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田代 富雄



26
名前 たしろ とみお
生年月日 1954年7月9日
経歴 藤沢商業−大洋
入団年 72年ドラフト3位
在籍年 73年−91年
背番号 73年−91年[26]
投打 右投げ右打ち
守備 内野手
サード田代
神奈川県の小田原で生まれる。小学校で野球を始めて酒匂中では1年からエースで4番を任された。藤沢商に特待生として進学すると、金子監督から「一塁手ではプロに注目されない」という理由でサードを守り、コントロールに課題があったピッチャーも断念した。だが2年夏には県大会の準決勝でサード田代は満塁でエラーをしてしまい甲子園出場を逃した。「一塁手だったらチームは甲子園にいけたかも」と田代。

外野4人
中高時代にはバットのヘッドに自転車のチェーンを巻きつけて小田原の浜辺でスイングを繰り返して握力と足腰を鍛え上げた。だが3年夏は県4回戦で全打席で敬遠されてチームは敗退した。なお横浜高校の名将渡辺監督は田代対策として外野4人というシフトを行った。

時間の無駄
中央球界では無名だったが地元大洋は早く目をつけていた。ところがドラフト直前になって巨人のスカウトが田代をチェックしに来た。これに対して大洋スカウトは「こんなの見てても時間の無駄だ」と一芝居をうち、見事にドラフト会議で3位指名した。田代は大学進学も考えていたがドラフト会議の一か月前に父親が54歳の若さで亡くなり、家族を支えるために入団を決意した。天秤打法の近藤 和彦から背番号26番を引き継ぐなど球団の期待は当初から高かった。

イ二冠
大洋に入団してから2年目の74年に打撃マシンのボールさえ打てなくなり、高校の恩師に「やめたい」と相談するまで追い込まれたが、同年の年末年始に行われたミニ・キャンプで打撃コーチを勤めた大下 弘に鍛えられて自信をつけると、翌75年にはイースタン・リーグで3割、39打点を記録して首位打者と打点王を獲得した。同年のオフには巨人からトレードの打診があり球団も乗り気だったが、ヘッド・コーチに就任したボイヤーが田代を高く評価しており、球団に待ったをかけて大洋残留となった。

家宝
76年に開幕一軍メンバーに選ばれて開幕第2戦の4月4日中日戦で一軍初出場。しかも引退したボイヤーに代わって7番サードというスタメンを任されると、初打席となった3回裏に三沢から初打席初安打、第2打席で初打点と活躍して勝利に貢献した。後半戦に入ると7月27日の広島戦で池谷から初本塁打となる先制ツーランを放ったのをかわきりに本塁打を量産。打率.255、8本塁打を記録した。なお同年に田代は王 貞治にバットを貰ったが、すぐに試合で使って3三振。それ以来そのバットは家宝として家に飾られることになった。

3割3・・
77年の開幕戦は8番サードで迎えたが3回裏に同年の初本塁打を放つと、1試合を挟んで続く巨人3連戦で新浦、小林繁、堀内というエース格から3試合連続ホームラン。さらに続くスワローズ戦でも初戦に松岡、第2戦に会田と打ち込んで球団タイ記録の5試合連続ホームランを記録した。一気にクリーンナップに昇格した田代は17日の中日戦で自身初の2本塁打を放つなど留まる事なく打ち続けて月間MVPに選出された(打率.388、11本塁打)。5月にも7本塁打を放って本塁打王を争い、最終的には50本塁打を記録した王に大差を付けられたが、球団記録を更新する35本塁打を記録。打率も302で88打点という素晴らしい成績を残した。またリーグトップの118三振を記録、三振王になりながら3割を打ったのは57年の野村 克也以来となる快挙だった。

開幕戦で3打席連発
横浜スタジアムに移転した78年には打率.288。27本塁打と多少数字は落としたが自信最多となる104打点を記録。翌79年には開幕戦で2回表に松岡からレフトスタンドに先制ソロ運ぶと、4回表にはバックスクリーン右にツーラン、6回表にはレフトスタンドにソロとリーグの初の開幕戦3打席連続本塁打を記録した。だが同年は不調が続いて打率.235、19本塁打、54打点に終わってしまった。

三浦神通力
80年5月5日巨人戦、4回表に打席に入った田代はホームベースを掃除していた三浦主審と軽くぶつかった。この打席で西本聖からホームランを打った田代は「その晩ふっと思ったんです。打席に入る前、三浦さんと体が触れ合った。あれで本塁打が打てた。あれが魔法だったんだと」。5月18日のヤクルト戦で主審はまたも三浦だった。田代は魔法の効果を確認すべく「打席に入るたびに右肘、右肩でそれとなく三浦さんの体に触れました」、すると田代はレフト、センター、ライトと3打席連続ホームランを放ち、しかも最後はサヨナラホームランになった。

三浦神通力2
5月28日巨人戦、困ったことにこの日の三浦は三塁審判になっていた。だが田代は「三塁手だったから守備につくとき、それとなく三浦さんにさわりました。三浦さんも気がついていたみたいで軽くつき返してくれました。」すると田代はレフトスタンドにホームランを放った。「でも三浦神通力があったのはこの年だけで、翌年からはなくなりました。そこでもう三浦さんの体には触れませんでしたね」。田代は同年に自己最多の36本塁打を放っている。

骨折
85年8月16日巨人戦で加藤から250号本塁打を放ち、松原の持つ球団記録330本塁打の更新が見え始めていた。だが翌86年の6月18日広島戦でファーストを守っていた田代は、打者走者の正田 耕三と激突して左手首を骨折。77年からは9年間で8回の20本塁打を打っていた田代が同年は13本塁打に終わった。すると翌87年は5本、88年は6月16日広島戦で放った満塁弾の1本、89年はついに0本に終わり、確実と思われていた300本塁打が夢のまた夢になってしまった。

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引退も考えた田代だったが90年には4月11日の広島戦で満塁走者一掃の逆転ツーベースを放つなど代打の切り札として復活、4月30日の阪神戦では4番に抜擢されて4年ぶりの2本塁打を含む4安打という大暴れを見せた。

最終打席
91年7月に10打数0安打で二軍に降格した田代はこの年限りでの引退を決めた。そして引退試合となった10月10日阪神戦の3回裏、満塁で打席に入った4番田代は0-1から葛西 稔のカーブを豪快に振りぬいてレフトスタンドに叩き込んだ。最終打席満塁ホームラン。田代は泣きながらダイヤモンドを回った。

1081三振
79年の開幕戦を含め1試合3本塁打を3度も記録する一方、1試合4三振を記録するなど、三振か本塁打の豪快なスイングで美しい放物線を描いてスタンドへ消えていった通算278本塁打とそれ以上に美しい通算1081三振を記録した。結局タイトルとは無縁だったが記憶に残る選手としてファンに愛された。ニックネームはオバQ。

監督代行
97年に横浜で二軍の打撃コーチに就任すると、多村、金城、村田、内川をはじめとする数多くの野手を育て上げた。一軍の打撃コーチなどを経て、07年に二軍監督に就任。09年にはベイスターズの大矢監督の休養に伴って一軍の監督代行に就任したが、ダントツの最下位のままシーズンを終えて翌年から二軍監督に復帰した。11年からは各球団を渡り歩いて名コーチとして評価を高めて、19年から横浜に復帰、大和がお立ち台で田代コーチのアドバイスのおかげという趣旨の発言を行った事から、大和がチャンスで打席に入るとTVカメラが田代コーチをアップで映す名物も生まれた。


初記録
初出場 76年4月4日中日戦
初安打 76年4月4日中:三沢から
初本塁打 76年7月27日広:池谷から
初打点 76年4月4日中:三沢から
初三振 76年4月4日中:鈴木孝から
記録達成日
1000安打 84年7月6日ヤ:高野から
250本塁打 85年8月16日巨:加藤から
1000三振 87年5月11日巨:鹿取から
1500試合出場 90年8月4日中日戦

その他の記録
1試合3本塁打3度 79年、80年2回
5試合連続本塁打 77年
1試合4三振 85年8月6日巨人戦
イースタン打点王 75年
月間MVP 77年4月、80年5月


76 77 78 79 80 81 82 83 84 85 86 87 88 89 90 91
三振王 3回
オールスター 1回


  打撃成績
チーム 試合 打数 得点 安打 二塁 三塁 本塁 塁打 打点 盗塁 盗刺 犠打 犠飛 四球 死球 三振 併殺 失策 打率
76 大洋 89 235 18 60 8 1 8 94 21 0 0 2 0 9 1 56 5 8 .255
77 大洋 130 484 79 146 25 3 35 282 88 2 4 0 6 52 7 118 13 17 .302
78 大洋 129 472 66 136 28 2 27 249 104 1 5 0 6 48 1 94 3 16 .288
79 大洋 124 357 41 84 12 2 19 157 54 0 4 1 1 30 2 86 14 12 .235
80 大洋 128 472 74 140 22 4 36 278 94 6 8 1 4 50 2 104 12 18 .297
81 大洋 130 489 62 131 19 1 30 242 81 8 5 0 7 42 2 90 15 15 .268
82 大洋 124 469 66 119 21 2 27 225 83 1 1 1 4 49 2 102 10 14 .254
83 大洋 119 442 60 111 23 2 28 222 91 2 0 1 5 35 3 88 10 16 .251
84 大洋 130 479 56 125 14 2 21 206 71 4 2 1 6 54 3 95 21 18 .261
85 大洋 110 366 44 95 14 1 24 183 68 0 1 0 2 34 1 94 9 7 .260
86 大洋 67 200 22 48 9 0 13 96 40 0 2 0 4 17 1 52 5 6 .240
87 大洋 82 229 19 56 13 1 5 86 28 4 2 1 0 13 0 46 6 10 .245
88 大洋 46 91 5 27 4 0 1 34 16 0 0 0 1 5 0 17 5 1 .297
89 大洋 55 106 7 25 4 0 0 29 5 1 0 2 1 6 0 21 4 2 .236
90 大洋 51 58 5 17 4 0 3 30 19 0 0 0 3 13 0 16 2 0 .293
91 大洋 12 12 1 1 0 0 1 4 4 0 0 0 0 2 0 2 2 0 .083
通算 16年 1526 4961 625 1321 220 21 278 2417 867 29 34 10 50 459 25 1081 136 160 .266


  オールスター打撃成績
回数 試合 打数 得点 安打 二塁 三塁 本塁 塁打 打点 盗塁 盗刺 犠打 犠飛 四球 死球 三振 併殺 失策 打率
通算 1回 3 4 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 1 0 1 .000


  監督成績
チーム 順位 勝利 敗戦 分け 勝率 ゲーム差 本塁 被本 盗塁 打率 防御率 失策
09 横浜 6 38 69 0 .355 42.5 128 164 51 .239 4.36 99
通算 1年 38 69 0 .355 42.5 128 164 51 .239 4.36 99
「ゲーム差」から右は1年間のチーム成績