:インテリ家系:
ドイツからの移民だった祖父が初期のコンピュータープログラマー、父親のウォレンが化学工学の学位を持つというスポーツとは縁遠い家系に生まれる。幼いころから野球に夢中になり、7歳の時に初めてリトルリーグでマウンドに上がった。8歳の時に地元のバッティングセンターでドミニカ共和国出身のシリビオ投手コーチからレッスンを受けるようになった。シルビオコーチはドミニカ共和国流の重さの違うボールを使ったウェイテッドボールを使うなど、米国の伝統的なトレーニングとは一線を画す指導を行っていた。
:トレーニング:
体格的には恵まれてはいなかったが、10歳の時にメジャーリーガーの指導も行っているジェーガー投手コーチから指導を受けるなど貪欲にトレーニング方法を吸収して成長を続けた。高校では全ての練習の意味を知ろうと質問を繰り返すバウワーに対して、伝統的な練習方法を指示するコーチとで衝突したが、バウアーが12勝0敗という圧倒的な成績を残したため放任となった。また第1回WBCのアメリカ対日本を現地観戦、大学時代には日米野球で来日を果たした。
:物理学:
科学的なトレーニングを行うテキサス・ベースボール・ランチに通い、ピッチトンネルの練習のために父親のウォレンが金属製のフレームを自作するなど家族ぐるみで自身の信じるトレーニングを重ねた。高校時代には物理学にも興味を持ち、自身の投球に応用できないかと考え続けた。大学野球は圧倒的な結果を残す限りは放任すると約束したUCLAのブルーインズに入学した。
:シーズン奪三振記録:
憧れていたティム・リンスカムが大学時代に打ち立てた491奪三振という大記録を破ることを決意して、自宅の壁に491と書いた紙を張ってモチベーションを高めた。最終的には460奪三振で記録には届かなかったが、最終学年となった11年には136.2回で203奪三振という圧倒的な成績を残してリンスカムが記録したシーズン199奪三振を塗り替えた。同シーズンは13勝2敗、防御率1.25を記録してドラフト会議でダイヤモンドバックスから1位指名(全体3位)を受けて730万ドルで契約した。なおその後ももめることになるチームメイトのゲリット・コールとは大学時代から不仲でエースはコールでバウアーは2番手投手だった(ドラフト全体1位はコール)。
:MLB2戦目で問題発言:
スプリングトレーニングの初日から100球の投げ込みを行い、遠投を繰り返すなど、当時のメジャーの常識からは外れたスタイルをメジャーでも貫き、2年目の12年にはAAAで好投を続けて6月28日のブレーブス戦で早くもメジャーデビュー、4回を投げて5安打3四球ながら2失点にまとめて勝利に貢献した。だが続くパドレス戦の試合後に記者達に向かって、ベテラン捕手モンテロの配球への疑問を話してしまうなどチームに溶け込むことはできず、12月11日にドラフト全体3位の指名から18か月後にトレードという異例の処置でインディアンズに移籍した。
:フォーム変更:
憧れていたリンスカムを参考にしたダイナミックな投球フォームだったが、リンスカムが20代後半に衰えを見せ始めたことで自身の未来を見て、体への負担の少ない投球フォームへの変更を決意した。翌13年はフォームが定まらず四球が増加し球速も落ちて、保守的な投手コーチともめるなど苦しいシーズンとなり、MLBでは4試合の登板のみに終わり、AAAでもまずまずの成績に留まった。
:転機:
やりたいことのイメージがありながら、それを実現するための解決策が見つからなかったが、13年オフに生体力学に基づいたトレーニングを行うしとるのトレーニング施設ドライブラインを訪ねて、担当者と話すうちに多くのアイデアやドリルを知り、その日は投げるつもりなかったが、興奮して街歩き用の姿のままマウンドに上がって飛躍のきっかけを掴んだ。理想の投球フォームに近づいた事もあって、球速が上がり、14年には5月20日にメジャー復帰、ストレートの平均球速156キロが記録するなど、26試合に先発して5勝8敗、防御率4.18を記録した。
:二けた勝利とドローン:
15年には先発ローテを外れることなくシーズンを投げ抜いて31試合の登板で11勝12敗、防御率4.55を記録して初の二けた勝利を達成した。翌16年も12勝8敗、防御率4.26を記録してチームのプレーオフ進出に貢献したが、プレーオフ期間中に趣味のドローンを充電しようとプラグに差し込んだ際に、ドローンのプロペラが回り始めて右手の小指を負傷、アメリカンリーグチャンピオンシップ第3戦で先発を任されたが数球を投じたところで指から出血し降板、大きな非難を受けた。なおドローンはパーツの設計図を書いて3Dプリンターで自作するなどかなり本格的な趣味としている。
:リスト:
17年の2月にツイッターで政治的な内容を含む発言をチームメイトも巻き込む形で連投して炎上、球団から注意を受けてチームメイトとの良い関係を築くことを求められたが、バウアーは「チームメイトとの良い関係の定義」を球団に求めて、良い関係リストを提出させた。同リストには「人を怒らせるようなことをするな」という項目が太字のイタリックに矢印付きで記載された。
:後半戦:
17年は5月まで防御率が6点台という不振に陥った。スライダーが左下に沈むカーブのような軌道を描くことに不満を感じてシーズン中ではあったがスライダーの使い手たちの動画を分析しながら握りやリリースを模索、試合で試投しながら調整を繰り返し、横方向のみに大きくスライドするイメージ通りのスライダーを習得した。カーブも有効に使って7月下旬からは10勝1敗という圧倒的な成績を残して防御率4.19ながら17勝9敗を記録した。
:変化:
空気抵抗に興味を持った際には米航空宇宙局(NASA)を尋ね、試合日のダグアウトでは画像編集や調べ物をして過ごす生来のオタク気質のバウアーは体育会系のチームメイトと話すことがなかったが、17年からは意識してチームメイトと話すようになり、自分らしくないと感じながらも悩んでいる投手にはアドバイスを送るなどコミニケーションを取ることを学んだ。
:サイヤング受賞を逃す:
スライダーのレベルアップを目指してドライブラインで修正を重ねて迎えた18年は白星こそ伸び悩んだが防御率2点台の安定感のあるピッチングを続けた。前半戦を防御率2位、WAR1位で終えてオールスターにも選出された。8月上旬までWARでリーグトップに立ち、首脳陣に中3日の登板を直訴するなど目標のサイヤング賞受賞を目指したが、8月11日のホワイトソックス戦でピッチャーライナーを右くるぶしに受けて骨折、シーズン最終盤に復帰したがサイヤング賞受賞は惜しくも逃した。175.1回を投げて12勝6敗、リーグ2位の防御率2.21。
:トレード:
19年は4月に月間4勝を記録したが5月以降は成績を落として、7月28日のロイヤルズ戦では5回途中8失点と炎上、監督が交代を告げるためにダグアウトを出ると、バウアーは持っていたボールをバックスクリーンに向かって大遠投してからマウンドを降りた。自分のピッチングへの怒りだったとしたが3日後にレッズへトレードされた。(トレード自体はすでにほぼ決定していた)。移籍後も成績は上げられず11勝13敗、防御率4.48でシーズンを終えたが、初の200投球回となる213.0回を記録してWHIPも1.25というまずますの数字も残した。
:騒動の中心:
18年にコールが所属するアストロズに対して投球を有利にする不正物質である粘着物スパイダータックをチームぐるみで使用している事を示唆する研究結果を発表して物議を醸し出し、のちにアストロズのサイン盗みが発覚すると先頭に立ってアストロズを非難した。また粘着物質に関するルールを作らないMLBに業を煮やしていたが、翌19年からバウアーのボールの回転数が大きく上昇したためバウアーも使用するようになったとの疑惑が話題になった。なおアストロズに所属していたコールは1年前から回転数が大きく上昇していた。また19年の1月にはツイッター上で女子大学生と2日間にわたって論争を行い賛否を集めた(のちにバウアーが謝罪)
:来日
19年にチームがプレーオフ進出を逃すと来日して交流のあった菊池雄星から手配してもらったチケットで西武対ソフトバンクのCSファイナルを観戦するとともに菊池の母校・花巻東を尋ねる計画を立てたが、台風の影響で延期となった。だが来日の思いを捨てきれず11月末に来日、エコノミークラスで日本の到着したバウアーはNHKの取材や、シンポジウムに飛び入り参加など精力的に動き回り、ベイスターズからの誘いも受けて2軍施設DOCKに訪問し、今永をはじめとするベイスターズの選手と交流を持った。バウアーは「できれば引退する前じゃないどこかの時点で日本でプレーしたい」と語った。
:サイヤング賞:
コロナウイルスの影響で開幕延期となり60試合の短縮シーズンとなった20年は初登板となった7月26日のタイガース戦で6.1回2安打1四球という好投を見せると、続くタイガース戦はWヘッダーのため7イニング制で開催された事もあって2安打2四球で完封勝利を達成、次戦も勝利すると、続くロイヤルズ戦でもダブルヘッダーの7イニングを投げ抜いて1安打3四球で完封を記録した。その後も好投を続けて11試合の登板で5勝4敗ながら防御率1.73、WHIP0.79を記録、サイヤング投票では2位ダルビッシュの123ポイントに大差をつける201ポイントを集めて悲願のタイトルを受賞した。
:マイウェイ:
肩やひじを痛めることが少なく、15年から5年連続で175イニング以上を投げ、二桁処理も5年連続で記録。身体的な能力はメジャーリーガーとしては一流とは言えず、腕の振りなども早くないが、そのため体にかかる負荷が低く、体にかかる負荷をデータ化して分析することで、オフの練習ではメジャーリーガーとしては異例の球数を投げて、新球の習得や投球フォームの調整を行うことを可能にした。21年にドジャースと3年1億200万ドル(107億円)という大型契約を結んだ。
:性的暴行で退団:
21年はシーズン折り返しとなる6月までに8勝5敗、防御率2.59という好成績を残していたが、性的暴行で告発されて7月2日から出場停止となった。翌年に証拠不十分で不起訴となったが、新たに2件の性的暴行で告発された事もあって22年4月にMLBから324試合の出場停止処分(のちに194試合に軽減)を受けた。翌22年はフルシーズン出場停止期間となり、23年はプレー可能だったがドジャースとの契約期間を1年間残しながら戦力外となった。同年の40億円近い年俸はドジャースが負担する形での退団となった。
:横浜入団:
23年3月14日に年俸わずか4億円で横浜入団という大きなニュースが発表された。3月23日に来日すると個人ファンクラブや、日本語YouTubeを開設、入団会見では来日前にNPB球の特徴を探るためにボールを切断して解析していた事を明かし、SNSで突然サイン会を予告して数百人にサインするなど大きな話題を集めた。なお背番号96は平均球速の目標とした96マイルから。日本球界初登板となった4月16日の2軍戦では民放全局にNHKが取材に駆けつけるなど報道陣でごった返した横須賀スタジアムで155キロを投じて4回6奪三振を記録した。
:初登板:
ゴールデンウィークの5月3日広島戦で初登板、2回表に元同僚のデビットソンに先制ソロを浴びたが、尻上がりに状態を上げると、5回裏の打席では藤田から直伝された送りバントも成功させて球団史上最多動員となった超満員の観衆から大歓声が上がった。7回表には二死二、三塁のピンチを背負ったが代打松山を空振り三振に切って取って雄たけびを上げるなどらしさ全開の初登板で7回を7安打1四球で1失点に抑えた。9奪三振も記録して初登板初勝利を記録、お立ち台では日本語で「ヨコハマしか勝たん!」と答えて地鳴りのような歓声を浴びた。
:適応:
続く5月9日の巨人戦で6回7失点でKOされると、16日の広島戦では2回7失点と滅多打ちに合って二軍調整となった。メジャー時代は高めのストレートを投球の軸にしていたが、山本由などの日本トップクラスの投手の配球パターンなどを研究して打者のアプローチがメジャーとは異なる日本では低めの方が効果的と判断して投球スタイルを変更、クイックモーションも習得するなど課題と向き合いながら一つ一つ修正して復帰戦となった5月27日の中日戦では細川に2本塁打を浴びたが6回2失点と復調、159キロも計測するなど2年近いブランクからの復活を印象付けた。
:バウアーワールド:
6月3日の西武戦では8回を3安打に抑えて10奪三振、SNSでは「バウアー」が世界トレンド1位になった。続く9日のオリックス戦で7回2失点でお立ち台に上がると、翌日には道頓堀を散策してメロンパンの行列に並び、さらにその翌日にはスタジアムグルメを手に大阪ドームのスタンドで観客に混じってオリックス戦を観戦、続く日本ハム戦にはかねて希望していた中4日で先発して9回を3安打1四球で12奪三振も奪って1失点完投、お立ち台では「ヨコハマサイコ〜チョ〜」と声を張り上げるなど先発投手にもかかわらず連日の話題を作った。
:優勝するチーム:
勝てば単独首位に立つ6月25日の阪神との首位攻防戦では熱投に加えて送りバントも決めて勝利に貢献、優勝した98年以来25年ぶりの貯金12となり、自身も月間MVPを満票で受賞した。だが続く7月1日の中日戦で6回表のピンチで味方野手がランダウンプレーでミスを連発してオールセーフになると放送禁止用語を連発して激怒し、続く打者をピッチャーゴロに抑えるとベースカバーにトスせず全力疾走で一塁ベースを踏み、再び放送禁止用語を絶叫、ベンチ裏でも怒りは収まらず試合後には自身を含めて「優勝するチームの野球ができていなかった」とコメントして賛否を集めた。
:128球:
激怒事件から中4日で迎えた7月6日のヤクルト戦ではバウアーコールが響く中で9回のマウンドに上がってメジャー時代の通じて自己最多となる128球で2失点完投、お立ち台では「何が何でも勝ちたい」と答えて勝利への執念を表現した。だが続く12日の阪神との首位攻防戦では2点リードの8回裏に森下に同点ツーランを被弾、17日の広島戦では再三の拙守に足を引っ張られて7回2失点で敗戦と好投も報われずチームも優勝戦線から後退した。オールスターでは球種を予告しながら投球して滅多打ちにあった。
:10回完投:
7月27日の広島戦で7回1失点に抑えて勝利投手になると、続く8月3日の広島戦では猛暑の中で延長10回を無失点で投げ抜いて「負けたくないから降りたくない」とコメントした。続く中日戦で7回を零封すると、15日のヤクルト戦でも5回まで無失点に抑えて24回連続無失点を記録した。中4日で阪神戦に登板すると120球で8回を2失点に抑えてチームを鼓舞する姿も見せたが完封負けで敗れると、続く試合では大量点差があったが8回まで投げて2失点と孤軍奮闘を続けたが、30日の阪神戦の守備で股関節を痛めて日本球界に大きな衝撃を与えたシーズンを終えた。
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絶望的と思われた復帰を目指してリハビリを行い、CSファーストステージ第3戦での復帰が発表されたがチームが連敗したため登板機会は訪れなかった。調整を終えた6月以降に限れば三か月間で15試合に登板して109.2投球回、9勝2敗、防御率1.97、105奪三振を記録、唯一無二の威力を見せたナックルカーブにスライダー、カット、チェンジアップを組み合わせて圧倒的な成績を残した。シーズン中のオフには京都での忍者体験や秋葉原のポップカルチャーなどの日本文化を体験、東日本大震災で大きな傷跡の残る福島県や広島の原爆ドームも訪れて日本の歴史や今に心を寄せた。 |
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