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監督
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その他
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大洋ホエールズ
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横浜大洋
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横浜ベイスターズ
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全選手
MLB記録
タイトル
関連リンク
佐伯 貴弘
26
名前
さえき たかひろ
生年月日
1970年4月18日
経歴
尽誠学園高−大阪商大−横浜(92年D2位)−中日
入団年
92年ドラフト2位
在籍年
93年−10年
背番号
93年−00年[26]:01年−06年[10]:07年−10年[26]
投打
左投げ左打ち
守備
内外野手
:
伊良部の後輩
:
幼い頃に父を亡くし、裕福ではなかった少年時代から「かっこいい男」を目指して近鉄電車の運転手などに憧れた。尽誠学園時代にはある日の夜中にすでに眠りについていた佐伯はルームメイトの伊良部 秀輝の大きなワメキ声で目が覚めた。「どうしたんですか伊良部さん!」、「アホ、おまえやろ、俺を金縛りにしたには!」。
:
三冠王
:
苦難の高校時代を乗り越えた佐伯は大阪商大時代に通算12本塁打で関西六大学リーグの本塁打記録を打ち立てるなどの活躍で2度の三冠王に輝き、92年に即戦力の一塁手としてドラフト2位で横浜に入団した。入団会見後の記者会見で佐伯の母親真世さんは「うちの息子は女の子を見ると股間をふくらませてしまう若輩者ですが、どうぞよろしくお願いします」と発言した。
:
第4の外野手
:
初年度は打率.198、わずか2本塁打に終わった。翌94年には打率.258、11本塁打を放ち、早くもレギュラーを獲得したかに思えたが、翌95年は波留、鈴木、ブラッグスが強力な外野を形成し、佐伯はレギュラー半という立場に追いやられた。
:
月間MVP
:
96年には4月に月間打率.333で20打点を記録して月間MPVに選出されるなどチームのスタートダッシュに大きく貢献、5月になっても8日のヤクルト戦から6月2日の広島戦まで20試合連続ヒットを記録、5月には球団記録に並ぶ月間41安打放つなど主軸としてチームを引っ張った。後半戦は数字を落としたものの初めて規定打席に到達して打率.290という好成績を残した。同年限りでブラッグスが退団してレギュラーを獲得したかに思えたが、大矢監督が内野手のセルビーを外野起用したことに落胆し、一時は野球を辞めることも考えたという。当然そんな状態で結果が出るはずも無く、97年は打率.260、4本塁打に終わっている。
:
これでどないや?
:
97年オフの契約更改での事、佐伯はどうしても球団の提示した金額が納得できずに保留して「相手が標準語では話が弾まんわ、球団側で大阪弁の人を用意して欲しい」と発言した。すると球団は2度目の交渉に大阪弁の交渉人を用意「これでどないや?」の一言で、佐伯はあっさりサインをした。
:
打ち直しホームラン
:
98年7月15日巨人戦、3回表の時点では7対0で巨人が大量リードしていた。だがここから横浜が信じられないほどの粘りを見せて7回裏に9対9の同点に追いつく。8回表には再び3点のリードを許すが、8回裏にローズのタイムリーで2点差に迫り、なお二死一塁という場面で佐伯が打席に入った。佐伯が槙原の二球目をたたいた打球はライト高橋のグラブに収まりスリーアウトかと思われたが、槙原がボークを犯しており、二死二塁でゲーム再開。そして佐伯がフルカウントから放った打球はライトスタンドに飛び込む同点ツーランとなった。これで完全にゲームを支配した横浜は9回裏に波留のサヨナラタイムリーで勝利した。
:
マジック3
:
10月2日の時点でマジックはすでに3で、しかも地元横浜で行われる4連戦。ここで優勝が決まると思っていたファンも多かっただろう。しかし前年の覇者ヤクルトの前にまさかの3連敗。そして第4戦も先発の三浦が初回に1点を失い、横浜は3回まで無得点とチームには重いプレッシャーがのし掛かっていた。しかし4回裏ローズのタイムリーで同点に追いつくと、佐伯の放った打球はライトスタンドへ、それはマジック3の呪いが解けた瞬間だった。全ての重圧を消し去った横浜は次の試合で優勝を決めた。
:
日本シリーズで活躍
:
日本シリーズでは17対5と記録的な大勝を収めた第5戦で大活躍。第1打席でツーベースを放つと、第4打席でもツーベース、第5打席でもツーベース、第6打席ではスリーベースを放ってシリーズ新記録となる4本の長打を記録した。同シリーズでは通算でも打率.364という好成績を残したが、横浜が勝った4試合に限ると15打数8安打(打率.533)という凄まじい成績を残して38年ぶりの日本一に大きく貢献した。
:
デロリアン号
:
01年、開幕して間もない頃にある事件が起こった。佐伯が隠し球をしたのを逆恨みした他球団のファンが佐伯の車のタイヤを4本全て盗んでいったのだ。佐伯は「バック・トゥ・ザ・フューチャーのデロリアンかと思った」と嘆き、思わずデロリアン号と一緒に記念撮影をしてしまった。
:
プロ入り以来の目標
:
01年、佐伯は打率.302、14本塁打、73打点というすばらしい成績を挙げた。だが佐伯が何よりも喜んだのは、プロ入り以来たびたび口にしてきた全140試合に出場したことだった。だがその翌年にはわずか62試合出場に留まった。
:
最下位のチーム
:
03年4月15日熊本で行われた中日戦、同点で迎えた8回に新人の村田がタイムリーエラーをして、結局その一点がひびいて試合に負けた。試合後に佐伯は村田に向かって「エラーするのは仕方ない。でもあの後の態度は何だっ!下ばかり向いて!声を出して何とか取り戻そう。という姿勢はないのか。お金を払ってるファンに失礼だろ!」と怒鳴りつけた。
:
最下位のチーム2
:
03年6月17日阪神戦、8回が終わったときには佐伯のタイムリーを含む2安打の活躍で2点をリードしていた。だが8回表には5安打を放ちながら1点しか取れないというちぐはぐな攻撃で阪神にとどめをさせなかった。そして9回裏にマウンドに上がったデニーが二つの四死球などで無死満塁とすると、矢野にサヨナラスリーベースを浴び、ついに阪神戦の連敗は12まで伸びた。チームはダントツの最下位に沈んだまま、小さな意地すら見せられなかった。試合後に佐伯はベンチ裏で人目もはばからずに泣いた。
:
1000安打
:
04年7月16日広島戦、2回裏に打席に入った佐伯は佐々木が「ボテボテの内野安打で決めるよ」と言っていたとおりに、ベイルからショートゴロを放つと一塁に全力疾走して見事に1000安打を達成した。これでプレッシャーから解放された佐伯はこの試合でホームランを含む3安打を放ち、翌日にも2本塁打を含む3安打を放った。
:
FA
:
04年、惜しくも首位打者は獲得できなかったが打率.322を記録し、自己最多の149安打を放った。佐伯は10月16日のシーズンの最終戦を終えると報道陣に向かって最初は静かに語り始めた。それによると10月1日に契約について球団と話し合う場を持ったが、その席で佐伯が条件提示もしていないのにFAの話になり、そこで「お前の野球人生だから好きなようにしてくれ」とFA宣言したら引き止めない方針であることを伝えられた。佐伯は「涙が出るくらい悲しかった」と最後は泣きながら「これだけ言ったら球団に残れるとは思わない。悲しいですけど…」と言った。
:
審判ボケるも、佐伯突っ込まず
:
05年9月3日阪神戦。阪神に1対3とリードされて迎えた3回裏に二死ランナー無しで打席に入った佐伯はカウント2-3からの6球目を見送り、審判はボールと判定した。佐伯は一塁に走りかけたが、カウントを間違えた球審の上本は、佐伯を打席に呼び戻して佐伯はそれに従った。佐伯は続く7球目を弾き返して打球はレフト前ヒットになり、記録上はカウント2-4からのヒットという珍記録になった。
:
涙の逆転スリーラン
:
06年4月28日広島戦。チームは開幕から黒星が続き首位から9.5ゲーム差を付けられて最下位で、4番の佐伯は打率1割台というまさにどん底の状態だった。そして3連敗で迎えたこの日も5回が終わって1対3とリード許していた。だが6回裏に石井、金城のヒットで一死一、三塁のチャンスを作ると、4番佐伯がライトスタンドにスリーランを放って逆転。そのまま逃げ切って連敗をストップさせた。お立ち台に上がった佐伯は涙が止まらず言葉にならない。インタビューの最後に佐伯は言葉を振り絞って「こんな自分にでも生きる水を与えてくれるみなさんと、何一つ変わらず僕にあいさつを交わしてくれるチームメートに感謝します」と大声援に応えた。
:
サヨナラ打撃妨害
:
06年9月7日、下関球場で行なわれた広島戦。4回表に前田のツーランで逆転を許したが、6回裏に吉村のタイムリーで5対5の同点に追いつくと、リリーフが好投を見せて試合はそのまま延長戦に入った。そして延長10回裏に藤田のレフト前ヒットから犠打と2四球などで二死満塁というチャンスを作ると打席に入った佐伯がカウント1−2から永川のストレートをファールした。違和感を感じた佐伯は「キャッチャーミットがバットに当たった」と吉本球審にアピールし、これが認められて極めて珍しいサヨナラ打撃妨害となった。佐伯はこれがヒーローとばかりに、バットを頭上に掲げながら歓喜の輪に包まれた。
:
初のサヨナラ本塁打
:
07年は4月24日の巨人戦で4打数4安打を記録するなど開幕から好調をキープし、7月12日の中日戦で初のサヨナラホームラン、9月25日の阪神戦では絶対的な守護神藤川から逆転の2点タイムリーツーベースと印象的な一打も放ち、打率.302、16本塁打で67打点という好成績を残した。
:
ホームスチール
:
08年は打撃開眼した内川にファーストのポジションを奪われた事もあって打率.269、2本塁打、19打点に終わったが、09年は開幕から好調をキープし、内川が外野に転向したこともあってスタメンを手にすると、6月2日のソフトバンク戦では1500安打となる先制ソロとツーランを放つ活躍を見せた。また7月15日の広島戦では二死二、三塁で打者寺原という場面で三塁走者の佐伯が若いバッテリーの隙をついて単独ホームスチールを成功させるなど印象深いプレーも見せた。
:
横浜退団
:
10年はオープン戦で結果が残せず二軍スタート。チームが9連敗とどん底に沈んでいた6月15日に一軍に昇格したが、9打数1安打と結果が残せず球宴開けに二軍降格。その後は尾花監督の構想からも外れて同年限りでの退団が発表された。9月19日には同年限りで消滅する湘南シーレックスのホーム最終戦に代打と起用され大歓声を受けて打席に入ったが、涙でボールが見えずファーストゴロに倒れた。また9月25日にはシーレックスの最終戦で7回裏に代打で起用されて、そのままDHに入ると、9回表二死で打席が回ってきてファーストゴロに倒れてシーレックス最後の打者になった。
:
ノーヒットから4安打
:
11年は落合監督率いる中日に入団すると開幕当初は代打の切り札として起用されたが、開幕から一月以上が経過しても13打数0安打と結果が残せなかった。5月20日の西武戦では前日までノーヒットにもかかわらず6番でスタメン起用された。これに燃えた佐伯は第2打席でセンター前ヒットを放つと、第3打席でツーベース、0対5で迎えた9回表には先頭打者としてツーベースを放つと、そこから打線がつながって1点差で、なお二死満塁という場面で佐伯にイニング2回目の打席が回ってきた。そして佐伯は4打席連続安打となる2点タイムリーを放ってチームを大逆転勝利に導いた。お立ち台に上がった佐伯は「夢のよう…。いや、夢です!きょうは」。
:
引退
:
11年11月に2年連続の戦力外通告を受けたが現役続行を目指してトレーニングを続けて、1年後にロッテの入団テストを受けたが不合格となり、合同トライアウトも受けたが獲得表明はなく、翌13年2月に現役引退を発表した。翌年から谷繁監督が率いる中日の二軍監督などを務めたが16年8月9日に谷繁監督とともに解任となった。
:
レジェンドマッチ
:
17年オフに開催された横浜スタジアム40周年を祝うハマスタレジェンドマッチで横浜に復帰、試合前にブラックホッシーをジャイアントスイングしてスタンドを沸かせると、5回表には山崎康から決勝タイムリーを放ってお立ち台に上がり「このユニフォームを着て、この球場に立つことはもうないと思っていたので、本当にありがたい企画です。本当に感謝しています」、「ファンの皆様に姿かたちだけは良いものを見せようと腕立てとワンダーコア(腹筋運動をサポートする器具)をずっと続けていました」、「ベンチで隣に座っている三浦大輔の香水の匂いがもうきつくて、きつくて」と笑いを誘い、最後はお立ち台後の恒例となっていた「アイラブ・ヨコハマ!」で多くの横浜ファンの涙を誘った。
初記録
初出場
93年5月23日広:代打で四球
初安打
93年6月5日中:8回に上原からライト前
初本塁打
93年8月1日広:佐藤剛から
初打点
93年8月1日広:佐藤剛から
初盗塁
93年10月16日巨:4回に二盗
記録達成日
1500試合
07年4月14日神:甲子園で
1000安打
04年7月16日広島戦ベイルから内野安打
1500安打
09年6月2日ソフトバンク戦:ホールトンから
100本塁打
04年9月3日ヤクルト戦:鎌田から
150本塁打
09年8月9日中日戦:中田から
その他の記録
月間MVP
96年4月
93
94
95
96
97
98
99
00
01
02
03
04
05
06
07
08
09
10
11
オールスター
●
●
●
3回
打撃成績
チーム
試合
打数
得点
安打
二塁
三塁
本塁
塁打
打点
盗塁
盗刺
犠打
犠飛
四球
死球
三振
併殺
失策
打率
93
横浜
55
131
5
26
4
1
2
38
12
1
2
1
0
12
2
27
2
2
.198
94
横浜
107
283
31
73
20
0
11
126
44
3
0
0
2
30
3
59
7
4
.258
95
横浜
103
212
27
56
17
1
7
96
29
0
1
2
2
29
1
45
1
2
.264
96
横浜
114
390
49
113
23
5
6
164
59
3
4
6
7
33
2
55
11
2
.290
97
横浜
106
265
20
69
12
1
4
95
25
6
2
5
2
29
2
62
5
0
.260
98
横浜
108
304
44
88
20
2
9
139
55
1
2
2
2
31
2
54
2
4
.289
99
横浜
112
363
49
112
17
1
10
161
53
1
2
0
3
34
1
49
7
1
.309
00
横浜
122
440
46
114
23
0
6
155
52
2
2
1
1
41
3
69
7
7
.259
01
横浜
140
490
58
148
18
2
14
212
73
11
7
12
3
46
4
73
12
6
.302
02
横浜
62
209
15
62
11
0
2
79
23
4
2
3
1
11
1
36
6
5
.297
03
横浜
104
268
24
73
12
1
11
120
41
1
3
0
2
14
3
64
1
1
.272
04
横浜
127
463
63
149
16
2
19
226
57
2
4
3
3
39
3
100
12
3
.322
05
横浜
146
578
74
157
28
2
19
246
88
5
3
0
2
57
3
119
18
6
.272
06
横浜
86
307
25
69
13
0
5
97
37
1
2
2
1
27
5
78
6
4
.225
07
横浜
125
404
49
122
25
3
16
201
67
0
1
4
2
34
3
54
8
2
.302
08
横浜
90
186
14
50
11
0
2
67
19
0
0
7
1
13
1
30
2
2
.269
09
横浜
114
361
32
93
16
0
12
145
55
1
1
0
3
35
3
90
9
9
.258
10
横浜
10
9
0
1
0
0
0
1
0
0
0
0
0
1
0
0
0
0
.111
11
中日
64
109
4
22
4
1
1
31
6
0
0
3
0
5
1
22
3
1
.202
球団
18年
1831
5663
625
1575
286
21
155
2368
789
42
38
48
37
516
42
1064
116
60
.278
通算
19年
1895
5772
629
1597
290
22
156
2399
795
42
38
51
37
521
43
1086
119
61
.277
日本シリーズ打撃成績
チーム
試合
打数
得点
安打
二塁
三塁
本塁
塁打
打点
盗塁
盗刺
犠打
犠飛
四球
死球
三振
併殺
失策
打率
98
横浜
6
22
2
8
4
1
0
14
4
0
1
0
0
2
0
5
1
0
.364
11
中日
1
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
1
0
0
0
0
.000
通算
2年
7
22
2
8
4
1
0
14
4
0
1
0
0
3
0
5
1
0
.364
プレーオフ打撃成績
チーム
試合
打数
得点
安打
二塁
三塁
本塁
塁打
打点
盗塁
盗刺
犠打
犠飛
四球
死球
三振
併殺
失策
打率
11
中日
3
2
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
1
0
0
0
0
.000
通算
1年
3
2
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
1
0
0
0
0
.000
オールスター打撃成績
回数
試合
打数
得点
安打
二塁
三塁
本塁
塁打
打点
盗塁
盗刺
犠打
犠飛
四球
死球
三振
併殺
失策
打率
通算
3回
6
11
1
3
1
0
0
4
3
0
0
0
0
0
0
2
0
0
.273
二軍打撃成績
チーム
試合
打数
得点
安打
二塁
三塁
本塁
塁打
打点
盗塁
犠打
犠飛
四死
三振
併殺
失策
打率
93
横浜
41
146
22
46
9
1
5
72
21
2
1
1
20
17
4
8
.315
94
横浜
1
4
0
2
0
0
0
2
0
0
0
0
0
1
0
0
.500
95
横浜
3
9
0
0
0
0
0
0
2
0
0
1
2
0
0
0
.000
02
湘南
4
11
3
5
1
0
1
9
5
0
0
0
0
1
0
1
.455
06
湘南
6
15
2
6
2
0
1
11
2
0
0
0
3
2
0
0
.400
10
湘南
42
53
4
18
2
0
2
26
8
0
1
0
3
7
1
0
.340
11
中日
9
26
0
7
1
0
0
8
1
0
0
1
2
4
2
0
.269
通算
7年
106
264
31
84
15
1
9
128
39
2
2
3
30
32
7
9
.318