三原 脩
60
|
名前 |
みはら おさむ |
生年月日 |
1911年11月21日 |
経歴 |
高松中−早稲田大−日本生命−巨人 |
入団年 |
60年から監督 |
在籍年 |
60年−67年 |
背番号 |
60年−67年[60] |
投打 |
右投げ右打ち |
守備 |
内野手 |
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|
:グローブ燃える:
三原 修は香川県の大地主の末っ子として生まれた。父の一彦は末っ子の修を可愛がっていたが、修が始めた野球が大嫌いで、何度もグローブを取り上げて、庭で燃やしたそうだ。
:水原との初対決:
高松中では27年に四国予選の準決勝で、終生のライバルとなる水原が進学した高松商と初対決、三原を含めて高松中は水原の前に手も足も出ずノーヒットノーランで敗れた。
:伝説の・・:
31年6月14日、早慶2回戦の2対2の同点で迎えた7回表、この回から慶応のマウンドには水原茂が上がっていた。水原は三原への四球から二死満塁のピンチを招いた。三原はこのときサードランナーだった。三原は「水原君の第一球、モーションに合わせてベースを離れた。ざっとみて7,8メートルは離れたろうか、そのときの感触は実にしっくりしていた。ひょっとすると…」そして水原が第二球目を投げようと腕を上げた瞬間、三原はホームベースに向かって突進し、ベースの3メートル手前からヘッドスライディングをしてセーフになった。このホームスチールで勢いに乗った早稲田は6対3で慶応を破った。このとき三原は水原に向かって「水原、文句あるか」と叫んだと言われる。前年の早慶戦で三原の犠牲フライが水原のアピールでアウトになっていたのだ。
:水原:
三原と水原は、お互いにプロ入りしてからもホームスチールをめぐって「あれはアウトだった」「審判の判定はセーフだったじゃないか」と水掛け論が永遠に続いたと言う。その後の二人はプロ野球史上最大のライバル関係として語り継がれていくことになる。
:退部:
早稲田のスター選手になっていた三原に思いがけないことが起こる、病床についていた父が、眼が黒いうちに三原が身を固めるのを見たいと言い出したのである。だが野球部の規則で部員の学生結婚は許されていなかった。まだプロ野球が存在しておらず、抜群の人気を誇っていた六大学野球、そのスター選手の座を三原はあっさり捨てて、春のシーズン終了後に退部した。32年の暮れに結婚し、年が明けてすぐに父は無くなった。
:全大阪入り:
早稲田を卒業した三原はホームスチールをしたときに打席に入っていた男であり、日本生命社長の甥である弘世正方の引きで日本生命に入社した。日本生命に入社が内定し、同時に都市対抗を目指して全大阪にも参加してくれというので、すぐに吹田市の千里山に引っ越した。
:契約第一号選手:
34年のある日、三原を早稲田入学時の監督である市岡が訪ねてきた。「日本で始めて本格的職業野球チームを作りたい。今度は読売の正力社長が本腰を入れてやる。ひとつ君にまさっきに加入してほしい。」、というのだ。三原は年棒2000円で大日本東京倶楽部(現巨人)の契約第一号選手になることを約束したが、正式発足は後だったので、そのまま都市対抗にも出場し、八幡製鉄との決勝では延長10回裏にサヨナラヒットを放ち優勝旗を大阪にもたらした。
:日米野球:
34年秋には全日本の一員として、ベーブルースらの全米オールスターと対戦。三原は打率.158に抑えられたが、両チームトップの5盗塁を記録した。ちなみに水原は打率.095。11月18日には横浜公園で試合が行われルース、ゲーリック、フォックスに本塁打が飛び出し21対4でMLBが圧勝した。その後横浜公園の野球場は「ルーゲーリック球場」と名前を変え、その後横浜スタジアムになった。
:戦争:
日米野球後にプロ野球契約第一号として大日本東京倶楽部(現巨人)の一員になった三原だったが、35年に丸亀連隊に入隊し巨人を抜けるが、一年余りの軍隊生活ののちに、巨人の藤本監督に説得せれ助監督権セカンドとしてプロに復帰した。しかし翌37年に再び上海事変で召集され、大場鎮の戦闘で左太腿に貫通銃創弾を受け事実上選手生命を絶たれた。38年に現役生活を終えた三原は報知新聞の記者に転向した。
:通算0本塁打:
36年にはトップバッター、37年春には3番、37秋、38年春には2番を打った。通算では92安打、0本塁打で、水原の476安打、12本には大きく水をあけられた。
:九死に一生:
41年10月、三原は三度目の召集令状を受けた。陸軍曹長として第十一師団の司令部勤務となった。11月には行き先も伝えられず輸送船に乗せられ、タイのバンコクに連れて行かれた。第十一師団はのちに楯師団と改称され、44年3月にビルマに進行した。いわゆるインパール作戦である。44年末には連合軍の反撃にあい、ビルマの山中に敗走を続けた。兵士たちは敵の攻撃と、飢えや、マラリヤで次々に死んでいった。三原はマラリヤにかかりながら、何とか生き残り46年6月に帰国した。
:監督就任:
47年報知新聞にいた三原は、安田編集局長から不振にあえぐ巨人の監督をやってもらいたいと声をかけられた。そして6月6日から三原は巨人の総監督として球界に復帰する。一年目こそ5位に終わったが、2年目には2位、そして3年目には2位に16ゲームという圧倒的な差をつけて優勝した。
:別所引き抜き:
49年の巨人優勝の大きな要因となった別所引き抜き事件の裏には三原の影があったといわれ、実際48年のシーズン中に別所と木塚忠助が西宮の旅館に招かれて三原に巨人にこないかと誘われている。
:前日:
49年4月13日対南海戦は別所引き抜きの直後と言うこともあってエキサイトしたものになった。6回表に南海の一、三塁のチャンスで、一塁ランナー鶴岡が二盗を敢行する、成功したかに思われたが、盗塁を助けようとした打席の飯田がホームベースに覆い被さるようにハーフスイングをしていた。捕手の藤原は捕手妨害だとアピールし、三原監督も「飯田の体がホームベースの上にかぶさり、足もベースを踏んでいた。明らかに捕手妨害で飯田はアウトだ」と主張し、これが認められて飯田はアウトになった。このとき筒井と言う選手が南海ベンチを飛び出して大声で抗議をした。当事者でも無ければ抗議権の無い筒井がしきりにわめきたてるものだから、三原監督は「お前はだまっとれ!」と一喝した。これが後の事件につながっていく。ちなみにこれが捕手妨害でのアウトの第一号になった。
:ポカリ事件:
49年4月14日対南海戦、巨人の4点リードで迎えた9回表、南海は飯田のホームランでまず一点を返すと、連打を放ち無死ニ、三塁のチャンスで打席に入った筒井がレフト前に2点タイムリーを放ち1点差とした。だが代打岡村の放った打球はファースト正面に飛ぶ絶好のダブルプレーコース、まずは川上が二塁に送球してフォースアウト、そしてショート白石が一塁に転送しようしたとき、一塁ランナーの筒井が白石に組み付くように滑り込み、白石は送球できなかった。白石は「なにするんなら!」と怒鳴り、筒井も「何を!」とやり返した、ベンチを飛び出した三原監督は守備妨害だと強く津田審判にアピールしたが認められなかった。三原はベンチに帰ろうとすると、筒井と白石がまだ遣り合っていた。これを見た三原は自分を抑えきれなくなり、筒井を右腕でポカリとやった。三原監督にはシーズン出場停止の処分が下ったがその後100日に短縮された。
:復帰:
出場停止から3月後の7月21日には処分が解けて監督に復帰した。そしてその三日後シベリアからやせ劣れ得た水原が帰国し、後楽園球場で「ただいま帰って参りました」と挨拶し、嵐のような拍手を受けた。そして水原は戦争から帰ってきたら監督になるという約束を巨人幹部とまとめていた。すると数人の選手が水原を監督にしなければ巨人を去るという噂が立ち初めた。そして翌年巨人の監督には水原の姿があった。三原には実権の無い総監督という名前があたえられた。
:西鉄:
三原は名前を修から脩に改名し、巨人を去ることを決意した。当初は西日本パイレーツと契約したが、西日本が「セリーグの圧迫に耐えられず」という声明と共に、西鉄との合併を発表したため西鉄ライオンズの監督に就任した。三原は前年5位の西鉄を初年度の51年に2位に浮上させると、54年には開幕から11連勝を達成し、0.5ゲーム差で南海をかわして優勝を果たした。
:流線型打線:
普通の打線は3番から5番に強打者が並ぶが、三原は2番から4番をクリーンナップとして2番豊田、3番中西、4番大下という「流線型打線」を考案した。2番豊田が70打点を超える打線は恐ろしい破壊力を持ち、53年から5年連続でパリーグ最多得点をあげた。
:シリーズ初戦:
56年日本シリーズ、相手は水原率いる巨人で、大方の予想は巨人有利だった。そんな中三原は偶数回数必勝論を打ち上げた。そして奇数である初戦の先発マウンドに、シーズンわずか2勝を川崎を送った。そして川崎が打ち込まれると、三原は西村-島原-稲尾と次々にエース投手を投げさせた。投げさせることで日本シリーズの緊張感を解き、、同時に巨人の戦力を探る作戦だった。
:水原を破り日本一:
初戦で島原が巨人に通用すると見た三原は、5回途中で稲尾に代えて嶋原を送った。すると島原は4.1回を1失点に抑えて6対3で買った。自らが巨人に入団させた別所を打ち崩しての快勝だった。続く第三戦でもリリーフに立った別所を打ち崩して連勝。そして3勝2敗で迎えた第六戦、巨人の水原監督は先発に3度投げて3度とも打たれている別所を送った。西鉄打線は初回に別所を滅多打ちにして4点を先制、あとは稲尾が1失点完投で見事日本一になった。三原の宣言どおり偶数試合は全て勝利しての日本一だった。
:V2:
57年も水原巨人と日本シリーズで顔を合わせたが4勝1分けという圧倒的な強さでV2を達成した。
:10ゲーム差:
58年は毎年のようにパリーグの覇権を争ってきた南海が圧倒的な強さを見せ、オールスターまでに西鉄に10.5ゲーム差をつけていた。このころ三原は球団幹部から「ここまで成績が悪ければ監督の進退問題に発展する」とまで言われた。だが後半戦に入ると西鉄は信じられない勢いで勝ち始め、最後には13連勝で大逆転優勝を決めた。後半戦は36勝12敗、勝率.750という驚異の成績だった。中でも稲尾は17勝1敗という凄まじさだった。
:3連敗・・:
58年激闘の末にパリーグを制した三原西鉄は、日本シリーズで水原巨人と3年連続で顔をあわせた。巨人にはベテラン川上に、大型新人の長嶋が加わっていた。第一戦は頼みの稲尾が打ち崩され、2対9で完敗、第2戦も3対7で敗れ、後楽園から平和台球場に移った第三戦も稲尾を立てて0対1で敗れ、まさかの3連敗となった。三原は「まだ首の皮一枚残ってる」と語ったが、誰もが「ついに三原が水原に敗れる」と思った。だが第4戦が雨で中止が決定した。しかも朝の8時にだ、10時には雨が上がり日までさしてきた。これに巨人の水原監督は激怒し、三原や、コミッショナーなどに執拗に抗議の電話をかけた、だがすでに巨人の球団代表が中止に同意していたため後の祭りだった。
:神様、仏様、稲尾様:
3連敗をした日、三原は球団社長の西亦から「第4戦以後、どんな展開になっても、最後の最後まで稲尾、稲尾、稲尾で押しまくってくれ」といわれた。そして第4戦、西鉄は一日の休養ができたエース稲尾が苦しみながら4失点で完投し6対4で勝利した。すると第五戦も稲尾がリリーフで7回を無失点に抑え、延長10回裏にその稲尾がシリーズ史上初のサヨナラホームランを放ち連勝。明らかに流れは変わっていた。
:巌流島の戦い:
日本シリーズ第六戦、予告したスタメンから三原は前前日に突き指をした玉造陽二に変えて花井悠を入れた。水原は「予告発表したメンバーと違う。これではゲームは出来ない。卑怯なまねをするな。」と激怒した。結局は井上コミショナーのとりなしで水原が折れた。この事件で試合時間が40分遅れ、巨人先発の藤田はリズムをつくれず初回に2点を失うことになった。すると稲尾がこの2点を守りきり完封でついに3勝3敗のタイに持ち込んだ。三原と水原の対決をマスコミは「巌流島の戦い」と読んだが、これに対して水原は「三原君は、相手を刺激するような言動をすることが良くあった。そういうところは武蔵流といえるかもしれない。小次郎が負けたようにそれに引っかかるのはバカだ、引っかかったほうが負けだと言えばそれまでだが、やられるほうは、あまりいい気持ちはしない」、と本音をもらしている。
:3年連続日本一:
第七戦、勢いに乗った西鉄に負ける要素は無かった。初回に3点を先制すると豊田の4安打の活躍などで6点を取り、投げては4連投となった先発稲尾が、9回に長嶋にランニングホームランを打たれて完封こそ逃したが、1失点完投で4連投4連勝という大活躍でMVPを勝得した。三原は3年連続で水原を破り日本一になった。
:野武士軍団:
日本シリーズ3連覇の原動力となったのは有望な高卒新人を大量に獲得したことにある。52年に自らの地元高松から中西太を獲得したのをきっかけに、53年には豊田泰光、高倉照幸、54年に仰木彬、そして56年には鉄腕稲尾が入団し西鉄黄金時代がはじまった。史上最強チームを語るとき、必ず名が挙がるほどこの時の西鉄は強かった。
:遠心力野球:
三原は、水原らの野球を監督を中心の「求心力野球」と名づけた。そして自らの野球を「遠心力野球」と呼んだ。「選手は惑星である。それぞれが軌道を持ち、その上を走っていく。この惑星、気ままで、ときには軌道を踏み外そうとする。そのとき発散するエネルギーは強大だ。遠心力野球とはそれを利用して力を極限まで発揮させる。」
:大洋監督へ:
V3を達成した58年のシーズン中に三原は早稲田の先輩である大洋球団代表の森茂雄に街頭で偶然会い、森に「うちの監督を引き受けてはくれんかね」といわれた。三原は「今の私は西鉄監督の身。しかしチーム事情が許しさえしたらお世話になりましょう」と答えを濁した。だが三原は西鉄上層部に対する強い不信感を持っており、三原の心はすでに決まっていた。そして奇跡の優勝と遂げた二日後の10月3日には大洋の土井からチーム事情を聞きだし、コーチの人選も始めていた。ところがそのコーチが三原の大洋監督就任をマスコミにもらしてしまい、ファンや選手から西鉄に怒りの電話が相次いで結局西鉄の監督をもう1年続けることになった。
:俺が・・:
59年7月19日大毎対西鉄戦。8回裏の大毎の攻撃で一塁にランナー小森をおいて、醍醐が稲尾の前にバントをした。稲尾は二塁に送球すると微妙なタイミングだったが中根塁審はアウトと判定した。三原が抗議に出ると中根塁審は「ランナーの足と送球と同時だからセーフ」といい、三原は「同時はアウトだ」と譲らず、ニ出川審判に判断を仰ぐことになった。ニ出川は野球規則6.05のJ項に「走者がベースを踏む前に送球が早かった場合はアウト」というのがある。だから同時はセーフです」と説明したが三原はなおも食い下がり、その「6.05のJ項」を見せてくれと言った。この言葉にニ出川審判はうろたえた。実はこの日ニ出川審判はルールブックを家に忘れてきていたのである。ここでニ出川はルールブックを要求する三原に「俺がルールブックだ」と伝説の名言で答えた。
:お荷物球団の監督へ:
60年、三原が大洋の監督を引き受けたときには誰もが驚きの声を上げた。大洋は前年まで6年連続最下位でセリーグのお荷物だったからだ。大洋にも秋山、近藤和など一流選手はいたものの戦力不足はいなめず、特に打線は目も当てられないほどだった。そこで三原はそれまでショートを争っていた打撃力の弱い浜中を代走、守備の下手な麻生を代打に回し、近鉄からクセ者鈴木武を獲得してショートに回した。スタミナの無い権藤とエースクラスだった鈴木隆を中継ぎ、大エース秋山は先発、中継ぎ、抑えの三役をこなさせた。三原のメモには「タイプの違った二人の選手の長所をうまく組み合わせて起用すれば一人のスタープレーヤーに匹敵する戦力が生まれる」と書かれていた。権藤にはカーブ、島田にはコントロール、浜中には走塁といった具合に選手の一番得意な技術を徹底的に磨かせた。
:アメリカにはいっぱいある:
キャンプで記者団に「勝率5割が目標ですか?」と問われた三原は突然大声でまくし立てた。「冗談じゃない。勝率5割を目標にして優勝できますか?、大洋の目標は優勝です。最下位だといってもそれは去年までのこと、前年最下位だから次も最下位だという理屈はない。前年最下位のチームが優勝した例はアメリカにはいっぱいありますよ」、いつしか選手達はこの言葉に聞き耳を立てていた。そして大洋は日本史上初の最下位からの優勝を成し遂げた。1991年にメジャーリーグ史上初の最下位からの優勝をブレーブスが達成する31年も前の話である。
:超ニ流:
三原は監督ともめて近鉄の二軍にくすぶっていた鈴木武を獲得しようと考えたが、当時のプロ野球規則では5月に入るとトレードは出来なかった。だが例外としてコミッショナーが承認すれば移籍ができるとあり、三原はこれを使って6月7日に近鉄から鈴木武を獲得した。鈴木はチームを変えた。打者によって守備位置を変え、牽制時には巧みなタッチでたびたび二塁ランナーをアウトにした。三原は西鉄時代の河野昭修のように普段はそれほど選手ではなくとも、ここぞと言う場面で考えられないようなプレーをする選手のことを「超ニ流」と呼んだ。そして鈴木武はまぎれも無く超ニ流だった。
:土井:
大洋の監督になった三原は、三原とキャッチャー土井だけのサインがあった、土井がマスクやユニフォームにさわって「球威が落ちてきた」、「コントロールがよくない」といった味方に知られたくない情報を二人だけで交わしていた。三原の土井に対する信頼は厚く、大洋監督就任前にも土井に会って選手達の情報を聞き出している。
:水原巨人を破り勢いに乗る:
60年、開幕戦の試合前に開幕投手であった秋山が負傷したのをきっかけに、まさかの開幕6連敗。5月終了時点でも19勝22敗と負け越していた。だが6月1日巨人戦で鈴木隆が8者連続三振を奪い完封勝ちすると、翌日も水原率いる巨人を破り連勝。そして6月29日の下関球場で行われた巨人とのダブルヘッダーで2試合連続サヨナラ勝ちをすると選手達は完全にその気になった。
:初優勝:
8月7日からは4試合連続完封、しかも4戦目は島田源太郎の完全試合だった。8月23-24日には4番桑田、5番黒木が相次いで故障したが、2位巨人との5連戦を3勝1敗1分けで乗り切り、10月2日の甲子園球場での試合中に「巨人が広島に敗れる」の報が入り、6年連続最下位からの大洋ホエールズの初優勝が決まった。一点差試合33勝17敗という接戦をものにしての快挙だった。またセリーグ6連覇を三原に阻止されて達成できなかった巨人監督の水原は悔しさからカメラマンを殴ってしまって責任を取って監督を辞めることになった。
::
ミサイル打線と言われた強力打線を要する大毎が圧倒的に有利と言われた日本シリーズではシリーズ前日に大毎の西本監督と出演予定だったTV出演をすっぽかして西本監督に激怒させた。また初戦の先発を大エース秋山ではなく鈴木隆を起用し、初回の一死一二塁のピンチで早くも秋山に継投させてロングリリーフでものにするなど采配が当たり、大毎の西本監督はシリーズの明暗を分けたスクイズという慣れない采配を振るってチャンスをつぶすなど4試合すべて1点差で大洋が勝利し日本一に輝いた。
:反転:
優勝した翌61年、三原は奇想天外なアイデアを実行しようとしていた「川崎球場を半回転させ、バックスクリーンの位置を本塁にしようと考えてる」理由は川崎球場の風がライトからホーム方向に吹いているため、近藤和などの左打者の打球がスタンドに届かないためであった。球団や市関係との問題で実現しなかった。
:死に馬に蹴られた:
61年は最下位にとんぼ返りし「エレベーター大洋」などと呼ばれたりもした。62年、64年は優勝を目前にしていたが、ともに阪神に優勝をさらわれた。シーズン終盤に最下位国鉄に破れた直後に「死に馬に蹴られた」と失言し、これが国鉄の怒りを買って優勝を阪神にさらわれることになった。このころの三原は試合に敗れたとき選手に「誰のお陰で勝ってると思ってるんだ」とと発言するなど失言が目立つようになり、、選手の心は少しづつ三原から離れていった。
:弱小チームを転々:
68年には4年連続最下位だった近鉄に移籍し、4位、2位、3位と結果を残したがこちらでは球団史上初の優勝は出来なかった。71年から9年連続Bクラスだったヤクルトに移籍するも3年連続Bクラスに終わった。51年からは23年連続で監督を務めた。
:殿堂:
通算成績は1687勝1453敗108分け、優勝は6回で日本一4回。ライバル水原は1586勝1123敗73分け、優勝9回で日本一5回。83年に水原に6年遅れて殿堂入り。 |
|
球団監督成績 |
461勝 |
|
490敗 |
|
21分け |
|
勝率.485 |
|
Aクラス3回 |
|
|
通算監督成績 |
1687勝 |
|
1453敗 |
|
108分け |
|
勝率.537 |
|
優勝6回 |
|
|
|
|
|
打撃成績
|
チーム |
試合 |
打数 |
得点 |
安打 |
二塁 |
三塁 |
本塁 |
塁打 |
打点 |
盗塁 |
盗刺 |
犠打 |
犠飛 |
四球 |
死球 |
三振 |
併殺 |
失策 |
打率 |
|
36秋 |
巨人 |
13 |
43 |
3 |
9 |
2 |
1 |
0 |
13 |
2 |
5 |
- |
1 |
- |
11 |
0 |
8 |
- |
1 |
.209 |
37春 |
巨人 |
47 |
186 |
31 |
45 |
9 |
1 |
0 |
56 |
24 |
12 |
- |
5 |
- |
23 |
0 |
13 |
- |
13 |
.242 |
38春 |
巨人 |
11 |
34 |
5 |
7 |
0 |
1 |
0 |
9 |
1 |
1 |
- |
0 |
- |
10 |
0 |
3 |
- |
1 |
.206 |
38秋 |
巨人 |
37 |
144 |
21 |
31 |
8 |
2 |
0 |
43 |
13 |
9 |
- |
3 |
- |
24 |
1 |
13 |
- |
14 |
.215 |
|
通算 |
3年 |
108 |
407 |
60 |
92 |
19 |
5 |
0 |
121 |
40 |
27 |
- |
9 |
- |
68 |
1 |
37 |
- |
29 |
.226 |
|
|
監督成績
|
チーム |
順位 |
勝利 |
敗戦 |
分け |
勝率 |
ゲーム差 |
本塁 |
被本 |
盗塁 |
犠打 |
打率 |
防御率 |
失策 |
|
47 |
巨人 |
8 |
46 |
40 |
4 |
.535 |
22.5 |
27 |
41 |
100 |
|
.242 |
2.65 |
147 |
48 |
巨人 |
2 |
83 |
55 |
2 |
.601 |
5.0 |
95 |
35 |
130 |
|
.256 |
2.27 |
198 |
49 |
巨人 |
1 |
48 |
23 |
1 |
.676 |
▼16.0 |
125 |
87 |
112 |
|
.273 |
3.15 |
160 |
51 |
西鉄 |
2 |
53 |
42 |
10 |
.558 |
18.5 |
63 |
48 |
92 |
|
.242 |
2.75 |
135 |
52 |
西鉄 |
3 |
67 |
52 |
1 |
.563 |
8.5 |
94 |
48 |
100 |
|
.261 |
3.08 |
190 |
53 |
西鉄 |
4 |
57 |
61 |
2 |
.483 |
13.5 |
114 |
52 |
122 |
|
.253 |
3.05 |
161 |
54 |
西鉄 |
1 |
90 |
47 |
3 |
.657 |
▼0.5 |
134 |
38 |
136 |
|
.256 |
2.17 |
140 |
55 |
西鉄 |
2 |
90 |
50 |
4 |
.643 |
9.0 |
140 |
51 |
173 |
|
.259 |
2.68 |
144 |
56 |
西鉄 |
1 |
96 |
51 |
7 |
.653 |
▼0.5 |
95 |
33 |
165 |
|
.254 |
1.87 |
162 |
57 |
西鉄 |
1 |
83 |
44 |
5 |
.654 |
▼7.0 |
94 |
40 |
99 |
|
.255 |
2.15 |
139 |
58 |
西鉄 |
1 |
78 |
47 |
5 |
.624 |
▼1.0 |
83 |
39 |
96 |
|
.243 |
2.37 |
116 |
59 |
西鉄 |
4 |
66 |
64 |
14 |
.508 |
22.0 |
69 |
72 |
79 |
|
.236 |
2.66 |
136 |
60 |
大洋 |
1 |
70 |
56 |
4 |
.556 |
▼4.5 |
60 |
66 |
149 |
|
.230 |
2.32 |
121 |
61 |
大洋 |
6 |
50 |
75 |
5 |
.400 |
21.5 |
76 |
78 |
119 |
|
.236 |
3.10 |
109 |
62 |
大洋 |
2 |
71 |
59 |
4 |
.546 |
4.0 |
100 |
80 |
61 |
|
.242 |
2.73 |
110 |
63 |
大洋 |
5 |
59 |
79 |
2 |
.428 |
24.0 |
110 |
104 |
73 |
|
.237 |
3.29 |
113 |
64 |
大洋 |
2 |
80 |
58 |
2 |
.580 |
1.0 |
134 |
104 |
71 |
|
.255 |
3.03 |
120 |
65 |
大洋 |
4 |
68 |
70 |
2 |
.493 |
23.0 |
136 |
89 |
85 |
|
.244 |
2.81 |
113 |
66 |
大洋 |
6 |
22 |
43 |
0 |
.338 |
37.0 |
116 |
127 |
59 |
|
.247 |
3.74 |
110 |
67 |
大洋 |
5 |
41 |
50 |
2 |
.451 |
25.0 |
130 |
114 |
51 |
|
.245 |
3.28 |
131 |
68 |
近鉄 |
4 |
57 |
73 |
5 |
.438 |
23.0 |
84 |
129 |
151 |
|
.234 |
3.28 |
109 |
69 |
近鉄 |
2 |
73 |
51 |
6 |
.589 |
2.0 |
118 |
100 |
120 |
|
.243 |
2.78 |
109 |
70 |
近鉄 |
3 |
65 |
59 |
6 |
.524 |
13.5 |
108 |
112 |
152 |
|
.233 |
2.98 |
89 |
71 |
ヤクルト |
6 |
52 |
72 |
6 |
.419 |
19.0 |
94 |
112 |
81 |
|
.234 |
3.03 |
107 |
72 |
ヤクルト |
4 |
60 |
67 |
3 |
.472 |
14.5 |
115 |
126 |
102 |
|
.254 |
3.73 |
114 |
73 |
ヤクルト |
4 |
62 |
65 |
3 |
.488 |
4.5 |
78 |
96 |
60 |
|
.228 |
2.60 |
117 |
|
球団 |
8年 |
|
461 |
490 |
21 |
.485 |
131.0 |
862 |
762 |
668 |
|
.242 |
3.04 |
927 |
|
通算 |
26年 |
|
1687 |
1453 |
108 |
.537 |
281.5 |
2484 |
2021 |
2738 |
|
.246 |
2.83 |
3400 |
47年、49年、66年、67年はフル出場ではありません。:「ゲーム差」から右は一年間のチーム成績 |
|
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