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監督
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その他
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大洋ホエールズ
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横浜大洋
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横浜ベイスターズ
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全選手
MLB記録
タイトル
関連リンク
多村 仁志
8
名前
たむら ひとし(旧登録名:多村 仁)
生年月日
1977年3月28日
経歴
横浜高校−横浜(94年D4位)−ソフトバンク-横浜-中日
入団年
94年ドラフト4位
在籍年
95年-06年:13年-15年
背番号
95年-99年[52]:00年-03年[55]:04年-06年[6]:13年[52]:14年−15年[8]
投打
右投げ右打ち
守備
外野手
:
入団
:
横浜高校では紀田、斉藤と共にクリーンナップを組んで3年の春夏に連続で甲子園に出場。同年のドラフト会議で大堀球団社長が「多村を獲れ」と当日に号令をかけたため横浜から4位指名を受けて入団した。なおベイスターズは94年の横浜高校に在籍した選手から多村<94年D4>、紀田<94年D1>、横山<95年D3>、矢野<98年D1>と4人も獲得した。また斉藤宣之も巨人に入団している。
:
満塁弾3本
:
横浜高校時代から怪我に悩まされてきた多村はプロに入っても1年、2年目は怪我の連続でファームの試合にすら満足に出場できなかった。転機となったのは2年目のはハイサイリーグ、気分転換に相川のバットを借りた多村は11試合に出場して満塁本塁打を3本放つなどで19打点を記録。その活躍が首脳陣の目に止まって翌年には開幕一軍に選ばれた。
:
初ホームラン
:
3年目の97年には開幕から代打でヒットを連発。出場10試合目には打率.429を記録するなど絶好調で、4月25日の中日戦では初ホームランも放った。しかしTVで解説をしていた高木 豊の口は重かった。多村には決定的な弱点があることを知っていたのだ。そして初本塁打を放った翌日から多村は一本もヒットを打てなかった。弱点である外角に逃げるスライダーを徹底的に攻められてバットはかすりもしなかった。開幕から2ヶ月で多村の短い一軍生活は終わった。
:
手術
:
97年のオフに一年目から痛めていた右肩の手術を決意。事前には簡単な手術と聞かされていたが目が覚めると右肩にはボルトが埋め込まれていた。多村が「何でこんなことをしたんですか!」と聞くと医者は「開けてみたら、思ったより悪かったから…」と患者の了承もなしに大手術に踏み切ったことを認めた。開幕までには復帰できるはずだった多村は優勝を争う一軍どころか、二軍の試合にも1試合も出れずに98年のシーズンを終えることになった。
:
ファーストブレイク
:
99年に復帰を果たしたがイースタン・リーグで打率.228(197打数45安打)と結果が残せなかった。だが00年に入ると右肩が回復してきた多村は開幕から一軍に定着。後半戦からは同世代の金城と共にスタメンを任されるなど、84試合に出場して7本塁打、29打点と結果を残した。長距離砲として期待されたが翌01年は打率.163でわずか33試合出場、02年は81試合に出場したが打率.235と伸び悩んだ。
:
2試合連続で9回にホームラン
:
03年には6月25日の巨人戦で1点のリードを許して迎えた9回表二死二塁という場面で打席に入った多村は前田のナックルを完璧にとらえた看板直撃の逆転ツーランを放った。だが9回裏にデニーが炎上してサヨナラ負けとなり多村はヒーローになり損ねた。だが翌26日の巨人戦で多村は同点で迎えた9回表にまたも同じ弾道のホームランを放って一日遅れのお立ち台に上った。
:
4試合連続×2
:
04年には6月1日の広島戦で7回表に黒田のストレートを打ち砕いて試合を決めるスリーランを放った。多村はこの打席まで12打数連続無安打と絶不調だったが、この一発で調子に乗った多村は翌日、翌々日にもホームランを放ち、6月4日の阪神戦では2回裏に静岡球場の場外に4試合連続ホームランを打ち込んだ。さらに8回裏には起死回生の同点ソロを放った。8回の同点ソロが翌日に回っていれば球団記録である田代らの5試合連続ホームランに並んだが惜しくも記録達成はならなかった。なお多村は同年の4月21日−24日にも4試合連続ホームランを放っている。
:
40号
:
04年9月28日阪神戦で井川から39号を放った多村だったが、40号というプレッシャーのせいか、なかなか大台には到達しなかった。そして迎えた10月6日広島戦の試合前、電話でめぐみ婦人に「きょう決めるから」と伝え、予告通りに小林からレフトスタンドにツーランを放った。多村はようやく飛び出た球団史上初の日本人40号に「やっと出たという感じ。プレッシャーがあったんでほっとしている」と表情を崩した。ちなみに40本中16本が対広島戦と極めて相性がいい。
:
規定打数到達
:
04年に大きな飛躍を果たして大打者の証明といわれる3割、40本、100打点を達成した。ケガに弱いと言われ続けてきた多村が123試合出場して初めての規定打席に到達した。怪我が無かったわけではないが、それでも試合に出場し続けたことが大記録につながった。
:
サヨナラ
:
05年にはオープン戦を絶好調で終えたがインフルエンザにかかって開幕戦は病院のベッドで迎える事になった。地元ハマスタの開幕戦となった4月5日の巨人で一軍合流。同点の8回裏に代打で登場したが凡退して、そのまま守備についた。すると延長12回裏に一死一、二塁のチャンスで再び多村に打席が回ってきた。牛島監督に「決めて来い」と言われた多村はミセリのスライダーのセンターにはじき返してプロ入り初のサヨナラヒットを打って見せた。
:
7打点
:
05年5月4日巨人戦。巨人の先発は球界を代表するエース上原で苦しい試合が予想されたが、初回に二死二、三塁から多村が2点タイムリーを放ち先制すると、多村は3回表にはフォークを左中間にツーラン、4回表にはストレートを右中間にスリーランという大爆発で上原から7打点を上げ、日本記録の1試合11打点も見えてきたが続く打席は四球と遊ゴロで記録達成はならなかった。
:
一転
:
05年は開幕から絶好調で63試合終了時点でリーグトップの打率.344、21本塁打にリーグ3位の58打点という凄まじい成績を残していた。だが交流戦の最終戦となった6月18日楽天戦の守備で打球を下腹部に当て負傷してしまう。交代をせずに最後までプレーしたこともあってか三日後の6月21日に自宅で靴紐を結ぶ際にぎっくり腰になり登録抹消。6月29日には調整のために練習場に向かう途中で雨の降る横横道路でスリップして中央分離帯に衝突。多村は「左肩関節挫傷」と「左目の外傷性複視」で全治二週間のケガを負ってしまった。それから一月後の7月29日広島戦から復帰したが前半戦のような活躍は出来ず大きく数字を落とす事になった。
:
WBC開幕
:
06年には史上初の世界大会となるWBCの日本代表に選出された。一次リーグ初戦の中国戦は第3打席までは今一つの内容だったが、谷繁に「今の打ち方じゃタメがない」とのアドバイスを受けて臨んだ第4打席で左中間に特大のスリーランを打ち込み本来のバッティングを取り戻した。第二戦の台湾戦でも初回の二死一、三塁というチャンスで先制スリーランを放つと、5回裏にはレフトフェンスに激突しながらファウルフライを好捕。多村の活躍もあって日本は2試合連続コールド勝ちで一次リーグ突破を決めた。
:
アメリカ戦
:
二次リーグの初戦となったアメリカ戦では3番に昇格したが第一打席でダブルプレーに倒れると3対3の同点で迎えた8回表では送りバントを失敗。8回表に日本の勝ち越し点が主審のボブ・デービッドソンの疑惑の判定で取り消されてしまうと、9回表に二死満塁のチャンスで打席に入ったがブラッド・リッジの前に空振り三振に倒れるなど大ブレーキ。日本は9回裏にA・ロドリゲスのサヨナラヒットで破れて金星を逃すことになった。
:
送りバント
:
続くメキシコ戦でも2回表の無死一、二塁で送りバントを行ったが足元に転がった打球をファウルと勘違いしてダブルプレー、チームの足を大きく引っ張ったが、4回表の無死一、二塁では先制点に繋がる送りバントを見事に成功させてチームメイトから盛大な喝采を受けた。だが負ければ準決勝進出が難しくなる韓国戦で1点を追う9回裏に二死一塁で打席に入ったが大ファウルを放った直後に空振り三振。「終わっちゃったんだ」と大きなショックを受けた多村は腰から崩れ落ちて打席の中に座り込んでしまった。
:
ワールドチャンピオン
:
準決勝の韓国戦では4回裏に元中日の李鍾範のレフトファウルフライをフェンスに激突しながらもキャッチしてピンチの芽を摘みとった。0対0で迎えた7回表の無死二塁という場面では送りバントに失敗したが、5対0となった8回表には駄目押しのソロホームランを放ち決勝進出を決めた。決勝戦のキューバ戦でも初回の一死満塁で押し出し死球を受けて先制点を上げると、5回表には中押しタイムリーを放つなど活躍。日本は10対6でキューバを破り奇跡のWBC優勝を果たした。多村は送りバント失敗や、チャンスでの三振などもあったが、2度のファインプレーにチームトップの3本塁打、9打点という大活躍を見せ日本の世界一に大きく貢献した。
:
リタイヤ
:
06年は開幕から怪我が相次いで試合に出場できない日々が続いた。そして6月7日楽天戦でヒットを打って一塁に出塁した多村は、続く佐伯の右中間を破る打球で一気にホームをついたが、ブロックした楽天のキャッチャー藤井の左ひざが多村の痛めていた脇腹に突き刺さった。多村は苦悶の表情で倒れこみ、タンカで球場を後にした。検査の結果は肋骨4本の骨折で前半戦は絶望となった。
:
移籍
:
06年はわずか39試合出場に出場に留まり、中軸を失ったチームも最下位に低迷した。シーズンが終了すると多村のトレード話が真実味を帯びて報道されるようになり、12月5日にソフトバンク寺原とのトレードが発表された。多村は「今は何も考えられない」とショックを隠しきれなかった。トレード発表後にソフトバンクの王監督から電話があったが、見たことのない番号だったので多村は出なかった。留守電を聞いて慌てて電話をかけて非礼をわびると王監督から「迷わず来て欲しい」との言葉を貰って多村は福岡行きを決断した。
:
結果残せず
:
初年度は自己最多の132試合に出場して553打席に立ったが打率.271、13本塁打、68打点という今ひとつの成績に留まった。翌08年には4月25日のロッテ戦で左中間の打球を追っていたところレフトの長谷川と交錯して右足の腓骨を骨折。9月に復帰したがわずか39試合出場に終わった。
:
多村 仁志
:
09年はオープン戦で牽制球で帰塁する際に右肩を痛めて開幕二軍となったが、5月22日に登録名を「多村 仁志」に変更して一軍に登録。怪我もあって338打席にしか立てなかったが、打率.282、17本塁打、57打点と出場した試合では結果を残した。同年のプレーオフでは秋山監督からキーマンに指名されたが腰痛で出場することが出来なかった。
:
チーム三冠王
:
10年には交流戦で史上最高打率の.415を記録するなどシーズンを通して活躍。自己記録を大幅に乗り換える140試合に出場してチーム三冠となる打率.324、27本塁打、89打点という素晴らしい結果を残した。小久保がケガで離脱した際には4番を任されるなど優勝を争うチームを引っ張り、シーズン終盤の9月には月間打率.397を記録するなど西武との激しいデットヒートを制する原動力になった。クライマックスシリーズではロッテに3勝4敗で破れて優勝しながら日本シリーズ進出はならなかったが、初のオールスターにも選出されてベストナインも受賞。MVP投票でも4位の167点を集めた。
:
横浜復帰
:
11年は6月8日に行なわれた巨人戦との交流戦で西村から左手小指に死球を受けて手術。7月に復帰したが数字が上がらず打率.241、4本塁打、36打点と前年から大幅に数字を落としてしまった。翌12年には開幕直前に腰痛を発症して登録を外れると、5月11日に復帰したが結果が残せずスタメンの座を失ってしまった。同年オフに多村、吉川、神内と横浜の吉村、江尻、山本という3対3の大型トレードで古巣に復帰した。
:
代打本塁打&サヨナラ本塁打
:
13年4月11日の広島戦で横浜スタジアムのレフトスタンドにツーランを放って復帰後初のお立ち台に上がると「地元に戻りたいと思っていた」と語って大きな歓声を浴びた。5月10日の巨人戦では3対10と大量リードを許した7回裏に代打で起用されてレフトスタンドにツーランを運ぶと、そこから打線が繋がって1点差に追い上げる。そして9回裏に一死一、二塁というチャンスを作ると、そのままレフトに入っていた多村が抑えの西村からライトスタンドに逆転スリーランを運んで劇的なサヨナラ勝ちとなった。多村は36歳にして初めてのサヨナラホームランで、代打とサヨナラの2本塁打は史上5人目という快挙だった。
:
二桁本塁打
:
同年には6月30日の中日戦で1対2で迎えた8回裏に同点ソロを放って粘投を続けてきた三浦に応えるなど印象深い活躍を見せた。レベルの高い成績を残した外野手が多かったため代打として起用されることも多く、規定打席には届かなかったが、277打席で12本塁打、39打点を記録して6年ぶりの最下位脱出に貢献した。
:
好守連発
:
14年は5月8日の巨人戦で同点で迎えた8回表に二死二塁で代打起用されてライト前に勝ち越しタイムリーを放って3年ぶりとなる巨人3連戦のカード勝ち越しに貢献。5月20日の楽天戦ではA・ジョーンズが放った大飛球をフェンスに激突しながらジャンピングキャッチ、6月21日の西武戦で勝ち越しツーラン、翌日の西武戦では5回表に山川が放った大飛球を好捕すると、6回表にも二死二、三塁のピンチで秋山が放ったライト前へのライナーを前進してダイビングキャッチと攻守でチームを支えた。
:
キューバでレジェンド
:
8月に入っても両脚のアキレス腱を痛めながら試合に出場して6日の巨人戦で先制ツーランを含む3安打、23日のヤクルト戦では先制ソロを放つなど月間打率.407、3本塁打という活躍を続けていたが、8月24日のヤクルト戦で止めたバットに当たる中途半端なセカンドゴロを打った際に打球を見てから走塁を開始した事が中畑監督から「無気力に見えた」と指摘されて登録抹消となり、そのままシーズンを終える事になった。また同年にはキューバ政府の方針変更でグリエルを初めとしたキューバ選手が来日したが、多くの選手がWBCで印象に残っている選手として「タムラ」の名前を上げた。
:
引退
:
15年は二軍で打率.319、116打数で7本塁打、19打点という好成績を残したが一軍ではわずか7打数とチャンスを貰えず戦力外通告を受けた。翌年は39歳にして育成契約で中日と契約したがキャンプで右ふくらはぎの肉離れ、5月中旬にも足を故障するなど最後まで故障に悩まされて支配下復帰は果たせず引退となった。引退会見では自身の球歴に思いを馳せて「もう痛い思いをしなくていいのかな」と語った。
初記録
初出場
97年4月4日中:7回に代打で凡退
初安打
97年4月8日神:田村からレフト前
初本塁打
97年4月25日中:代打で前田から
初打点
97年4月10日:古溝から
初盗塁
00年9月15日巨:9回に二盗
その他の記録
100本塁打
05年9月17日巨人戦:酒井から
1000安打
11年10月2日西武戦:石井一から
95
96
97
98
99
00
01
02
03
04
05
06
07
08
09
10
11
12
13
14
15
16
ベストナイン
●
1回
オールスター
●
1回
打撃成績
チーム
試合
打数
得点
安打
二塁
三塁
本塁
塁打
打点
盗塁
盗刺
犠打
犠飛
四球
死球
三振
併殺
失策
打率
97
横浜
18
26
2
7
1
0
1
11
4
0
0
0
1
0
0
9
0
0
.269
00
横浜
84
226
21
58
6
1
7
87
29
2
0
0
2
13
4
64
3
1
.257
01
横浜
33
43
8
7
2
0
1
12
2
0
0
0
0
8
2
15
1
0
.163
02
横浜
81
183
23
43
8
0
5
66
16
3
1
2
0
9
2
54
1
1
.235
03
横浜
91
242
29
71
12
0
18
137
46
14
7
1
0
12
5
65
7
2
.293
04
横浜
123
449
80
137
19
2
40
280
100
10
7
1
1
39
2
126
8
3
.305
05
横浜
117
450
71
137
26
2
31
260
79
2
4
0
1
43
4
108
6
3
.304
06
横浜
39
127
24
35
3
0
8
62
20
5
1
0
1
14
3
29
5
1
.276
07
ソフトバンク
132
509
61
138
28
3
13
211
68
3
2
2
1
38
3
117
8
2
.271
08
ソフトバンク
39
149
17
45
6
1
3
62
15
0
1
0
1
6
2
29
6
1
.302
09
ソフトバンク
93
308
39
87
17
1
17
157
57
0
1
0
4
22
4
66
11
1
.282
10
ソフトバンク
140
513
74
166
33
1
27
282
89
2
2
0
3
33
10
93
11
2
.324
11
ソフトバンク
100
323
28
78
16
0
4
106
36
1
1
0
1
29
3
66
11
2
.241
12
ソフトバンク
79
200
16
50
9
1
4
73
20
0
1
0
0
18
0
43
7
1
.250
13
横浜
96
238
26
62
11
1
12
111
39
1
1
0
3
33
3
54
5
0
.261
14
横浜
73
147
11
40
5
1
4
59
23
0
2
1
1
15
2
23
4
0
.272
15
横浜
4
7
1
1
0
0
0
1
0
0
0
0
0
1
0
1
0
0
.143
球団
11年
759
2138
296
598
93
7
127
1086
358
37
23
5
10
187
27
548
40
11
.280
通算
17年
1342
4140
531
1162
202
14
195
1977
643
43
31
7
20
333
49
962
94
20
.281
日本シリーズ打撃成績
チーム
試合
打数
得点
安打
二塁
三塁
本塁
塁打
打点
盗塁
盗刺
犠打
犠飛
四球
死球
三振
併殺
失策
打率
11
ソフトバンク
7
27
2
10
1
0
1
14
4
0
0
0
0
0
0
7
0
0
.370
通算
1年
7
27
2
10
1
0
1
14
4
0
0
0
0
0
0
7
0
0
.370
プレーオフ打撃成績
チーム
試合
打数
得点
安打
二塁
三塁
本塁
塁打
打点
盗塁
盗刺
犠打
犠飛
四球
死球
三振
併殺
失策
打率
07
ソフトバンク
3
11
2
3
1
0
0
4
0
0
0
0
0
1
0
3
1
0
.273
10
ソフトバンク
6
20
1
5
0
0
0
5
0
0
0
0
0
2
0
3
0
0
.250
11
ソフトバンク
3
10
1
2
0
0
0
2
2
0
0
0
0
3
0
0
0
0
.200
12
ソフトバンク
6
22
0
5
0
0
0
5
0
0
0
0
0
0
0
3
0
0
.227
通算
4年
18
63
4
15
1
0
0
16
2
0
0
0
0
6
0
9
1
0
.238
オールスター打撃成績
回数
試合
打数
得点
安打
二塁
三塁
本塁
塁打
打点
盗塁
盗刺
犠打
犠飛
四球
死球
三振
併殺
失策
打率
通算
1回
2
4
0
1
0
0
0
1
1
0
0
0
0
0
0
1
0
0
.250
二軍打撃成績
チーム
試合
打数
得点
安打
二塁
三塁
本塁
塁打
打点
盗塁
犠打
犠飛
四死
三振
併殺
失策
打率
95
横浜
28
53
8
11
1
0
1
15
7
5
2
1
14
10
2
0
.208
96
横浜
34
88
8
16
3
0
1
22
4
4
4
1
5
24
2
1
.182
97
横浜
30
73
17
20
2
0
4
34
19
7
3
1
9
14
1
0
.274
99
横浜
70
197
23
45
9
3
4
72
23
5
0
3
23
41
6
2
.228
00
湘南
24
8
5
9
2
0
3
20
13
0
0
3
3
4
0
2
.375
01
湘南
31
104
15
33
6
0
3
48
17
5
1
0
13
18
6
0
.317
02
湘南
17
53
11
19
4
0
4
35
15
2
0
2
6
6
6
1
.358
03
湘南
8
24
6
7
1
0
2
14
5
0
0
0
7
6
0
0
.292
04
湘南
1
4
1
2
0
0
0
2
1
0
0
0
1
0
0
0
.500
05
湘南
2
8
0
1
0
0
0
1
0
0
0
0
1
2
2
0
.125
06
湘南
6
20
0
2
0
0
0
2
1
0
0
0
2
5
0
1
.100
13
横浜
13
30
4
8
0
0
3
17
7
0
0
0
4
5
2
0
.267
14
横浜
9
22
2
4
1
0
0
5
2
0
0
0
3
4
2
0
.182
15
横浜
71
116
18
37
3
0
7
61
19
0
0
0
28
20
3
0
.319
通算
14年
344
800
118
214
32
3
32
348
133
28
10
11
118
159
32
7
.268
球団在籍時のみ
WBC打撃成績
チーム
試合
打数
得点
安打
二塁
三塁
本塁
塁打
打点
盗塁
盗刺
犠打
犠飛
四球
死球
三振
併殺
失策
打率
06
日本
8
27
6
7
0
0
3
16
9
0
0
1
0
6
1
9
2
0
.259
通算
1年
8
27
6
7
0
0
3
16
9
0
0
1
0
6
1
9
2
0
.259