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権藤 博
72
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名前 |
ごんどう ひろし |
生年月日 |
1938年12月2日 |
経歴 |
鳥栖高−ブリヂストンタイヤ−中日 |
入団年 |
98年にコーチから昇格 |
在籍年 |
98年−00年 |
背番号 |
98年−00年[72] |
投打 |
右投げ右打ち |
守備 |
投手、内野手 |
|
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:投手転向:
中学から野球を始めて鳥栖高の2年まで内野手だったが、3年時に投手に転向した。この時点で西鉄から誘いがあって三原監督にもピッチングを見てもらう機会があったが、自身の意思で「今の力では無理」と判断してブリヂストンタイヤに進んだ。ブリヂストンタイヤ時代では派手なフォームのほうがプロの目に留まりやすいだろうと考え、西鉄の稲尾和久のダイナミックなフォームを真似し、結果として権藤のフォームは稲尾以上にダイナミックなものとになった。
:中日入団:
ブリヂストンタイヤでは2年間で100イニング以上を投げて失点は’3’だった。当然のように権藤の獲得合戦が始まった。権藤は「鳥栖の田舎に育った私にとってみれば東京は憧れでした。目標は巨人でしたから」と巨人に入団を決めた。だが巨人は60年には堀本律雄獲得と言う大仕事があり、権藤に「1年待ってくれ」と言ってきた。その間に中日の濃人2軍監督が「俺が2軍にいるから、なにかあったら面倒を見る」といって口説き落としてきた。慌てた巨人は「他球団よりも絶対に高い契約金を出す」と白紙小切手を提示したが、権藤は「自分の分相応ではない」と断って中日に入団した。
:オープン戦1失点:
杉下茂の背番号20を引き継いだ権藤はオープン戦10試合で防御率0.31という怪物ぶりを見せると、開幕してからも3試合連続で完投勝利を上げるなど、前年5位の中日をほとんど権藤一人で首位を争うまでに持っていった。
:孤軍奮闘:
61年の中日は54年以来2度目の優勝のチャンスが訪れていた。濃人監督はこのチャンスを物にするために権藤を毎日のように投げさせた。全130試合の半分以上の69試合に登板、35勝19敗、防御率1.70、32試合に完投し、12完封、奪三振320。そしてセリーグ記録の429.1投球回。もちろん新人王、沢村賞を獲得した。だが権藤の酷使が報われることはなかった。この年の権藤以外の中日投手の成績は37勝37敗。権藤が稼ぎ出した貯金16は、巨人の貯金18に及ばなかった。中日は巨人に1ゲームの差をつけられて2位に終わった。権藤はこの年を振り返って「命がけの1年。あの年はもう一人、別の自分がいた気がする」と語っている。
:権藤権藤、移動日、権藤、権藤:
あまりの酷使に巨人の堀本 律雄が「中日には権藤しか投手がおらんのか。権藤、雨、旅行日、権藤、雨、権藤やつぶれてしまうぞ」といった事から「権藤、権藤、雨、権藤」という伝説が生まれたが、実際には8月27日の阪神とのダブルヘッダーで初戦に2失点完投、第2戦でも7回途中からリリーフして1日2勝を記録、移動日を挟んだ29日の国鉄戦では3回を投げて2失点で敗戦投手になったが、翌日の国鉄戦では先発して金田と投げ合って延長10回を投げ抜き完投勝利を記録して4試合連続の責任投手という伝説のフレーズを上回る酷使が行われていた。なお同年に権藤は4試合連続責任投手を3度記録している。
:権藤、権藤、雨、権藤:
翌62年も61試合に登板、30勝17敗で2年連続30勝で最多勝。この年も362.1投球回を投げている。権藤が「痛い」と言っても、濃人監督は「たるんどる」と叱り、2年間で1年分の試合数にあたる130試合に登板させ、791.2投球回という酷使を続けた。その姿は「権藤、権藤、雨、権藤」という伝説を作り上げた。
:対巨人:
62年5月24日から翌63年の5月23日までの丸々1年の間、権藤は巨人戦11連勝という大記録を達成する。だが通算では8連敗などもあって18勝9敗に留まっている。
ちなみに初被本塁打は長嶋 茂雄から。
:打者権藤:
権藤は入団2年で事実上燃え尽きた。入団2年で65勝36敗を上げた権藤の通算成績は82勝60敗。登板過多から当たり前のように肩を痛め、3年目は10勝12敗、4年目は6勝11敗で、5年目には内野手に転向して再起を目指した。
:サヨナラホームラン:
内野に転向後はショートとサードを守り、67年には最多犠打を記録し、6月21日大洋戦では稲川 誠からサヨナラホームランも打ったが、レギュラーに定着することは出来なかった。堀内恒夫のデビュー戦では、堀内の初被安打となるライト前ヒットを放った。68年に投手に再転向して1勝1敗を記録するが、往年の力が戻ることは無く同年引退。
:ゴルファー:
引退した権藤はプロゴルファーを目指し簡単にハンデ1になった。その後の権藤は賭けゴルフをして生活を続けた。そんなときに友人が「このままではお前がダメになるから一からやりなおせ」と言ってくれた。権藤はその友人が紹介してくれた会社でサラリーマンとして働きながら、夜はラジオの解説者という生活を始めた。
:コーチの仕事:
中日の2軍コーチになった権藤だったが、当時34歳と若かったため「お前達こんな事もできないのか、バカヤロー!」と怒鳴ってばかりいた。そんなころ権藤はアメリカのルーキーリーグを見に行くことになった。練習風景を見て権藤は驚いた。外野フライを自分の10メートルも後ろにボールを落とす外野手にコーチが何度も何度もボールを投げながら、捕球の姿勢を教えていた。権藤は監督に「あの選手はちょっとまぬけじゃないか」と聞いた。すると監督から「彼はまだルーキーなんだ。彼がもし来年こんなことをしていたらまぬけかもしれないが、彼はまだルーキーなんだ」と言った。権藤はどんな下手な選手に平等に教えていることにショックを受けた。そしてコーチの仕事は「なぜ出来ないんだ!」怒鳴ることではなくて、そういう選手を成長させる事だと気づいた。
:Don ‘t over teach:
ベロビーチではドジャースの球団記録である389本塁打を打ったデューク・スナイダーが特別コーチとしてある選手に指導していた。スナイダーは「打球が右に飛ぶようになったら呼びに来い」と言い残して去っていった。その選手は右に打とうとするのだが中々うまくいかない。そしてその選手は権藤にアドバイスを求めてきた。権藤は「体を残して云々」とアドバイスを送った。すると打球が右に飛ぶようになりその選手は喜んでスナイダーを呼ぶと、スナイダーの前でライトヒッティングを披露した。スナイダーは「誰に教えてもらった?」と聞き、その選手は権藤に教えてもらったことをスナイダーに告げた。スナイダーはその選手を帰してから権藤を呼んで「教えてくれるのはありがたいが、すぐ教えて上手くなったことはすぐ忘れてしまう。私は彼が自分で覚えるまでやらせようと思っているんだ」と言った。
:二軍コーチを8年:
「なんでもいいのです。その与えられたポジションでしっかりと自分を貫くことになれば、こっちが求めなくても相手は認めてくれるようになる」権藤は中日の二軍コーチを8年間続けた。二軍のコーチとしては異例の長さである。「少々打たれようが我慢できると言うのは、2軍コーチ時代に覚えたことかもしれない。この1試合失ってもは次の試合にこの経験が生きればいいやと思えるもの」
:1軍コーチに:
のちにスーパーカートリオを作る近藤貞雄に引き上げられてようやく1軍コーチに昇格。自身の経験から肩は消耗品と捉えて「投げ込み不要論」を提唱した。またメジャー思考の強い近藤とは話が合い、先発、中継ぎ、抑えの分業制を徹底させて82年には中日を優勝させた。
:近鉄:
近鉄では次々と投手を登板させる仰木監督と投手起用を巡って対立。「選手を守る」と言いながら、それが出来なくなったと思った権藤は違約金を払って近鉄を退団した。
:ダイエー:
ダイエー時代のピッチングコーチに就任すると負け犬根性に染まったチームに勝つ喜びを与えようとベンチからサインを出して前半戦は首位に肉薄した。中国に出張していた中内オーナーは「チームを頼む」という毛筆の手紙を権藤に送るほど信頼していたが、他のコーチたちが「サインをベンチから出すと選手たちが育たないからやめてくれ」と言って来たためサインは出せなくなった。その後ダイエーでは権藤だけコーチ会議に呼ばれないなどの権藤外しが露骨に始まり、権藤の権限はどんどん小さくなっていった。退団時には中内オーナーから「あなたの才能を生かせる場がなくてすまなかった」という手紙が届いた。
:監督へ:
97年にはベイスターズにコーチとして入団。96年には4.67だった防御率を、3.70まで飛躍的に向上させた。そして4球団で17年間にわたって投手コーチを続けてきた権藤にようやく監督の話がやってきた。
:自主性:
98年に新監督に就任した権藤は選手をプロとして扱うことを強調した。投球フォームなども選手から聞かれない限りいじらない。「やらされる練習」ではなく、選手が「自分からやる練習」でなければ意味が無いとして、夜間練習にコーチが行く事を禁じて、夜間練習をしないことも自由にした。それまで監督やコーチが強制してきたことを、選手の自主性に任せるメジャー流へと変えていった。
:権藤さん:
権藤はコーチ時代から思い続けてきた数々のアイデアを実践した。送りバントをしない。全体ミーティングをしない。夜間練習を強制しない。中継ぎにもローテーションを作り連投させない。そんな中でも珍妙だったのは「監督」と呼んだら罰金というものだった。権藤はその理由を「監督なんてすぐクビになる。そのとき周りの人は、また呼び方を変えなきゃならない」と語った。
:権藤流:
権藤は全体ミーティングをしない理由を「選手にはそれぞれ個性があり、立場も違うから、それを一緒にしてミーティングしても意味が無い」と語り、そのかわりにグラウンドで一人一人に声をかけた。また送りバントをしない理由の「どんな投手でもアウト1つで立ち直るから」という言葉は、立ち直る隙を与えずに打ち続けるマシンガン打線を生むことになる。
:開幕投手:
権藤は開幕投手を「粘りの三浦か、キレと力の川村か」と悩んだ末に、一軍コーチ陣を全員集め多数決で開幕投手を決定した。開幕を 目前にした3月29日、権藤は三浦、川村、野村を呼び寄せて「目をつぶって手を出してくれ」といった。そしてコインを川村の右手に置いて「おめでとう」と声をかけた。結果は開幕3連勝という最高のものになった。
:KILL OR BE KILLED:
4月14日からの広島戦で3連敗すると、権藤は先発投手陣にボールを手渡した。そのボールにはKILL
OR BE KILLED(殺すか、殺されるか)と書かれていた。この言葉に象徴されるように権藤は逃げることを許さなかった。相手を恐れて四球を出した投手はすぐに二軍に落とされた。向かって行って打たれたのなら、「やられたら、やりかえしてこい!」と翌日に同じバッター相手にマウンドへ送り出すことも多かった。
:勇気:
権藤は「緩い球を投げる勇気を持ちなさい」と言って投手たちにチェンジアップを教えた。近鉄時代に阿波野は「権藤さんがベンチで「いけーぇ!」というおおきな声を出す時は外角のチェンジアップを使うときだった」と語った。
:抗議:
98年8月7日広島戦で鈴木尚典の打ったホームランが二塁打と誤審された。権藤監督はベンチから出たが一言確認しただけでベンチに下がった。これに選手たちは「いつも戦えと言ってるのに自分は戦わないのか?」と不信感を持った。これに気づいた竹田広報は権藤監督に進言し、権藤は翌日に「みんなに戦えと言ってきた。そう言っていながら俺は昨夜審判と戦っていなかった。すまん、今後気をつける」と謝った。その翌日の8月9日広島戦で波留が守備妨害をとられた。すると権藤監督はベンチを飛び出し声を荒げながら5分間にわたって猛抗議をした。試合は延長15回表に8得点を上げる猛攻で史上3番目の6時間13分の激戦を制した。
:新人監督で優勝:
60年10月2日の三原監督胴上げから、13885日目の98年10月8日甲子園球場での阪神戦、9回裏二死に佐々木が新庄から三振を奪って優勝を決めた瞬間、権藤監督は両手で頭を抱えて、万感の思いを決着をつけてから、選手の待つグラウンドに向かい、甲子園の夜空に舞った。インタビューでは「38年間、監督、コーチをやられた方、それからプレーした選手、その全てがこの一試合に凝縮されたと思ってますし、私はただここにいて、38年ぶりに勝てて本当によかったなっていう気持ちが一番ですね。ホっとしてます」
:やったら、やりかえされた:
西武と争うことになった日本シリーズの開幕前には、普段から仲のいい西武東尾監督と会食して、お互いに先発投手を発表したり、優勝旅行の行き先など、とてもこれからシリーズを争うとは思えない和やかな話し合いが行われたが、その際に東尾監督が同年のドラフトの目玉であり、横浜入りを希望していた松坂
大輔について「シリーズに負けたら松坂を指名する」と発言していた。そして日本シリーズを横浜が4勝2敗で制すると、西武はドラフトで松坂を強行指名してみごと入団にこぎつけた。
:80%投手コーチ:
自らを「80パーセント投手コーチ」と語る権藤は、食事に行くのも、話しかけるのも投手陣が多かった。そんな事もあって、もともと一部の野手陣からは不満の声が漏れていた。そして99年、打撃陣は打率.294と驚異的な攻撃力を見せたが、肝心の投手陣が防御率4.44と崩壊して優勝争いにすら加われなかった。特に接戦に弱かったため野手陣からは「バントや、エンドランのサインが出してくれれば」、という不満が溜まっていった。
:確執:
00年のある試合で、ゲームの終盤に無死一二塁のチャンスで駒田が打席に入った。駒田はサインが出ないのに業を煮やして、自主的にバントの構えを取った。すると権藤がベンチを飛び出して駒田に「打て」と命令した。結果駒田は併殺に倒れ試合にも敗れた。これに一部の野手陣は「選手の自主性と言っておいて、選手が自分の意思でバントを選択できないのか!」と激怒し権藤を非難し始めた。権藤はこの頃の事を「バントに関しては意地になっていた」と語った。その後駒田が試合中に帰宅するなど、確執は修復不可能なところまで深まっていった。
:3年連続Aクラスも・・:
けっきょく権藤は3年連続Aクラスを達成しながら、00年限りで退団することになった。後任には名将といわれた森が選ばれた。森の監督就任を喜んだ選手も多かったが、同時に権藤の退団はチームの柱を無くすことになった。「ボスはフェアな人だ」と権藤を慕っていたローズは権藤と共に退団し、自由なリードで投手陣を引っ張っていた谷繁は型にはまった森監督のリード論が耐えられずFAで中日に移籍した。
:73歳で投手コーチ就任:
12年には73歳にして中日の投手コーチに就任。移籍や故障者などで窮地に陥った投手陣を若手投手の起用や山井の抑え起用などの再編成で立て直す手腕を見せたが、シーズン中に投手起用を巡って71歳の高木監督との対立が度々表面化。そしてクライマックスシリーズのファイナルステージ第5戦で同点の9回裏に衰えの見える岩瀬を起用して結果的にサヨナラ負けとなった事に高木監督が激怒。クライマックスシリーズの敗戦が決定後にわずか1年での退団が発表された。
::
19年にエキスパート表彰で野球殿堂入り。 |
|
監督成績 |
219勝 |
|
186敗 |
|
2分 |
|
勝率.541 |
|
Aクラス |
3回 |
|
|
|
初記録 |
初登板 |
61年4月9日巨人戦 |
初勝利 |
61年4月9日巨人戦 |
初奪三振 |
|
初完投 |
61年4月9日巨人戦 |
初完封 |
|
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その他の記録 |
シーズン429.1投球回:セ |
61年 |
|
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|
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61 |
62 |
63 |
64 |
65 |
66 |
67 |
68 |
|
新人王 |
● |
|
|
|
|
|
|
|
1回 |
沢村賞 |
● |
|
|
|
|
|
|
|
1回 |
最多勝 |
● |
● |
|
|
|
|
|
|
2回 |
最多奪三振 |
● |
|
|
|
|
|
|
|
1回 |
最優秀防御率 |
● |
|
|
|
|
|
|
|
1回 |
ベストナイン |
● |
|
|
|
|
|
|
|
1回 |
オールスター |
● |
● |
● |
|
|
|
|
|
3回 |
|
投球成績
|
チーム |
登板 |
完投 |
完封 |
勝利 |
敗戦 |
S |
回数 |
安打 |
本塁 |
四球 |
死球 |
三振 |
暴投 |
ボーク |
失点 |
自責 |
防御率 |
|
61 |
中日 |
69 |
32 |
12 |
35 |
19 |
- |
429.1 |
321 |
20 |
70 |
3 |
310 |
3 |
1 |
97 |
81 |
1.70 |
62 |
中日 |
61 |
23 |
6 |
30 |
17 |
- |
362.1 |
307 |
26 |
69 |
3 |
212 |
5 |
0 |
108 |
94 |
2.33 |
63 |
中日 |
45 |
9 |
0 |
10 |
12 |
- |
220.2 |
205 |
29 |
79 |
4 |
88 |
1 |
1 |
105 |
94 |
3.83 |
64 |
中日 |
26 |
3 |
0 |
6 |
11 |
- |
105.1 |
105 |
12 |
45 |
3 |
47 |
4 |
0 |
53 |
49 |
4.20 |
68 |
中日 |
9 |
0 |
0 |
1 |
1 |
- |
18.1 |
32 |
5 |
11 |
2 |
10 |
0 |
0 |
23 |
22 |
11.00 |
|
通算 |
5年 |
210 |
67 |
18 |
82 |
60 |
- |
1136.0 |
970 |
92 |
274 |
15 |
667 |
13 |
2 |
386 |
340 |
2.69 |
|
|
打撃成績
|
チーム |
試合 |
打数 |
得点 |
安打 |
二塁 |
三塁 |
本塁 |
塁打 |
打点 |
盗塁 |
盗刺 |
犠打 |
犠飛 |
四球 |
死球 |
三振 |
併殺 |
失策 |
打率 |
|
61 |
中日 |
70 |
144 |
18 |
31 |
7 |
0 |
1 |
41 |
8 |
1 |
0 |
13 |
0 |
6 |
0 |
24 |
4 |
3 |
.215 |
62 |
中日 |
61 |
117 |
10 |
25 |
5 |
0 |
4 |
42 |
13 |
0 |
0 |
8 |
1 |
4 |
0 |
19 |
3 |
3 |
.214 |
63 |
中日 |
49 |
76 |
8 |
18 |
5 |
0 |
3 |
32 |
8 |
0 |
0 |
3 |
0 |
4 |
0 |
12 |
2 |
5 |
.237 |
64 |
中日 |
29 |
38 |
3 |
7 |
2 |
0 |
1 |
12 |
4 |
0 |
0 |
0 |
0 |
1 |
0 |
5 |
1 |
1 |
.184 |
65 |
中日 |
81 |
196 |
28 |
39 |
11 |
0 |
3 |
59 |
18 |
3 |
3 |
2 |
0 |
14 |
0 |
24 |
3 |
10 |
.199 |
66 |
中日 |
54 |
179 |
17 |
32 |
7 |
1 |
1 |
44 |
7 |
2 |
5 |
4 |
1 |
12 |
2 |
28 |
0 |
11 |
.179 |
67 |
中日 |
107 |
331 |
34 |
62 |
8 |
3 |
5 |
91 |
27 |
6 |
6 |
26 |
4 |
11 |
2 |
50 |
3 |
12 |
.215 |
68 |
中日 |
12 |
3 |
1 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
1 |
1 |
0 |
.000 |
|
通算 |
8年 |
463 |
1041 |
119 |
214 |
45 |
4 |
18 |
321 |
85 |
12 |
14 |
56 |
6 |
52 |
4 |
163 |
17 |
45 |
.206 |
|
|
オールスター投球成績
|
回数 |
登板 |
完投 |
完封 |
勝利 |
敗戦 |
S |
回数 |
安打 |
本塁 |
四球 |
死球 |
三振 |
暴投 |
ボーク |
失点 |
自責 |
防御率 |
|
通算 |
3回 |
4 |
0 |
0 |
0 |
1 |
- |
6.2 |
4 |
1 |
4 |
0 |
6 |
0 |
0 |
3 |
3 |
3.86 |
|
|
オールスター打撃成績
|
回数 |
試合 |
打数 |
得点 |
安打 |
二塁 |
三塁 |
本塁 |
塁打 |
打点 |
盗塁 |
盗刺 |
犠打 |
犠飛 |
四球 |
死球 |
三振 |
併殺 |
失策 |
打率 |
|
通算 |
3回 |
4 |
1 |
0 |
1 |
0 |
0 |
0 |
1 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
1.000 |
|
|
監督成績
|
チーム |
順位 |
勝利 |
敗戦 |
分け |
勝率 |
ゲーム差 |
本塁 |
被本 |
盗塁 |
犠打 |
打率 |
防御率 |
失策 |
|
98 |
横浜 |
1 |
79 |
56 |
1 |
.585 |
▼4.0 |
100 |
121 |
63 |
68 |
.277 |
3.49 |
70 |
99 |
横浜 |
3 |
71 |
64 |
0 |
.526 |
10.0 |
140 |
165 |
74 |
57 |
.294 |
4.44 |
77 |
00 |
横浜 |
3 |
69 |
66 |
1 |
.511 |
9.0 |
103 |
152 |
65 |
61 |
.277 |
3.92 |
58 |
|
通算 |
3年 |
|
219 |
186 |
2 |
.541 |
15.0 |
343 |
438 |
202 |
186 |
.283 |
3.95 |
205 |
|
|
|
|
|
|
|