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中畑 清



70
名前 なかはた きよし
生年月日 1954年1月6日
経歴 安積高−駒澤大−巨人(75年D3位)
入団年 12年に監督に就任
在籍年 12年−15年
背番号 12年−15年[70]
投打 右投げ右打ち
守備 内野手
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父の辰雄は戦前に横浜で建築業を営んでいたが、終戦の翌年に生まれ故郷である福島県矢吹町に戻って瓦の製造業を始めたが失敗。54年に8人目の子供になる清が生まれると畜産業を始めて、清も5時に起きてミルク絞りを手伝った。兄弟9人中8人がスポーツに打ち込むスポーツ一家で、生活はかなり苦しかったが小5の時にグラブを買ってもらい本格的に野球を始めるきっかけとなった。また搾りたての牛乳を毎日飲み続けた事もあってか小6で身長160センチとすくすくと育った。

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長嶋に憧れて少年時代はサードでプレーしていたが、矢吹中では2年から捕手、安積高でもサードと捕手を勤めた。3年夏の県大会では3回戦の双葉高戦で2対2の同点で迎えた延長12回裏に一死三塁というピンチを招くと、双葉高がスクイズを仕掛けてきたが、捕球したピッチャーが捕手の中畑に送球してタイミングは完全にアウトだったが、中畑が痛恨の落球でサヨナラ負けとなってしまった。

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高校時代は全国的には無名の選手だったが駒沢大に進学すると、大田監督のアドバイスで王貞治を参考にした一本足打法に挑戦して2年春にリーグ3位の打率.341(44打数15安打)を記録してベストナインに輝くなどリーグを代表する選手になった。秋にはリーグ5位の打率.321(56打数18安打)、4本塁打を放って駒沢大を3年ぶりの優勝に導き最優秀選手に選出された。3年春には東洋大との優勝決定戦で試合中に左足のかかとを骨折、強行出場を続けて10回裏にツーベースで出塁してサヨナラのホームも踏み優勝に貢献したが、故障の影響もあって秋は不振に苦しんだ。

4年春には一本足打法をあきらめて打撃フォームを変更、打率.345で4度目のベストナインに選出された。なお大学時代にはサングラスでプレーした。

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75年のドラフト会議で巨人から3位指名を受けて、駒大三羽烏と言われた平田、二宮と揃って巨人に入団した。ルーキーイヤーには開幕1軍に残ったが試合には出れないまま登録抹消、二軍で10本塁打、43打点を記録して打点王を獲得した。オフに結婚して迎えた翌77年には7月に昇格し、17日の広島戦で初出場、31日の阪神戦で初ヒットを記録したが、7試合の出場で5打数2安打に留まった。


78年には一軍に帯同していた7月18日にコーチから2軍が中畑の故郷である福島で試合を行うので2軍に行って「錦を飾ってこい」と言われて降格、中畑は悔しさのあまり涙を流したが

日米野球で飛躍
78年の日米野球の巨人対レッズ戦の第1戦で高田繁に代わって途中出場すると8回裏に回ってきた打席でマリオ・ソトからレフトスタンドに飛び込む逆転ツーランを放った。これでチャンスを手に入れた中畑は同シリーズで26打数7安打を記録してアピールした。巨人の長島監督がレッズの名将アンダーソン監督に「日本のチームで目立った選手は?」と問うと、アンダーソンは「第1戦でホームランを打った体の大きな三塁手」と中畑を選び、「未完成なのは分かる。しかし私は才能を感じる。若手には十分チャンスを与えるべきだ」とアドバイスを送った。

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79年には後に監督を要請される高田の故障でサードスタメンのチャンスを掴むと
なお高田には若手時代には家が近かったこともあって球場への送り迎えで世話になるなど
秋には伝説となった伊東の秋季キャンプで長嶋監督らに徹底的に鍛えられた。

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81年にはゴールデンルーキーの原が入団してサードのポジションが危うくなったが、首脳陣は原を不慣れなセカンドで起用して中畑はレギュラーの座を守ったかに思われた。だがGWの阪神戦でヒットで一塁に出た中畑が原のサードゴロで二塁に滑り込んだ際にセカンドの岡田にのしかかられて左肩を脱臼、交代となりベンチ裏に下がった中畑の耳に「サード原」のアナウンスと観衆の大歓声が聞こえてきて涙を流した、復帰後はファーストでの起用となったが中畑は腐らずに7月4日のヤクルト戦から8月6日の中日戦まで21試合連続ヒットを記録するなど自身の最高打率となる打率.322という好成績を残した。

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85年には7月12日の阪神戦の2打席目から7月16日の大洋戦の2打席目まで9打数連続安打を記録。

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85年のシーズンオフに月刊現代の企画で親友のラグビー選手、森重隆との対談が企画された。料亭で酒を飲みながらの対談という事もあって終盤には酔いが回った中畑は王監督への不満をぶちまけて「みんな、あの人のことをワン公と呼んでいるよ」という度を越した陰口を口にしてしまう。この対談は月刊現代の紙面に載る事はなく対談そのものが無かった事になったが、対談内容が週刊文春に漏れて紙面に載り大問題になった。

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89年に同年限りでの引退を決断。
日本シリーズでは3勝3敗で迎えた第7戦で原のツーランで6対2とした6回表に代打で起用されて吉井からホームランを放って有終の美を飾った。

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02年秋にはアテネ五輪で金メダル獲得を目指す日本代表のヘッドコーチに就任、翌年のアジア最終予選は3戦全勝でオリンピック出場を決めたが、翌04年に日本代表の監督を務めていた長嶋が脳梗塞で倒れて、言語障害に右半身マヒというショッキングな事態に陥り、中畑が事実上の監督代行を務めることになった。アテネでは予選リーグで宿敵キューバを下して6勝1敗で予選1位で決勝トーナメントに選出したが、準決勝で伏兵オーストラリア戦でのちに阪神で活躍するオクスプリングとウィリアムスに抑え込まれて惜敗、3位決定戦は大勝したが銅メダルに留まった。

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10年には読売新聞の渡辺会長の後押しを受けて参議院選挙にたちあがれ日本から出馬したが落選。

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東日本大震災

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就任会見では「熱いぜDeNA!」
両親が眠る戸塚の高松寺に行き、墓前で横浜の監督になった事を報告した。
不動の4番村田がFAで巨人に移籍
アテネ五輪で共にコーチを務めた高木豊をヘッドコーチに迎え

キャンプ直前の自主トレを視察した際に選手たちからあいさつを受けたが、伏し目がちの小さな挨拶ばかりだった事に激怒し、チームのムードを変えるために大きな声でのあいさつや掛け声、ベンチでのムード作りを徹底させることからチーム再建の一歩

キャンプ2日目にはインフルエンザで離脱、「熱いぜキヨシ」と話題になり、ホテルのベランダに中畑が姿を現すとグラウンドの選手たちが手を振ってくれた。中畑はこの時のことを振り返り、インフルエンザのおかげで選手たちが親近感を持ってくれて垣根がなくなったと振り返った。

2月25日に行われた古巣巨人とのオープン戦前には選手たちを集めて「今日からオレは巨人OBの中畑清じゃない。巨人を倒し、巨人ファンから嫌われるベイスターズの監督の中畑清だ」と巨人との決別を伝え、試合は移籍した村田のソロなどリードを許したが、8回に石川のタイムリーで勝ち越して4対3で逆転勝利を収めるとオープン戦とは思えない喜びようを見せた。

両親が出会った場所でもある鶴岡八幡宮で必勝祈願。

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開幕戦を劇的な展開で引き分けるなど開幕カードの阪神戦は1勝1敗1分で乗り切ったが、ホーム開幕戦となった4月4日の中日戦は2試合連続完封負け、続く広島戦では前田健太にノーヒット・ノーランを喫して、次戦も完封負けと球団記録の46イニング連続無得点という球史に残る苦しみを味わった。13日の巨人戦でも恩師のミスターが観戦する中で1安打完封負けとどん底に沈んだ。だが二日後に新潟で行われた巨人戦を中村紀のサヨナラツーランでものにすると中村を抱きしめて歓喜を表現し、5月3日の中日戦では絶対的抑えの岩瀬からラミレス、中村が連続アーチをかけて引き分けに持ち込むなど

負けても全試合でカメラ前に立ってインタビューを受け

最下位チームとは思えない多くの報道陣が
TVなどへの
キヨシ語録



初記録
初出場
初安打
初本塁打
初打点
初盗塁
その他の記録
9打数連続安打 85年7月12日〜7月16日






76 77 78 79 80 81 82 83 84 85 86 87 88 89
ゴールデングラブ 7回
オールスター 6回


  打撃成績
チーム 試合 打数 得点 安打 二塁 三塁 本塁 塁打 打点 盗塁 盗刺 犠打 犠飛 四球 死球 三振 併殺 失策 打率
77 巨人 7 5 0 2 0 0 0 2 0 0 0 0 0 0 0 1 1 0 .400
78 巨人 5 3 0 1 0 0 0 1 1 0 0 0 0 0 0 1 0 0 .333
79 巨人 100 333 42 98 18 3 12 158 45 4 4 6 3 7 3 46 8 11 .294
80 巨人 124 459 61 123 15 2 22 208 57 10 8 7 4 28 5 53 11 19 .268
81 巨人 109 416 55 134 17 7 16 213 66 10 2 0 3 19 2 37 7 10 .322
82 巨人 124 468 56 125 24 5 25 234 78 4 3 0 3 37 2 71 10 12 .267
83 巨人 114 416 53 125 20 2 15 194 68 13 1 2 5 22 1 39 5 9 .300
84 巨人 130 493 78 145 30 1 31 270 83 4 1 0 2 51 4 64 12 6 .294
85 巨人 125 490 71 144 32 2 18 234 62 7 3 2 3 30 1 39 11 5 .294
86 巨人 127 447 57 122 29 2 14 197 69 7 5 2 6 27 2 67 10 9 .273
87 巨人 110 371 37 119 23 1 6 162 40 6 3 7 5 29 1 46 13 5 .321
88 巨人 124 444 46 131 36 2 10 201 46 5 4 4 1 28 1 35 18 3 .295
89 巨人 49 113 8 25 6 0 2 37 6 0 2 2 0 12 1 24 2 6 .221
通算 13年 1248 4458 564 1294 250 27 171 2111 621 70 36 32 35 290 23 523 108 95 .290


  日本シリーズ打撃成績
チーム 試合 打数 得点 安打 二塁 三塁 本塁 塁打 打点 盗塁 盗刺 犠打 犠飛 四球 死球 三振 併殺 失策 打率
81 巨人 6 24 4 6 0 0 1 9 2 0 2 0 0 3 0 1 1 1 .250
83 巨人 7 27 4 7 1 2 0 12 3 1 0 0 0 2 1 3 0 0 .259
87 巨人 6 20 1 3 0 0 1 6 3 1 0 0 0 2 0 2 2 0 .150
89 巨人 3 5 1 1 0 0 1 4 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 .200
通算 4年 22 76 10 17 1 2 3 31 9 2 2 0 0 7 1 6 3 1 .224


  オールスター打撃成績
回数 試合 打数 得点 安打 二塁 三塁 本塁 塁打 打点 盗塁 盗刺 犠打 犠飛 四球 死球 三振 併殺 失策 打率
通算 6回 18 29 5 9 3 1 2 20 5 0 0 0 0 2 0 6 1 2 .310


  監督成績
チーム 順位 勝利 敗戦 分け 勝率 ゲーム差 本塁 被本 盗塁 打率 防御率 失策
12 横浜 6 46 85 13 .351 41.0 66 97 61 .233 3.76 80
13 横浜 5 64 79 1 .448 23.0 132 153 54 .262 4.50 66
14 横浜 5 67 75 2 .472 14.5 121 130 76 .253 3.76 116
15 横浜 6 62 80 1 .437 14.5 112 113 57 .249 3.80 82
通算 4年 239 319 17 .428 93.0 431 493 248 .249 3.96 344