:剣道:
近藤は高槻中学時代から右ひざに水がたまる持病に悩まされていた。このひざを直そうと近藤の母親は和彦を剣道をやらせた。剣道で面を打つときの前後運動が膝にいいだろうと考えたらしい。
:ポジションは代打:
平安高校時代には、投手をやりたいと監督に申し出たが、希望は叶えられず近藤は代打専門で3年間を過ごした。明治大学に入ったときにも「ポジションは?」と聞かれて、「代打専門で、ポジションはありません」と答えている。このときはまだ天秤打法ではなく、大下や、与那嶺に憧れてバットを立てて構えていた。明大では2年春、3年春、4年春と3度のベストナインに輝いた。
:天秤打法誕生1:
58年2月16日、大洋に入団し鹿児島キャンプに来た近藤は宿舎の錦港旅館で夜食を食べ終えると、大鏡の前で素振りを行っていた。そこに通りかかった青田が30秒ほど素振りを見てから「相撲とろうや」と持ちかけてきた。身長では近藤が15センチも上回っていたが青田の上手投げで近藤は投げ飛ばされた。すると青田が「大下は手首が無類に強かった、与那嶺もアメリカンフットボールをやっていたから、凄い筋力を持っていた。お前みたいな非力なやつがそんな構えじゃプロのボールに負けるぞ、もっと速い球をどう打つか工夫してみろよ」と近藤はキャンプ初日に打撃フォームを否定されてしまった。
:天秤打法誕生2:
左肘に痛みがあったこともあって近藤は打撃フォーム変更を模索し、斜めにしてみたり、立ててみたりしてるうちに、何気なくバットで剣道の面を打ってみた。すると近藤は「これだ!」と閃いた。面の素振りは両手を15センチほど離して構える、これが以外にバットでもスムーズに行える。次に近藤は「剣道の面は上下の素振りだ、これをどうしたら野球の地面に水平な素振りにするか?」と考え、両手を15センチ離しながら、バットを横に寝かせて、頭上で軽く上下させてみると、楽にバットが振れたため、青田に否定されてから3日間で天秤打法は生まれた。
:新人王ならず:
ルーキーイヤーは打率270、自己最高の13本塁打を放った、新人として申し分のない成績だが、同期に二冠王の長嶋がいたため新人王を逃した。
:サヨナラ:
60年7月17日ダブルヘッダー第二戦巨人戦、大混戦のセリーグで首位戦線にとどまっていた大洋だったが7月15日から始まった巨人4連戦で3連敗を喫してあとのない4戦目を迎えていた。試合は島田、秋山という両エースの奮闘もあって2対2で9回裏に入った。そして一死ランナーなしで打席に入った近藤は巨人の堀本の内角ストレートを振りぬき、ライトスタンドにサヨナラホームランを叩き込んだ。三原監督は「チームにとって最大のピンチを救った」と近藤を褒め称えた。近藤は三原監督が退場となった7月31日中日戦でもサヨナラヒットを放っている。
:初優勝:
60年は首位打者は同期の長嶋に譲ったが打率.316で初優勝に貢献した。
:サイクルヒット:
61年7月8日阪神戦ではヒット、二塁打、三塁打を放って迎えた第五打席にホームランを放ち見事にサイクルヒットを達成した。
:快速鈍行列車:
明大時代からのニックネームは「ドンコ」、最初は近藤を逆さから呼んだ「ウドンコ」だったが、近藤のあまりの足の遅さに、鈍行列車にかけて「ドンコ」になった。それほど足は遅かった近藤だが、それがなんと61年には35盗塁で盗塁王を獲得した、友人に「何の賞をもらったんだい?」と聞かれるたびに「それが妙な話、盗塁王なんだ」と近藤は照れた。
:MVP:
63年オールスターゲームでは稲尾から球宴史上初のサヨナラ本塁打を放ちMVP。またオールスターでは60年の第三戦から、64年の第一戦まで9試合連続ヒットという記録も打ち立てた。これは00年位イチローに抜かれるまで日本記録だった。
:幻のサヨナラ:
66年5月10日阪神戦では3点をリードされて迎えた9回裏に伊藤のツーランを放って追い上げると、続く重松がレフトスタンドに運んで同点に追い付いた。そして続く近藤和もバッキーから三者連続ホームランとなる左翼ポール直撃のサヨナラアーチを放った。大歓声の中ホームインしてベンチに帰ると新聞記者に囲まれてインタビューが始まった。そこに三原監督がやってきてこう言った「和よ、やりなおしだ。」、実は近藤がホームランを打つ直前にライトスタンドの大洋ファンが空き瓶が投げ込んだためタイムがかかっていて、サヨナラホームランが取り消しになっていた。近藤が打ち直した打球はピッチャーゴロに終わり、試合も負けてしまった。
:打率2位:
60年、61年と首位打者争いで長嶋に破れ続け、打率2位に甘んじた、62年は長嶋には勝ったものの森永に破れ、またしても2位で歴代唯一の3年連続打率2位を記録。さらに67年には中日の中、巨人の王との熾烈な争いの末、最終戦の対中日ダブルヘッダーで中と直接対決になり、2試合で中が8打数6安打、近藤が8打数1安打でまたも2位に終わった。
:単打王8回:
近藤は通算1736安打を放ったが、内訳としては実に8割近くの1387安打が単打で、最多安打は1度だが最多単打はプロ野球史上歴代1位の8回獲得。1本のバット折らずに4年間使ったことさえあるという。
:グラブ:
近藤は外野を守ったが、試合中に外野から一塁に回されることもよくあった。そんなとき近藤は「グラブから、急にミットに変えると重く感じるんです」と言って外野グラブをファーストミットに変えることもなく一塁の守備ついた。プロ野球史上グラブでファーストを守ったのは近藤だけである。
:「涙」の引退:
近藤は73年に引退したが引退の理由も聞かれると、「涙なんですよ、投手の動作を20秒、25秒とまばたきしないで見ていると、涙で投手が見えなくなる。最後の一年は近鉄に移籍しましたが、そこで決めたんですね。」、絶頂期には90秒まばたきしないで耐えられた。それが30秒耐えられなくなった時に、近藤は自らの老いを感じバットを置いた。
:ベストナイン7回:
タイトルこそ少ないが球団記録のベストナイン7回が示すように、その能力の高さは折紙付で最多安打、盗塁王、最高守備率2度と走、攻、守、全てにすぐれた職人であった。 |
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