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関根 潤三



71
名前 せきね じゅんぞう
生年月日 1927年3月15日
経歴 日大三中−法政大−近鉄−巨人
入団年 82年に監督に就任
在籍年 82年−84年
背番号 82年−84年[71]
投打 左投げ左打ち
守備 外野手:投手
26年生まれ
1926年12月25日に3人兄弟の末っ子として生まれたが、届出の際に大正天皇崩御で役所が休んでおり、年をまたいだ事で父親が届出を失念してしまったため、戸籍上は翌1927年の3月15日生まれとなった。だがこれが幸いして26年生まれの多くの友達が戦争で亡くなったが、関根には召集令状がこないまま終戦を迎えることになった。また3人兄弟全員が野球をやっていたが、母親は子供が野球をやっている事を近所の人にバカにされていた事もあって「野球は不良のやること」と嫌っていた。

二刀流
二人の兄とは年齢が離れており、小学生時代に日大三中(現日大三高)で主将を務めた7歳年上の次男健二さんにくっついて日大三中の監督を務めていた藤田 省三さんの家に遊びに行っていた。その縁で日大三中に進学すると野球部に入ろうとしたが体が小さかったため藤田監督から「1年してから来い」と言われて2年生になってから野球部に入部した。入部すると左利きにもかかわらず二塁手をやらされたが投手で登板することもあった。

沢村
日大三中の4年時には同じ球場で練習していた巨人の沢村 栄治から「投げ方がいいね。素質があるからしっかりやりな」と声を掛けられた。また球界の仕掛け人と呼ばれることになる根本 陸夫とバッテリーを組んだが甲子園出場はならなかった。戦時中という事もあって法政大学では野球を続けるつもりは無かったが、栃木の川治温泉で玉音放送を聞き、「また野球が出来るかもしれない」と思いを新たにした。

六大学41勝
法政大でも根本とバッテリーを組んで史上5位の41勝30敗を記録。戦後初の試合には5番ライトで出場し3安打を放ち、3年秋には9勝1敗(9完投)を記録して法政大学を戦後初優勝に導いた。4年秋には六大学史上最多の133.1投球回を投げ抜くなど4年間で658イニングという驚異的な記録を残し、また打者としても中軸を打って93安打を放っている。4年の秋には戦後初めて行われた日米野球の東京六大学選抜戦で延長13回を完投したが2対4で惜しくも破れた。

近鉄入団
法政大を卒業後は八幡製鉄に入社予定で「セントラルとパシフィックの2つのリーグが出来るという話でしたが、僕には関係ないものと思っていた」とプロには興味がなかった。だが日大三中、法政大と関根の面倒を見てきた藤田 省三監督が近鉄の初代監督に決まり、藤田監督から「俺はプロへ行くから、お前も来い」と誘われた。藤田監督に心酔していた関根は「藤田監督に言われちゃ、しょうがねえな」と近鉄入りを決めた。なお根本も2年後に近鉄に入団している。

登板2試合目で肩を痛める
プロ野球をなめていたという関根は契約金を使って連日のように銀座で遊び続けて練習をしない日々を送った。卒業式も出ずに豪遊を続ける関根に堪りかねた藤田監督は電報を送って呼びつけたが関根が合流したのは公式戦開幕の10日ほど前だった。ほとんど練習をしないまま公式戦で先発したが練習不足が祟ったのか終盤に打ち込まれてしまうと、次の登板で肩を痛めて以後はストレートが走らなくなってしまった。変化球投手となった関根は期待された初年度を4勝12敗で終える事になる。だがその一方で129打数32安打で4本塁打、21打点を記録するなど打撃が認められて投手として26試合に登板する一方で、一塁手としても13試合に出場した。

エースが打者転向
53年には初の二桁となる10勝15敗を記録しオールスターにも選ばれた。翌54年には自己最多の16勝12敗で防御率2.44を記録。55年にも14勝16敗を記録し、56年も9勝11敗と結果を残したが、57年の開幕2戦目で自分の信じていた内角低めのストレートを完璧に打たれた関根は限界を感じて、かねてから首脳陣から要請されていた打者転向を決意。転向の条件として「クリーンナップでの起用」を上げた関根は翌日の試合に5番で起用されて3安打を放つと、その後も2安打、3安打と快打を続けて一時はリーグトップの打率も記録した。

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56年限りで高橋ユニオンズが解散となり、パシフィックリーグは57年から7球団になったが、大映の永田オーナーが7球団では日程が組みにくいということで同年に最下位になったチームを消滅させて6球団にしようと提案した。そして夏が終わろうかという頃になっても近鉄はまだ最下位にいた。球団消滅の危機に迎えた茶田監督は少ない投手陣を集めて「ぶっ壊れても、毎日いけるか」と聞いた。投手陣は「好きなように使ってください」と答えて連日連夜の登板を続けた、そのかいあって近鉄は最下位を脱出し、球団消滅の危機を乗り越えた。消滅したのは奇しくも最下位消滅を提案した永田オーナー率いる大映だった。

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近鉄は西鉄の大エース稲尾 和久を苦手にしていた。稲尾がデビューした56年に0勝3敗、翌57年には0勝6敗、58年には何と0勝12敗と稲尾のデビューから3年間一度も勝つことが出来なかった。59年も4月11日に敗れて22連敗。そんな中で迎えた5月10日の7回裏にパスボールで稲尾から勝ち越し点を上げたが、8回表に稲尾のツーベースをきっかけに追いつかれてしまう。試合はそのまま延長に入ったが、11回裏に無死一塁から関根が稲尾のヒザ元のスライダーを弾き返すと、打球はライト線に落ちるスリーベースとなってサヨナラ勝ち。ついに対稲尾の連敗を22でストップさせた。なお稲尾はその後に再び近鉄戦9連勝を記録している。

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59年には打率.291を記録して野手としてオールスターに選出され、投手、野手の両方でオールスターに選ばれた唯一の選手になった。(投手1回、野手4回)

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65年に巨人に移籍すると打率.241に留まったがONに次ぐ5番でも起用されるなど90試合に出場して初めての優勝を体験した。球団からは「もう1年」という打診があったが同年限りで引退すると、翌年の春にアメリカに飛んでヤンキースのキャンプ視察して指導方を学んだ。

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70年に広島の監督を務めていた根本に呼ばれて広島のヘッドコーチに就任。山本 浩二、衣笠 祥雄を始めとした広島黄金時代の主力たちを育て上げた。単身赴任で合宿所に住んだ関根は衣笠が夜遅く帰ってくると「さあキヌ、素振りでアルコールを抜くか」といって、合宿所前の道路で素振りをさせたという。

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82年に大洋の監督に就任すると現有戦力の掘り起こし、洗い直しをキーワードに
83年には優勝した巨人に勝ち越し、4年ぶりにAクラス。

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87年にヤクルトの監督に就任すると池山、広沢をはじめとする若手を鍛え上げて常勝チームへの基礎を作った。関根は選手時代から弱小チームに所属することが多かった事もあってか、戦力的に厳しいチームは3連敗しなければ1勝2敗でも良いという考えを持っており、3連戦の勝ち越しを狙って投手をつぎ込んで結果的にチームを潰す事は避けて、長期的にチームを育てることを重視した。

::
03年に殿堂入り。


初記録
初出場
初安打
初本塁打
初打点
初盗塁
記録達成日
1000安打




監督成績
160勝
203敗
27分
勝率.441
Aクラス1回


50 51 52 53 54 55 56 57 58 59 60 61 62 63 64 65
オールスター 5回


  打撃成績
チーム 試合 打数 得点 安打 二塁 三塁 本塁 塁打 打点 盗塁 盗刺 犠打 犠飛 四球 死球 三振 併殺 失策 打率
50 近鉄 63 129 15 32 2 0 4 46 21 1 0 1 - 5 2 14 1 1 .248
51 近鉄 52 89 4 23 3 1 0 28 11 0 0 0 - 3 1 3 0 3 .258
52 近鉄 69 99 7 31 5 0 1 39 16 0 0 0 - 4 0 3 0 0 .313
53 近鉄 42 85 10 27 3 3 0 36 7 0 0 0 - 4 0 2 2 2 .318
54 近鉄 56 97 10 25 2 0 1 30 10 0 0 2 1 13 1 6 1 4 .258
55 近鉄 54 91 11 25 1 1 0 28 9 0 0 2 3 12 0 11 3 1 .275
56 近鉄 59 82 11 22 1 0 1 26 15 0 0 3 1 3 0 5 0 0 .268
57 近鉄 125 429 47 122 16 2 6 160 39 8 7 5 0 40 5 28 6 1 .284
58 近鉄 59 213 21 54 10 1 1 69 17 1 0 3 1 16 1 20 1 0 .254
59 近鉄 116 412 49 120 17 9 5 170 38 4 3 5 0 30 4 32 5 5 .291
60 近鉄 112 390 44 110 16 1 2 134 32 0 0 6 3 25 5 22 10 8 .282
61 近鉄 128 435 51 123 18 1 9 170 49 4 4 7 5 34 2 26 10 6 .283
62 近鉄 126 465 66 144 18 4 9 197 49 4 2 3 3 33 5 34 5 0 .310
63 近鉄 144 506 73 150 26 1 12 214 66 6 4 4 2 61 5 34 12 2 .296
64 近鉄 122 357 28 81 10 0 5 106 25 1 2 4 3 22 6 27 9 1 .227
65 巨人 90 199 16 48 6 1 3 65 20 1 0 1 1 15 5 16 5 0 .241
通算 16年 1417 4078 463 1137 154 25 59 1518 424 30 22 46 23 320 42 283 70 34 .279


  投球成績
チーム 登板 完投 完封 勝利 敗戦 S 回数 安打 本塁 四球 死球 三振 暴投 ボーク 失点 自責 防御率
50 近鉄 26 8 0 4 12 - 148.0 185 16 53 7 69 1 1 110 90 5.47
51 近鉄 39 10 2 7 11 - 189.0 189 13 55 8 97 2 2 91 72 3.43
52 近鉄 39 7 1 5 16 - 173.2 170 10 52 5 78 2 2 77 68 3.52
53 近鉄 35 19 1 10 15 - 219.0 209 10 58 8 106 0 0 99 77 3.16
54 近鉄 35 19 3 16 12 - 232.0 174 20 57 4 118 0 0 75 63 2.44
55 近鉄 40 14 3 14 16 - 226.0 228 17 54 10 106 3 0 105 89 3.54
56 近鉄 28 10 2 9 11 - 152.1 132 6 29 2 66 0 0 64 50 2.94
57 近鉄 2 0 0 0 1 - 5.1 6 1 2 0 5 0 0 3 3 4.50
通算 8年 244 87 12 65 94 - 1345.1 1293 93 360 44 645 8 5 624 512 3.42


  日本シリーズ打撃成績
チーム 試合 打数 得点 安打 二塁 三塁 本塁 塁打 打点 盗塁 盗刺 犠打 犠飛 四球 死球 三振 併殺 失策 打率
65 巨人 3 3 0 1 0 0 0 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 .333


  オールスター打撃成績
回数 試合 打数 得点 安打 二塁 三塁 本塁 塁打 打点 盗塁 盗刺 犠打 犠飛 四球 死球 三振 併殺 失策 打率
通算 5回 11 9 0 1 0 0 0 1 0 0 0 0 0 2 0 4 0 0 .111


  オールスター投球成績
回数 登板 完投 完封 勝利 敗戦 S 回数 安打 本塁 四球 死球 三振 暴投 ボーク 失点 自責 防御率
通算 1回 1 0 0 0 0 - 2.0 2 0 3 0 1 0 0 0 0 0.00


  監督成績
チーム 順位 勝利 敗戦 分け 勝率 ゲーム差 本塁 被本 盗塁 打率 防御率 失策
82 大洋 5 53 65 12 .449 14.5 125 120 39 .250 3.92 90
83 大洋 3 61 61 8 .500 11.0 137 167 78 .272 4.52 83
84 大洋 6 46 77 7 .374 30.5 100 145 110 .263 4.55 84
87 ヤクルト 4 58 64 8 .475 19.5 159 159 30 .260 4.51 89
88 ヤクルト 5 58 69 3 .457 22.0 147 115 52 .246 3.79 84
89 ヤクルト 4 55 72 3 .433 28.5 140 135 76 .254 3.97 63
球団 3年 160 203 27 .441 56.0 362 432 227 .262 4.33 257
通算 6年 331 408 41 .448 126.0 808 841 385 .258 4.21 493