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村田 修一



25
名前 むらた しゅういち
生年月日 1980年12月28日
経歴 東福岡高校−日本大学−横浜(02年D自由枠)−巨人
入団年 02年ドラフト自由枠
在籍年 03年−11年
背番号 03年−11年[25]
投打 右投げ右打ち
守備 内野手
投手村田
小学校3年時に野球を始めて、中学時代はボーイズリーグの粕屋フェニックスで1年時にセカンド、2年時にキャッチャー、3年時にはエースで4番を任された。3年春のセンバツにエースとして始めて甲子園に出場したが3回戦で松坂を擁する横浜高校に破れた。夏の甲子園大会では初戦で横浜で同僚となる古木を擁する豊田大谷高校と対戦。投手だった村田は古木に先制タイムリーを打たれて、チームも4対6で敗れてしまった。

打者村田
もともとプロ志望が強かった村田だが、松坂を見て「こんな凄い投手がいるなら、ピッチャーでは無理、やるなら野手で」と心に決めていた。村田には多数の大学から誘いがあったが、どこも投手村田と野手村田の両方を評価しての誘いだった。そんな中【野手村田】を評価した、日本大学の鈴木監督に惹かれ、村田は日大に入学した。

横浜入団
日大では1年春から三塁でレギュラーになり、3年生の秋のリーグ戦ではゲーム2本塁打を2度記録するなど井口 資仁に並ぶ東都シーズン最多本塁打8本を記録した。4年間で歴代6位タイの通算103安打、2位タイの20本塁打をマーク。村田には多数のプロから声がかかったが、いち早く自由枠での獲得提示した横浜に入団した。

2月で14本塁打
オープン戦では54打数24三振と大不振だったが、4月1日巨人戦のプロ初打席で桑田から初ヒットを記録すると、翌日には高橋尚から初本塁打を放ってレギュラーを獲得、4月だけで7本塁打を放つと、翌月にも7本塁打を放ちウッズと共に本塁打王争いを引っ張った。

急転直下
5月13日巨人戦では真田から10号本塁打を放ち、球団史上3人目の新人10号本塁打をわずか36試合で達成した。これはドラフト制度後としては石毛、清原らを上回る最速記録で、新人記録のシーズン31本塁打を超えるペースだった。だが5月28日の阪神戦で13号、14号を連発したのを最後に翌日からは75打数9安打と大スランプに落ち入り、7月18日に出場選手登録抹消となった。

新人新記録
湘南降格後も調子の上がらない村田だったが、8月5日の社会人サンワード貿易と交流戦で、5打数で2本塁打を含む4安打の大爆発、以後も徐々に調子を上げて8月19日に一軍復帰。すると9月には長嶋 茂雄の持つ新人月間最多本塁打記録9本を塗り替える10本塁打を放ち、打率.306、打点23で、セ・リーグの新人野手では史上初となる月間MVPにも輝いた。

骨折
9月26日広島戦で大竹から25号本塁打を放ち、桑田、清原が持つ新人本塁打記録31本も見えてきたが、9月28日のヤクルト戦で石堂から受けた死球で右手尺骨を骨折して大記録達成はならなかった。だが新人25本塁打はプロ野球史上6位という申し分のない数字であった。

猛攻の中
04年8月21日中日戦。1対2と1点のリードを追う4回裏一死ランナーなし、打席に入った村田は野口のインハイのストレートを見逃して三振に倒れた。だがここから横浜の猛攻は始まった。鶴岡がヒットを打つと、ピッチャーのセドリックもヒットで続き、石井が四球、種田がタイムリー、そしてここから佐伯、ウッズ、多村のクリーンナップが3者連続ホームラン!6番の金城もヒットを打って7連打となった。そしてここで村田がこの回2度目の打席に入った。村田は代わった山井に簡単に追い込まれると、3球目を見逃してなんと1イニング2見逃し三振に倒れた。

歴史的一打
ついに05年から始まった交流戦。その第一戦となった5月6日のロッテ戦は三浦、清水の両エースによる素晴らしい投手戦になった。6回終わってともに2安打で0行進、試合が動いたのは7回表、三浦がフランコにライトスタンドに運ばれてロッテが1点を先制。試合はそのまま9回表が終わって、このまま完封負けかと思われたが9回裏に一死満塁のチャンスを作り村田が打席に入った。村田は小林雅の4球目のストレートを叩くと、打球は三遊間を破る人生初のサヨナラタイムリーとなった。お立ち台に上がった村田は「やりましたぁあ!」と絶叫した。

村田デー
05年8月13日ヤクルト戦。試合は村田が日本大学時代の同級生である館山から先制ソロを放つなど、8回終わって2対1とリードしていた。だが9回表に守護神クルーンが自らのエラーなどでピンチを招くと、岩村に2点タイムリーを打たれて逆転を許した。悪夢の敗戦が目前に迫っていたが、9回裏に粘りを見せる横浜は一死一、二塁のチャンスを作り、村田が打席に入った。村田は狙っていたという石井のスライダーを叩くと、打球は左中間を抜ける逆転サヨナラタイムリーとなった。お立ち台に上がった村田は「最高の形で皆様に挨拶できて、とても光栄に思います」

サヨナラアーチ
06年6月9日のオリックス戦は7回が終わって0対5と一方的な展開で打線は平野の前に手も足も出なかった。だが8回裏に4安打を集中して追い上げると、村田の犠牲フライでついに5対5の同点に追いついた。9回表には二死一、二塁から村田がサードゴロを後逸してしまったが、レフト内川が好返球でホームで封殺して事なきを得ると、延長10回裏に一死一塁で打席に入った村田はライトスタンドに自身初のサヨナラホームランを運んで試合を決めた。お立ち台に上がった村田は「守備ではトリックプレーを見せて、皆様の寿命を縮めてすいませんでした」と謝った。

4番
06年は6月1日から4番に座って、シーズン通して勝負強い打撃を見せた。ホームランと打点は共に日本人リーグトップの34本塁打、114打点で中でも打点はシーズンの終盤までウッズとタイトルを争った。サヨナラ打も3本放ち、不安だった守備でも再三ファインプレーを見せるなど攻守に大きく飛躍した一年となった。

ホームラン王へ
07年は開幕から安定感のあるバッティングを見せた。前年はチーム新の153三振で、39四球という荒いバッティングだったが、一変して粘り強く四球を選び、繋ぎの意識が高まった。本塁打こそ7月終了時点で15本と今ひとつだったが、我慢が実を結んだのか、8月に8本、9月9本と2月連続してリーグトップの本塁打を記録し、一躍ホームラン・キングが見えてきた。

引退試合
10月4日のヤクルト戦では8回裏に引退試合の鈴木 健が打ち上げたファールフライをわざと捕球せずに喝采を浴びた。鈴木 健が15球目をセンター前に弾き返して花道を飾ると、村田は9回表に35号を放ちついにリーグトップに並んだ。

引退試合2
10月6日広島戦では9回裏二死からマウンドに上がった引退試合の佐々岡と対戦。村田はカウント1−3から佐々岡が投じたボール気味の高めのストレートをレフトスタンドに弾き返して単独トップに立った。村田は「辛かった。打って辛いと感じる本塁打は今日が初めてです」と答え、試合後には涙をにじませて佐々岡に謝ったが、真剣勝負を希望していた佐々岡は「打ってくれて吹っ切れたし、悔いはないよ」と答えた。この1本が決め手になって村田は初の本塁打王を獲得した。

2年連続キング
08年は4月に6本、5月に8本、6月に5本と本塁打を量産。7月には球団タイ記録の5試合連発を放つなど11本塁打、打率.396、24打点という大爆発で月間MVPを獲得すると共に球団史上初の球宴前30本塁打を達成した。だが風邪をおして出場した北京五輪では攻守に精彩の無いプレーが続いて散々な結果に終わった。それでも帰国後の9月には打率.385、9本塁打、20打点と再び月間MVPを争う活躍を見せた。終盤にはラミレスとの激しい本塁打王争いを繰り広げ、最終戦で球団記録を更新する46号を放って2年連続の単独本塁打王に輝いた。

WBC
09年に行なわれた第2回WBCでは初戦の第1ラウンドゲームの中国戦でツーランホームラン、ゲーム4の韓国戦では日本の4番に座ってスリーランを放つ大活躍を見せて北京五輪の雪辱を果たした。アメリカラウンドに移ってもキューバ戦で犠牲フライとタイムリーを放つなど活躍したが、ゲーム6の韓国戦でこの日2本目のヒットを打って一塁ベースを回る直前に右太ももの肉離れを起こして無念の負傷帰国となった。

復帰も、再び故障
全治6週間との診断だったが、約一ヶ月間で一軍復帰を果たすとオールスター開けの初戦となる7月28日の阪神戦で球団史上最速の846試合で通算200号を達成を放った。だが8月7日の中日戦で今度は左足の太ももを痛めて登録抹消。シーズン終盤には復帰したが93試合出場に留まった。だが規定に届かない369打席で25本塁打、69打点と出場試合では結果を残した。また5月13日の巨人戦では同点で迎えた9回裏一死満塁に打席に入ると、豊田が投じたインコースがダボダボのユニホームにかすってサヨナラ死球を記録した。

全試合出場も
10年は怪我予防のために減量して開幕を迎えたが打率2割台前半という絶不調に陥ってしまう。8月に21試合連続ヒットを記録するなど月間打率.327、8本塁打、24打点という好成績を残して数字を上げたが、9月には再びスランプにはまると。9月30日の阪神戦では4回表に同点ソロを放つと、9回表に藤川球児から逆転スリーランを放って劇的な勝利を飾ったが、その数時間後に球団の身売り報道が流れて印象が薄くなってしまった。同年には全試合に4番でスタメン出場を果たしたが、打率.257で26本、88打点という成績に終わった。

全力疾走
11年の開幕戦では第1打席で先制タイムリーを放つと、第2打席はセカンドゴロに倒れたが一塁へ全力疾走を見せて観客を驚かせた。第3打席には左中間よりのセンター前ヒットで一気に二塁を奪う好走塁を見せて、前年まで指摘されていた全力で走らないというイメージを一変させた。その後も全力疾走を続けてチームを鼓舞し、自身も3割近い打率をキープするなど前年とは変わって素晴らしいスタートを切った。

チーム批判
意識改革が見られた村田だったが、チームの借金が重なってくると7月1日から5試合連続で先発投手を批判するなどチームへの不満を隠し切れなくなり、それに合わせるように村田の成績も急降下、7月は打率.209で1本塁打、8月は打率.194で1本塁打という不振に陥った。シーズン最終戦となった10月22日の巨人戦では2本塁打を放って通算250号と7年連続20本塁打を達成したが、その試合も石川のエラーからピンチを招くと最後は山口が長野に逆転サヨナラ満塁ホームランを打たれて敗戦となり、同年のオフにFAで巨人に移籍した。

巨人移籍
移籍初年度は5番サードで開幕したが4月終了時点で打率.244、1本塁打という今一つの成績に終わってしまう。だが初めて4番で起用された5月1日の広島戦で猛打賞を記録すると同月には全試合4番で起用されて月間打率.307、3本塁打という好成績を残す。その後も6月9日の西武戦でサヨナラヒットを放つなどますまずの成績を残していたが、夏場に入る頃から不振となり8月2日に4番降格となった。

不振
8月に入っても成績は上向かず、勝てばマジックが点灯となる16日の中日戦では7回表に送りバントを命じられたが失敗してピッチャーゴロ併殺に倒れるなど徐々にチームからの信頼感も失ってしまう。9月7日のヤクルト戦では空振り三振とサードゴロ併殺に倒れた所でベンチに下げられたうえに試合中に帰宅を命じられた。村田は自らバリカンで頭を丸めて翌日の試合に現れたが、その後も結果は残せず9月18日の第5打席からは実に11試合に渡って27打数連続ノーヒットを記録するなど打率.252、12本塁打、58打点という寂しい成績に留まった。

ベストナイン
村田の不振にもかかわらず巨人が2位に10.5ゲーム差をつけて優勝したことから、村田は優勝受取人というありがたくない異名で呼ばれるなど苦しい時期を味わったが、初めての出場となったクライマックスシリーズでは日本シリーズ進出を決めた第6戦でホームランを含む3安打を放つなど活躍した。また他球団のサードが軒並み不振であったり、複数ポジションを守っていたこともあって自身2度目のベストナインに選出された。

2ヶ月連続月間MVP
13年は開幕から安定した活躍を続けて首位を快走するチームを引っ張ると、夏場に内川やラミレスを参考にしてグリップを低く構える打撃フォームを変更すると、7月に球宴前の阪神との首位攻防戦で初戦でソロを含む3打数3安打4打点を放つなど月間打率.406、4本塁打、20打点で月間MVPを獲得。8月にはさらに状態を上げて月間打率.422、10本塁打、27打点、月間46安打と32得点はリーグ新という驚異的な活躍を見せて2ヶ月連続で月間MVPに選出された。シーズン終盤には数字を落としたが全試合に出場して打率.316、25本塁打、87打点、自身初のゴールデングラブという好成績でチームのリーグ制覇に貢献した。

特大弾を放つも
14年は4月9日の広島戦でプロ野球史上でも指折りとなる特大弾を東京ドームのレフトスタンドの看板よりさらに上の天井に運び、4月29日のヤクルト戦ではサヨナラヒットを放つなど印象的な活躍も見せたが打率.256、21本塁打、68打点に留まると、翌15年には右太ももの肉離れなどの故障に苦しんだこともあって7月9日まで打率.222で3本塁打、打点は193打席でわずか9という崖っぷちまで追い込まれたが、20試合連続打点なしで迎えた7月10日の阪神戦でメッセンジャーから逆転ツーランを放つと、お立ち台では「久しぶりに息子たちが来ていたので、良い姿を見せられてよかった。いつも…。いつも『パパのホームランが見たい』と言ってくれる息子の前で打ててよかった」と涙ながらに語った。

節目で本塁打も
前半戦の最終戦となった7月15日の横浜戦では2対2で迎えた9回裏の守備でロペスのサードゴロを後逸するサヨナラエラーを犯して古巣の前半戦首位ターンに貢献してしまうと、7月31日の中日戦で巨人の東京ドーム通算1000勝を引き寄せる勝ち越しスリーラン、巨人の通算10000試合目となる8月5日のヤクルト戦で2本塁打を放つなどチームの節目では華々しい活躍も見せたが、規定打席に届かない370打席で打率.236、12本塁打、39打点というキャリアワーストの成績にに終わってしまった。

震災
16年はオープン戦で19歳の岡本とスタメンを競わされるなど厳しい立場に追い込まれた。岡本が今一つの成績に終わった事もあって開幕スタメンとなったが18試合が経過しても打点3と好結果を残すことができなかった。だが4月14日に地元九州に大きな被害を残した熊本地震が発生し、実家が半壊した父親の裕文さんから「私たちのことはいいから野球にして」というメッセージが届くと、16日に黒田から同年の1号となる勝ち越しソロ、17日には三塁線の打球を横っ飛びで好捕する好守に8回裏の勝ち越しタイムリーと男気を見せてお立ち台に上がった。

ハマスタで1000打点
5月8日の中日戦ではバルデスが打ち上げたサードファウルフライをエキサイトシートに飛び込みながら好捕、6月15日の楽天戦ではチームの連敗を5で食い止めるサヨナラヒット、25日の横浜戦では横浜スタジアムのレフトスタンド最上段に特大の同点ツーランを放って史上43人目の1000打点を達成と攻守に活躍。横浜の猛追で2位が危うくなってきた9月27日の中日戦では延長10回裏にサヨナラ満塁ホームランを放って2位キープを決定づけた。5月以降は常に3割前後の打率を記録し、7月以降には18本塁打、62打点を積み重ねてチームトップの25本塁打、81打点と復活を印象付けるシーズンとなった。

横浜とのCS
古巣横浜とのCSファーストステージは横浜が球団史上初のCS進出だった事もあって東京ドームが横浜ファンで埋まり、ほぼ同数の巨人ファンと応援合戦を繰り広げ、球史に残るほどの盛り上がりを見せた3試合となったが、村田は初戦から再三にわたる好守で横浜の攻撃を食い止めると、1勝1敗で迎えた最終戦では第1打席で同点につながるレフト前、第2打席では左膝に死球を受けて苦悶の表情を浮かべてベンチに下がったが、7分間の治療を経て強行出場で試合に戻ると続く第3打席で同点ソロ、9回裏の第4打席では三遊間へのゴロで全力疾走を見せて内野安打と最後まで古巣の前に大きな壁となって立ちはだかった。

苦境から3試合連発
17年は新加入のマギーが開幕から好調をキープしたため前年にチームトップクラスの成績を残したにもかかわらず控えという立場に追いやられた。4月12日の広島戦では代打でスリーランを放ったが慣れない代打に苦しんで5月1日から13打数連続ノーヒットを記録した。だがDHが使える交流戦に入ると5月30日の楽天戦の第1打席でタイムリー内野安打を放って5月初ヒットを記録、6月1日の楽天戦では則本からツーラン、翌日のオリックス戦では4番で起用されてツーラン、さらにその翌日に満塁弾と3試合連続ホームランを放って存在感を見せた。また気持ちが切れてもおかしくない起用法にも下を向かずに奮闘を続ける村田には大きな歓声が送られるようになった。

スタメンを取り返す
交流戦が明けても故障の阿部に代わってファーストを守り、7月1日の横浜戦で満塁走者一掃のタイムリーを含む4打点を記録すると、4日からの広島3連戦では全て2安打を放つなど11試合連続ヒットを記録してチームを盛り立てた。阿部の復帰後もマギーがセカンドで起用されることになり5番サードでスタメン起用が継続、3位攻防戦となった9月1日の横浜戦では守っては桑原が放ったサード頭上の打球をジャンピングキャッチで好捕し打席では史上4人目の150死球を記録、村田は「勲章です」と胸を張ったが翌日から5試合連続ノーヒットに倒れるなどCS争いの中で大幅に数字を落とし、ラスト3試合で3試合連発を記録したが打率は.262に留まった。

まさかの自由契約
打席数を考えれば14本塁打で58打点はまずまずの数字かと思われたが、若返りを図る巨人がまさかの自由契約を通告して退団、当初は争奪戦かと思われたがNPBの獲得球団は現れず、翌年の3月になってBCリーグの栃木に入団した。人生初の一人暮らしに悪戦苦闘し、シーズン早々に右太もも裏を故障したが、5月12日に「男・村田祭り」と銘打たれて行われた巨人3軍との交流戦では代打で逆転ツーランを放って大歓声を浴びた。故障が癒えた6月には打率.404、5本塁打、19打点で月間MVPを受賞、7月には3試合連続ホームランも放ったが、支配下選手の登録期限である7月31日までにNPB球団からの声はかからなかった。

引退試合
8月1日に行われた会見では引退という言葉は使わず独立リーグのシーズン最終戦までプレーする事を明かし、引退試合として行われた9月9日のシーズン最終戦には坂本、阿部、菅野らから「WEラブSHU」とのメッセージが記された特大の花看板が届き、大西、内藤ら横浜時代のチームメイトたちが駆けつけ、入りきれないファンが球場外から声援を送る中でセンター前ヒットを放った。試合後のセレモニーでは横浜時代の監督である大矢 明彦から「監督就任時に抱いた2つの夢、日本人の本塁打王と全日本の4番を出すことを叶えてくれた」と感謝された。村田は横浜、巨人、栃木のユニホームを身につけた3人の息子達にメッセージを送り、「今日をもって私は現役を…引退します」と男泣きをしながら現役に別れを告げた。

引退セレモニー
9月28日には東京ドームで行われた巨人横浜戦で引退セレモニーが開催され、試合前に横浜ファンに「チームを強くすることはできませんでした。申し訳ありませんでした」と謝罪し、続けて「村田修一の現役生活は終わりましたが、村田修一の人生はまだこれからも続きます。息子たちを、一人前の男にしたいと思っています」と家族への思いを語り、最後は「未練がないと言えばウソになるかもしれませんが、自分が選択して歩んできた道に後悔はありません。両チームの皆さん、今日も熱い試合を期待しています。ファンの皆様、プロ野球16年間、現役生活長い間、ご声援本当にありがとうございました」と締めくくり大歓声を浴びた。試合後の場内一周では巨人時代の応援歌に続き、レフトスタンドで横浜時代の応援歌の大合唱が始まると、村田はファンファーレに合わせて手をたたき、「ホームラン〜」の歌詞のタイミングでスイングを見せて、応援歌が2週目に入ると涙をぬぐった。

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引退後は巨人の2軍打撃コーチに就任。


初記録
初出場 03年3月28日阪神戦
初安打 03年4月1日巨:桑田から
初本塁打 03年4月2日巨:高橋尚から
初打点 03年4月1日巨:桑田から
初盗塁 03年5月7日広:本盗
記録達成日
1000安打 11年5月18日西武戦:石井一から
200本塁打 09年7月28日阪神戦:安藤から
1000試合出場 10年9月19日広島戦
1500安打 14年8月27日阪神戦:岩田から
1000打点 16年6月25日横浜戦
その他の記録
月間MVP 03年9月:08年7月:13年7月、8月
新人月間10本塁打 03年9月





03 04 05 06 07 08 09 10 11 12 13 14 15 16 17
本塁打王 2回
ベストナイン 4回
ゴールデングラブ 3回
オールスター 5回


  打撃成績
チーム 試合 打数 得点 安打 二塁 三塁 本塁 塁打 打点 盗塁 盗刺 犠打 犠飛 四球 死球 三振 併殺 失策 打率
03 横浜 104 330 48 74 11 0 25 160 56 3 3 3 2 26 12 111 6 14 .224
04 横浜 116 326 43 79 17 0 15 141 38 2 3 0 2 30 11 84 10 11 .242
05 横浜 136 477 60 120 32 2 24 228 82 1 1 3 4 44 11 124 15 14 .252
06 横浜 145 545 83 145 30 3 34 283 114 1 0 4 10 39 13 153 11 15 .266
07 横浜 144 526 94 151 30 1 36 291 101 1 1 0 9 65 15 117 14 18 .287
08 横浜 132 489 89 158 25 2 46 325 114 0 1 0 3 55 7 113 10 16 .323
09 横浜 93 343 45 94 16 1 25 187 69 0 1 0 0 21 5 80 7 10 .274
10 横浜 144 565 75 145 30 0 26 253 88 0 0 0 3 45 4 124 19 10 .257
11 横浜 144 530 65 134 28 1 20 224 70 0 0 0 6 44 12 103 19 13 .253
12 巨人 144 516 49 130 27 0 12 193 58 1 3 2 6 36 15 85 16 13 .252
13 巨人 144 519 76 164 26 0 25 265 87 1 1 6 7 50 13 74 11 11 .316
14 巨人 143 519 49 133 17 0 21 213 68 2 2 0 4 39 13 83 22 9 .256
15 巨人 103 330 33 78 9 0 12 123 39 1 1 2 2 28 8 65 12 13 .236
16 巨人 143 529 58 160 32 0 25 267 81 1 3 2 2 38 5 83 21 15 .302
17 巨人 118 381 41 100 19 0 14 161 58 0 0 1 2 34 6 63 15 7 .262
球団 9年 1158 4131 602 1100 219 10 251 2092 732 8 10 10 39 369 90 1009 111 121 .266
通算 15年 1953 6925 908 1865 349 10 360 3314 1123 14 20 23 62 594 150 1462 208 189 .269


  日本シリーズ打撃成績
チーム 試合 打数 得点 安打 二塁 三塁 本塁 塁打 打点 盗塁 盗刺 犠打 犠飛 四球 死球 三振 併殺 失策 打率
12 巨人 6 22 1 4 0 0 0 4 0 0 0 0 0 2 1 3 1 0 .182
13 巨人 7 27 3 7 1 0 2 14 4 0 0 0 0 2 0 5 0 0 .259
通算 2年 13 49 4 11 1 0 2 18 4 0 0 0 0 4 1 8 1 0 .224


  プレーオフ打撃成績
チーム 試合 打数 得点 安打 二塁 三塁 本塁 塁打 打点 盗塁 盗刺 犠打 犠飛 四球 死球 三振 併殺 失策 打率
12 巨人 6 17 4 5 1 0 2 12 2 0 0 0 0 4 2 4 0 0 .294
13 巨人 3 12 0 4 0 0 0 4 1 0 0 0 0 0 0 1 0 0 .333
14 巨人 4 14 1 5 0 0 0 5 1 0 0 0 1 0 2 2 0 0 .357
15 巨人 6 12 0 1 0 0 0 1 0 0 0 1 0 0 1 4 0 1 .083
16 巨人 3 11 2 5 0 0 1 8 1 0 0 0 0 1 1 1 0 0 .455
通算 5年 22 66 7 20 1 0 3 30 5 0 0 1 1 5 6 12 0 1 .303


  オールスター打撃成績
回数 試合 打数 得点 安打 二塁 三塁 本塁 塁打 打点 盗塁 盗刺 犠打 犠飛 四球 死球 三振 併殺 失策 打率
通算 5回 11 28 4 6 1 0 0 7 2 0 0 0 1 0 0 5 2 0 .214


  二軍打撃成績
チーム 試合 打数 得点 安打 二塁 三塁 本塁 塁打 打点 盗塁 犠打 犠飛 四死 三振 併殺 失策 打率
03 湘南 11 44 5 7 2 0 2 15 9 0 0 0 2 15 2 2 .159
04 湘南 3 10 1 1 0 0 0 1 0 0 0 0 2 1 0 0 .100
09 湘南 9 24 1 6 0 0 1 9 3 0 0 0 1 9 1 1 .250
通算 3年 23 78 7 14 2 0 3 25 12 0 0 0 5 25 3 3 .179
球団在籍時のみ


  WBC打撃成績
チーム 試合 打数 得点 安打 二塁 三塁 本塁 塁打 打点 盗塁 盗刺 犠打 犠飛 四球 死球 三振 併殺 失策 打率
09 日本 7 25 4 8 0 0 2 14 7 0 0 0 1 1 2 6 0 0 .320
通算 1年 7 25 4 8 0 0 2 14 7 0 0 0 1 1 2 6 0 0 .320


  オリンピック打撃成績
チーム 試合 打数 得点 安打 二塁 三塁 本塁 塁打 打点 盗塁 盗刺 犠打 犠飛 四球 死球 三振 併殺 失策 打率
08 日本 8 23 2 2 1 0 0 3 0 0 0 0 0 1 1 7 0 1 .087
通算 1年 8 23 2 2 1 0 0 3 0 0 0 0 0 1 1 7 0 1 .087