98年8月28日広島戦でフェンスに激突して尾てい骨を強打し、それから2週間は38打数5安打と絶不調になったが、9月13日の阪神戦で同年の1号ホームランを放つと打線が11得点と爆発し快勝。3連敗中だったチームを救った。天王山となった9月24日中日戦では猛打賞の活躍で球団史上初のマジック点灯の起爆剤となった。
:史上初:
99年6月4日巨人戦、1点をリードされて迎えた8回裏、佐伯のヒットなどで一死満塁のチャンスを作ると、打席に入った波留が代わった槙原からレフトスタンドに飛び込む逆転満塁ホームランを放った。そして同年の7月2日巨人戦でも波留はホセから満塁ホームランを放つ活躍を見せた。巨人戦でシーズン2度のグランドスラムは史上初の快挙だった。
:移籍:
権藤監督が「あいつは動物」と評した気迫あふれるプレーや喜怒哀楽を100%表現する感情表現でファンに愛されたが、、01年にシーズン中の4月20日に種田らとの電撃トレードで中日に移籍。急な話だったため用具が揃わず、ヘルメットは川上から借り、スパイクは横浜のスパイクを、スプレーでドラゴンズブルーに塗り変えて何とか間に合わせた。
:引退:
ロッテ移籍後は、03年7月21日の近鉄戦でサヨナラ犠牲フライ。04年には本拠地開幕戦となった4月3日のダイエー戦でサヨナラ四球と派手なのか地味なのか判断に苦しむ活躍を見せたが、シーズンを通して活躍することは出来ず同年引退。引退後は熊谷組が解散後にOBらで設立したチーム「熊球クラブ」に入団した。 |
|
初記録 |
初出場 |
94年7月3日中日戦 |
初安打 |
94年7月13日阪神戦:中西から |
初本塁打 |
94年8月30日広島戦:紀藤から |
初打点 |
94年7月31日阪神戦:古溝から |
初盗塁 |
94年8月7日広島戦 |
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|
|
|
|
94 |
95 |
96 |
97 |
98 |
99 |
00 |
01 |
02 |
03 |
04 |
|
オールスター |
|
|
|
● |
|
|
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|
|
|
1回 |
|
打撃成績
|
チーム |
試合 |
打数 |
得点 |
安打 |
二塁 |
三塁 |
本塁 |
塁打 |
打点 |
盗塁 |
盗刺 |
犠打 |
犠飛 |
四球 |
死球 |
三振 |
併殺 |
失策 |
打率 |
|
94 |
横浜 |
53 |
168 |
26 |
50 |
12 |
2 |
3 |
75 |
10 |
7 |
3 |
1 |
0 |
13 |
5 |
33 |
1 |
2 |
.298 |
95 |
横浜 |
100 |
378 |
59 |
117 |
14 |
2 |
5 |
150 |
29 |
9 |
8 |
7 |
2 |
43 |
4 |
55 |
3 |
2 |
.310 |
96 |
横浜 |
114 |
332 |
32 |
88 |
14 |
2 |
2 |
112 |
21 |
4 |
5 |
12 |
0 |
24 |
5 |
57 |
4 |
1 |
.265 |
97 |
横浜 |
127 |
502 |
89 |
148 |
22 |
3 |
8 |
200 |
41 |
16 |
8 |
23 |
1 |
34 |
13 |
68 |
7 |
3 |
.295 |
98 |
横浜 |
106 |
428 |
69 |
117 |
23 |
1 |
2 |
148 |
39 |
12 |
2 |
11 |
4 |
39 |
5 |
57 |
5 |
1 |
.273 |
99 |
横浜 |
130 |
568 |
95 |
169 |
31 |
5 |
15 |
255 |
70 |
21 |
5 |
14 |
1 |
21 |
5 |
80 |
11 |
8 |
.298 |
00 |
横浜 |
60 |
219 |
30 |
66 |
14 |
0 |
8 |
104 |
17 |
3 |
4 |
1 |
1 |
13 |
3 |
31 |
10 |
2 |
.301 |
01 |
横浜 |
13 |
21 |
1 |
3 |
1 |
0 |
0 |
4 |
0 |
0 |
0 |
2 |
0 |
1 |
0 |
4 |
0 |
0 |
.143 |
01 |
中日 |
92 |
275 |
21 |
66 |
8 |
0 |
1 |
77 |
20 |
2 |
3 |
15 |
2 |
13 |
2 |
37 |
8 |
4 |
.240 |
02 |
中日 |
39 |
87 |
5 |
19 |
5 |
0 |
0 |
24 |
7 |
0 |
0 |
4 |
0 |
3 |
0 |
16 |
2 |
0 |
.218 |
03 |
ロッテ |
50 |
111 |
15 |
22 |
4 |
0 |
0 |
26 |
5 |
1 |
1 |
10 |
2 |
19 |
2 |
22 |
6 |
1 |
.198 |
04 |
ロッテ |
29 |
49 |
5 |
7 |
2 |
0 |
0 |
9 |
7 |
1 |
1 |
3 |
1 |
8 |
0 |
16 |
1 |
1 |
.143 |
|
球団 |
8年 |
703 |
2616 |
401 |
758 |
131 |
15 |
43 |
1048 |
227 |
72 |
35 |
71 |
9 |
188 |
40 |
385 |
41 |
19 |
.290 |
|
通算 |
11年 |
913 |
3138 |
447 |
872 |
150 |
15 |
44 |
1184 |
266 |
76 |
40 |
103 |
14 |
231 |
44 |
476 |
58 |
25 |
.278 |
|
|
日本シリーズ打撃成績
|
チーム |
試合 |
打数 |
得点 |
安打 |
二塁 |
三塁 |
本塁 |
塁打 |
打点 |
盗塁 |
盗刺 |
犠打 |
犠飛 |
四球 |
死球 |
三振 |
併殺 |
失策 |
打率 |
|
98 |
横浜 |
6 |
24 |
5 |
5 |
0 |
1 |
0 |
7 |
3 |
1 |
0 |
1 |
0 |
1 |
1 |
2 |
1 |
0 |
.208 |
|
|
オールスター打撃成績
|
回数 |
試合 |
打数 |
得点 |
安打 |
二塁 |
三塁 |
本塁 |
塁打 |
打点 |
盗塁 |
盗刺 |
犠打 |
犠飛 |
四球 |
死球 |
三振 |
併殺 |
失策 |
打率 |
|
通算 |
1回 |
1 |
3 |
2 |
1 |
0 |
0 |
0 |
1 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
.000 |
|
|
二軍打撃成績
|
チーム |
試合 |
打数 |
得点 |
安打 |
二塁 |
三塁 |
本塁 |
塁打 |
打点 |
盗塁 |
犠打 |
犠飛 |
四死 |
三振 |
併殺 |
失策 |
打率 |
|
94 |
横浜 |
8 |
21 |
2 |
6 |
0 |
0 |
1 |
9 |
1 |
1 |
0 |
0 |
5 |
2 |
0 |
1 |
.286 |
95 |
横浜 |
9 |
28 |
4 |
4 |
0 |
0 |
0 |
4 |
2 |
2 |
0 |
0 |
5 |
6 |
0 |
0 |
.143 |
00 |
湘南 |
3 |
10 |
1 |
2 |
0 |
0 |
0 |
2 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
2 |
0 |
0 |
.200 |
|
通算 |
3年 |
20 |
59 |
7 |
12 |
0 |
0 |
1 |
15 |
3 |
3 |
0 |
0 |
10 |
10 |
0 |
1 |
.203 |
球団在籍時のみ |
|
|
|