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小宮山 悟



27
名前 こみやま さとる
生年月日 1965年9月15日
経歴 芝浦工大柏高−早稲田大−ロッテ(89年1位)−横浜−メッツ−ロッテ
入団年 00年にロッテから移籍
在籍年 00年−01年
背番号 00年−01年[27]
投打 右投げ右打ち
守備 投手
野球始める
小学2年生で野球を始める。公園などで遊んだ草野球では捕手がいなかったため、空振りすると転がっていくボールを打者が追いかけなければいけないので、それが嫌でピッチャー役を率先して行った。自宅前の30センチほどの高さのブロック塀に壁当てをしてコントロールを磨いた。5歳の時に自宅の2階から落ちて24針を縫う大怪我を負ったが、病院で泣き叫んでいると医者から「クソガキ黙れ!助けてやってるんだから静かにしろ!」と怒鳴られた。小宮山はこれでめったなことでは痛いの痒いの言ってはいけない事を学んだという。

早慶戦
少年時代はプロを目指して野球を行っていたわけではなく、家が近いという理由で芝浦工大柏高へ進学。だが2年時に野球部の練習があったはずの土曜日になぜか家のテレビで早稲田対法政の試合を見た小宮山は六大学野球に興味を持ち、その後にテレビ観戦した早慶戦で神宮球場を埋め尽くす観客の熱気を見て早稲田大学への進学を熱望するようになった。

早稲田受験
早稲田大のセレクションに参加して高評価を受けたが一般入試で不合格となって浪人。予備校に通ったもののサボりがちだったという小宮山は翌年も不合格となって2浪となってしまった。その翌年もなかなか勉強に身が入らなかった小宮山だったが11月の全国模試で悲惨な結果に終わると一念発起。睡眠時間1〜2時間で勉強に集中して、ついに2年間の浪人を経て一般入試で早稲田大に合格した。

余生
早稲田では1年春の早慶戦から早くもベンチ入り。2年秋には早慶戦で完封勝利を達成して「残りの人生は全て余生だ」と思うほどの感激に浸った。同季には7試合に登板し3勝0敗で防御率1.29を記録して最優秀防御率を獲得。

早慶戦で涙
3年秋には早慶戦の第2回戦で二番手として登板、7回表に慶応の主砲大森を敬遠すると、1点をリードして迎えた9回表二死二塁でも大森を打席に迎えた。キャッチャーからは勝負のサインが出たが、4年生に早慶戦を勝って卒業して貰いたいと思っていた小宮山は首を振って敬遠を選択したが、キャッチャーのサインは変わらず、小宮山が何度も首を振っていると、マウンドに輪ができて4年生たちが「打たれてもいいから」と言ってくれた。小宮山は先輩の気持ちに涙を流しながら初志貫徹して大森を敬遠して早稲田を勝利に導いた。4年時には早慶戦だけで4勝を記録するなど春秋通算で9勝4敗を記録。通算20勝10敗、防御率1.85、165奪三振。

二桁勝利
89年のドラフトでロッテに1位指名されて入団。初年度にオープン戦で好投を続けてルーキー対象に選出されると、シーズンでも活躍を続けて6勝10敗で防御率3.27という好成績を残す。翌91年には開幕投手を任されて10勝16敗、防御率3.95で二桁勝利を達成。92年には千葉マリンに移転したロッテで2年連続の開幕投手を任されたが8勝15敗、防御率3.96に留まった。93年には開幕から6試合連続完投勝利という日本記録を達成したが、そこから6連敗を喫するなど12勝14敗と4年連続で負け越しとなった。

エース
94年には4年連続となる開幕投手を任されたが5月に肘を痛めた事もあって3勝9敗、防御率4.24に終わってしまう。95年には同年から就任したバレンタイン監督のもとで9年連続Bクラスだったロッテが生まれ変わり2位と大躍進。共に来日したピッチングコーチのトム・ハウスと体への負荷が少ない合理的なピッチングフォームを作り上げた小宮山はエースとして11勝4敗で防御率2.60という素晴らしい成績を記録した。

最優秀防御率
97年には11勝9敗で防御率2.49という好成績を挙げ最優秀防御率に輝いた。また「生涯のベストピッチ」と振り返る10月6日のオリックス戦では持ち味のコントロールがさえわたって8回まで2安打、無四球という完璧なピッチングを見せた。

1−7
98年は4月に4勝を上げて月間MVPを獲得する活躍を見せてチームも首位で4月を終えた。だが5月に調子を落としたロッテは5位に転落してしまうと、6月13日のオリックス戦で小宮山が5失点でKOされると、続く近鉄3連戦で3タテを食らってしまい、続く日本ハム戦では小宮山が先発したが守備に足を引っぱれて5連敗。そして翌日からはストッパーに指名された黒木が2試合連続で逆転を許し7連敗となった。

8−10
6月26日の近鉄戦、チームの連敗は9にまで伸びていた。先発した小宮山は熱投を見せて、10イニングを投げて8安打を打たれながら鈴木のソロのみに抑えて、同点のまま黒木にマウンドを譲った。だが黒木がまたしてもつかまり、ついに10連敗となってしまった。

11−17
13連敗で迎えた7月3日ダイエー戦。先発した小宮山は9回を投げ抜いて、自責2に抑えながら、またも守備に足を引っぱられて敗戦。翌日にはチーム全員で御祓いを受けたが、それでも止まらず7月5日にはついに日本タイ記録の16にまで連敗は伸びた。新記録がかかった7月7日のオリックス戦では先発に再転向した黒木が素晴らしいピッチングを見せて3対1とリードしたまま9回裏に入ったが、黒木は二死一塁ツーストライクからプリアムに同点ツーランを打たれてしまう。黒木はマウンドに膝をつき立ち上がれず、試合は延長12回裏に代打広永にサヨナラ満塁ホームランを打たれて17連敗の日本新記録が達成された。

18−
翌日も敗れたロッテは18連敗と記録を更新した。7月9日オリックス戦、ほぼ一ヶ月間負け続けるという異常事態を止めるためにロッテ打線は爆発し、5回までに9得点を上げて9対1と大量リードした。だが「なにかに憑かれているかのようだった」という先発の小宮山が6回裏に5点を失い3点差にまで迫られてしまう。普通ならリリーフを送る場面だったが、首脳陣はエース小宮山と心中を決意し続投を決断。小宮山はオリックス打線に14安打を打たれながら完投し9対6で逃げ切り、小宮山で始まった大連敗は小宮山自身が断ち切った。

横浜移籍
98年のオフには契約更改の席で球団改革が進まなければ翌年に取得するFAで移籍することを伝えた。小宮山は前年オフにもフロントに裏方の待遇改善などの4か条を要望するなどしていたが、小宮山の納得する形にはならず、99年には7勝10敗、防御率4.07と今一つの成績に終わり、球団にFA権を行使する事を伝えると、まさかの戦力外通告を受けて横浜に移籍した。

移籍後初登板
移籍後初登板となった4月4日の広島戦ではストレート中心の配球で初回の前田から6者連続三振を記録すると2巡目からは一転して変化球を多投して広島打線を翻弄。8イニングを7安打、無四球で1失点に抑えて奪三振は11という最高の形で横浜デビューを飾った。オールスター前までに8勝4敗という素晴らしい成績を残したが、後半戦に入ると全く勝てなくなり7連敗でシーズンを終了してしまった。

二軍降格
01年には開幕投手を任されたが5回も持たずにKOされた。その後も不調が続きで4月13日に二軍に降格した。二軍はほとんどがデーゲームのため、日が落ちないうちに家に帰れるようになった。すると末娘が「パパ、お仕事ないの?よその家のパパは働いてるよ」と聞いてきた。小宮山はこの言葉で、自分が戦う気持ちを忘れていたことに気づいたという。

連敗ストップ
5月4日に一軍復帰を果たすと、5月5日の巨人戦で6回1失点の好投でチームの勝利に貢献。5月24日広島戦で8回無失点の好投で自身の連敗を10でストップさせると、6月1日の阪神戦では1失点完投勝利。6月9日の中日戦では10安打を打たれながらも完封勝利を達成と、今までの分を取り戻すかのように勝ち続け、同年に自身最多タイとなる12勝をあげた。

MLB挑戦
02年にはFAを宣言してバレンタイン監督が指揮を執るニューヨーク・メッツに移籍。25試合に登板したが勝ち星は挙げることが出来ず1年限りで退団した。小宮山はこの頃を振り返ってメジャーでプレイできる事をご褒美と思って毎日を楽しんで一生懸命に出来なかったことを後悔していると語っている。

奇跡
03年は獲得に乗り出す球団がなかったため解説者になったが小宮山は現役への道を諦めずに母校でトレーニングを続けながら復帰の日を待った。すると04年にバレンタイン監督が再就任したロッテからオファーが来て入団。記者会見で小宮山は「奇跡が起きたことをご報告いたします」と喜びを語った。

シェイク
05年にはナックルに近い新球種シェイクを開発。千葉マリン球場特有の風を利用して変化させるため他球場では使えない上に、投球フォームが全く変わってしまうという大きな欠陥があるため実戦では使い物にならなかった。5月14のヤクルト戦との交流戦では1対11と大量リードされた9回にヤクルトの古田相手にシェイクを投げて観客を喜ばせた。06年になるとシェイクと同じフォームから投げるストレートをフェイクと命名した。

44歳で引退
44歳になる09年まで現役を続けた。同年の10月6日に行なわれた引退試合では5対2とリードした9回表の二死二塁からマウンドに上がると楽天の代打セギノールをライトフライに打ち取って44歳と21日という最年長セーブを記録した。引退セレモニーでは両親、チームそしてバレンタイン監督に感謝の言葉を述べると、ファンには「またいつかこのユニホームを身にまとい、この場所に戻って来られる日が来ることを願って引退の挨拶に代えたいと思います」と約束して大歓声を浴びた。3人の子供が花束を持って登場すると、小宮山は一塁ベンチを指差して、同じく同年限りでロッテのユニホームを脱ぐバレンタイン監督に花束を贈った。

::
プロ野球の浪人生となった03年から早稲田大学大学院の人間科学研究科に所属し、スポーツ科学研究科が開設されると投球フォームに関するバイオメカニクスを専攻した。解説者や造詣の深かったサッカー・Jリーグの理事にも就任、18年の9月5日には早稲田大学の野球部監督への就任が発表された。


初記録
初登板 90年4月12日日本ハム戦
初勝利 90年5月2日近鉄戦
初奪三振 90年4月12日日本ハム戦:中島から
初セーブ
初完投 90年7月5日日本ハム戦
その他の記録
月間MVP 90年9月:93年4月:97年8月:98年4月
記録達成日
100勝
1000奪三振 98年4月4日
1500投球回 98年7月15日


90 91 92 93 94 95 96 97 98 99 00 01 04 05 06 07 08 09
最優秀防御率 1回
オールスター 7回


  投球成績
チーム 登板 完投 完封 勝利 敗戦 S 回数 安打 本塁 四球 死球 三振 暴投 ボーク 失点 自責 防御率
90 ロッテ 30 6 2 6 10 2 170.2 159 22 63 4 126 5 0 70 62 3.27
91 ロッテ 29 15 1 10 16 0 212.0 219 28 80 5 130 3 0 104 93 3.95
92 ロッテ 29 9 1 8 15 0 172.2 187 11 64 6 124 3 0 86 76 3.96
93 ロッテ 27 14 0 12 14 0 204.1 193 14 71 12 160 6 0 90 78 3.44
94 ロッテ 14 3 2 3 9 0 85.0 81 10 28 3 67 3 0 48 40 4.24
95 ロッテ 25 6 1 11 4 0 187.0 150 11 53 5 169 2 0 60 54 2.60
96 ロッテ 25 2 0 8 13 0 154.2 192 17 39 5 90 4 0 86 78 4.54
97 ロッテ 27 3 2 11 9 0 187.2 186 8 30 2 130 7 0 62 52 2.49
98 ロッテ 27 10 2 11 12 0 201.2 224 20 27 5 126 2 1 101 80 3.57
99 ロッテ 21 4 0 7 10 0 141.2 158 19 15 1 96 3 0 74 64 4.07
00 横浜 26 5 3 8 11 0 161.1 166 24 37 0 108 3 0 72 71 3.96
01 横浜 24 6 3 12 9 0 148.2 150 9 30 8 74 2 0 55 50 3.03
04 ロッテ 18 0 0 3 4 0 81.0 95 15 21 4 47 1 1 49 47 5.22
05 ロッテ 23 0 0 0 0 1 40.1 52 5 5 0 22 0 0 20 17 3.79
06 ロッテ 24 0 0 0 2 0 35.0 40 2 6 0 15 0 0 18 18 4.63
07 ロッテ 41 0 0 3 1 0 56.1 65 2 12 2 24 1 0 29 25 3.99
08 ロッテ 33 0 0 3 2 0 39.1 48 5 9 2 18 0 0 29 25 5.72
09 ロッテ 12 0 0 1 0 1 13.2 24 2 1 2 7 0 0 15 15 9.88
球団 2年 50 11 6 20 20 0 310.0 316 33 67 8 182 5 0 127 121 3.51
通算 18年 455 83 17 117 141 4 2293.0 2389 224 591 66 1533 45 2 1068 945 3.71


  打撃成績
チーム 試合 打数 得点 安打 二塁 三塁 本塁 塁打 打点 盗塁 盗刺 犠打 犠飛 四球 死球 三振 併殺 失策 打率
90 ロッテ 33 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 2 .000
91 ロッテ 31 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 3 .000
92 ロッテ 29 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 .000
93 ロッテ 27 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 2 .000
94 ロッテ 14 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 .000
95 ロッテ 25 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 2 .000
96 ロッテ 25 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 4 .000
97 ロッテ 27 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 3 .000
98 ロッテ 27 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 4 .000
99 ロッテ 21 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 1 .000
00 横浜 28 50 0 3 0 0 0 3 3 0 0 7 1 0 0 24 2 2 .060
01 横浜 25 50 3 5 1 0 0 6 4 0 0 2 0 0 0 23 1 1 .100
04 ロッテ 18 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 .000
05 ロッテ 23 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 .000
06 ロッテ 24 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 .000
07 ロッテ 41 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 1 .000
08 ロッテ 33 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 2 .000
09 ロッテ 12 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 .000
球団 2年 53 100 3 8 1 0 0 9 7 0 0 9 1 0 0 47 3 3 .080
通算 18年 463 100 3 8 1 0 0 9 7 0 0 9 1 0 0 47 3 27 .080


  プレーオフ投球成績
チーム 登板 完投 完封 勝利 敗戦 S 回数 安打 本塁 四球 死球 三振 暴投 ボーク 失点 自責 防御率
07 ロッテ 2 0 0 0 0 0 4.1 7 2 0 0 1 0 0 2 2 4.15
通算 1年 2 0 0 0 0 0 4.1 7 2 0 0 1 0 0 2 2 4.15


  プレーオフ打撃成績
チーム 試合 打数 得点 安打 二塁 三塁 本塁 塁打 打点 盗塁 盗刺 犠打 犠飛 四球 死球 三振 併殺 失策 打率
07 ロッテ 2 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 .000
通算 1年 2 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 .000


  オールスター投球成績
回数 登板 完投 完封 勝利 敗戦 S 回数 安打 本塁 四球 死球 三振 暴投 ボーク 失点 自責 防御率
通算 7回 8 0 0 1 1 0 16.1 17 0 3 1 14 0 0 3 3 1.65


  オールスター打撃成績
回数 試合 打数 得点 安打 二塁 三塁 本塁 塁打 打点 盗塁 盗刺 犠打 犠飛 四球 死球 三振 併殺 失策 打率
通算 7回 8 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 .000


  MLB投球成績
チーム 登板 完投 完封 勝利 敗戦 S 回数 安打 本塁 四球 死球 三振 暴投 ボーク 失点 自責 防御率
02 メッツ 25 0 0 0 3 0 43.1 53 7 12 3 33 1 0 29 27 5.61
通算 1年 25 0 0 0 3 0 43.1 53 7 12 3 33 1 0 29 27 5.61


  MLB打撃成績
チーム 試合 打数 得点 安打 二塁 三塁 本塁 塁打 打点 盗塁 盗刺 犠打 犠飛 四球 死球 三振 併殺 失策 打率
02 メッツ 22 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 1 0 1 0 1 0 0 .000
通算 1年 22 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 1 0 1 0 1 0 0 .000


  二軍投球成績
チーム 登板 完投 勝利 敗戦 S 回数 安打 本塁 四死 三振 失点 自責 防御率
01 横浜 1 0 0 1 0 7.0 10 2 3 5 9 9 11.57
通算 1年 1 0 0 1 0 7.0 10 2 3 5 9 9 11.57
球団在籍時のみ