山崎 賢一
2
|
名前 |
やまざき けんいち |
生年月日 |
1962年7月20日 |
経歴 |
所沢商−大洋(80年D外)−横浜−ダイエー |
入団年 |
80年にドラフト外で入団 |
在籍年 |
81年−93年 |
背番号 |
81年−84年[46]:85年−89年[59]:90年−93年[2] |
投打 |
左投げ左打ち |
守備 |
外野手 |
|
|
:野球始める:
5人兄弟の長男として生まれた賢一は小学校高学年から軟式野球をはじめ、家業の畳屋を継ぐために商業高校である所沢商に進学。強豪チームの所沢商では2年の春までは補欠だったが、子供時代に大リーグボール養成ギブスを買いに出かけた事があるというほどのトレーニング好きの山崎は徐々に力をつけ、所沢商の高鍋監督が気付いたときには大きく成長していたという。
:大洋入団:
所沢商では3年夏に県大会の準々決勝で敗れると、高鍋監督に連れられて大洋の入団テストを受けに横浜スタジアムに向かった。大洋の別当監督と知り合いだった高鍋監督が山崎にまだ力不足である事を痛感させて今後の野球人生に生かしてもらおうという目的だったが、打撃練習を見た別当監督が「これ大洋で獲るから」とプロのスカウトは訪れたこともない山崎の獲得を決めた。山崎は西武の入団テストも受けたがこちらは不合格になって同年のオフにドラフト外で大洋に入団した。
:組長>番長:
高校時代のあだ名は組長だったが、沖山打撃コーチに「社会に出ればランクがさがるだろう」と言われ、番長を襲名した。また当時の山崎は沖山コーチが「守備も上手くなかったし、足もあまり早くなかった」というように、いかにもドラフト外の選手であった。
:こけしバット:
入団して3年間は二軍でも代打での出番がほとんどでチャンスを貰えなかった。山崎はアピールしようと長打を狙っていたが、84年の夏に基打撃コーチが山崎をたしなめ、「外野の頭を超えるような打球は打つな」と単打主義に徹底させるためにタイ・カップ型のバットを山崎に使わせた。すると成績が上向くようになり、その後幾度かのモデルチェンジを経て、翌年の開幕直前にグリップエンドが極端に大きい「こけしバット」が完成した。
:こけしバット2:
山崎はこの時のことを「このままじゃ一軍はおろか、ファームのレギュラーもおぼつかない。そんな追い詰められた状態だったからこそ、『自分にはこのやり方しかない』って基さんの教えることを100%信じることが出来たと思うよ。へんなプライドに邪魔されることもなかったからね」と語っている。
:自信:
84年の秋のキャンプでは左肩を痛めていた事もあって毎日ひたすらベースランニングと特守に精を出した。「痛めているのは肩だけだったからね。だったらこの際、苦手な走塁や守備を徹底的に練習しようと考えた」、自主トレに入ってからも走り続けた山崎は、翌年の合同自主トレで球界でトップクラスの快速を誇った屋鋪と同じ組でダッシュ練習に挑んだ。並ぶことは出来なかったが、他の選手が引き離される中で追走することが出来た。「これがものすごい自信になった。プロに入って始めて掴んだと言ってもいいぐらいの自信だね」
:背番号59:
ようやく二軍で結果を残し始めた山崎だったが、85年からは背番号59に変更させられた。「もう本当に後がないなって思ったね。選手枠(60人)一歩手前の数なわけだし」、だが走攻守の全てで生まれ変わった山崎はイースタンリーグの開幕戦で1番センターの座を勝ち取ると、そこから6試合で26打数10安打を記録した。すると平塚球場の練習前ミーティングで江尻監督に「山崎、前に出ろ」と言われ、恐る恐る足を踏み出すと「明日から一軍だ。しっかり頑張れよ!」
:初出場:
85年4月24日広島戦で負傷退場した屋鋪に代わって守備に入り、ついに一軍初出場を果たしたが、7回裏の初打席ではセカンドゴロに倒れるなど、約10日間で再び二軍に降格。だが山崎はイースタンリーグで盗塁王に輝く22盗塁を記録して8月29日に一軍に復帰すると、9月12日の阪神戦で中西から初ヒットとなる内野安打を放ち、10月16日中日戦で郭から初本塁打と結果を残した。
:サヨナラのお膳立て:
86年は開幕一軍を勝ち取り、開幕二戦目の4月5日阪神戦では2対2で迎えた7回裏に代打で出場すると、そのままレフトの守備につき、岡田のフェンス際の大飛球をダイビングキャッチ、「フェンスのことは全然頭になかった」という山崎はそのままフェンスに激突したが、ボールをこぼすことはなくピンチを切り抜ける。さらに9回裏の打席では激突の影響でフラフラの頭で中西からライト線へツーベースを放ってチャンスを作ると、続く河野のヒットで三塁に進み、平田の内野ゴロの間にサヨナラのホームを踏んでお立ち台に上がった。同年は155打数38安打(打率245)を記録した。
:スタメン掴むも:
88年は開幕ベンチ入りを逃したが4月23日に一軍へ昇格すると、5月19日の阪神戦で2対5で迎えた7回裏に岡部から逆転グランドスラムを放って強烈な印象を残した。その後もスタメンで打ちまくって5番を任されるまでになったが、6月14日の広島戦で死球を受け長期離脱となり、打率.297を記録しながら71試合出場に留まった。
:暗黒時代の中で:
89年は開幕からどん底に沈んだ大洋で孤軍奮闘。6月には月間打率.446(74打数33安打)を記録するなど前半戦で3割5分を越える打率を残し首位打者争いに絡む活躍を見せた。6月までは3番か5番を打っていたが、7月8日の巨人戦で4番に起用された。山崎は「ポンセやパチョレックが調子を取り戻すまでの2、3試合」という気持ちだったらしいが、そのまま4番に定着、太いバットを短く持って、野手の間に打球を落とし、塁に出れば盗塁を決め、時にはバントまでするという、貧打に泣いた同年の大洋を象徴するような4番バッターだった。
:ベストナイン:
初出場を果たしたオールスターゲームでは第二戦の8回表に勝ち越しタイムリーを放ち優秀選手に輝いた。だが慣れない晴れ舞台でフルスイングを続けた事で打撃のバランスを崩し、後半戦は打率が急降下した。それでも129試合に出場し打率.309、7本塁打、56打点、17盗塁と素晴らしい成績を残し、首位から36.5ゲームでダントツの最下位に沈んだチームから、ただ一人ベストナインとゴールデングラブに選出された。
::
90年は打撃フォームが固まらず6月上旬には打率が2割台前半にまで落ち込んだが、夏場に入ると状態を上げて2年連続でオールスターゲームに出場した。だが後半戦は再び状態を落として打率.259に留まった。2年連続のゴールデングラブを受賞。
:連盟提訴:
90年6月17日の広島戦でショートへの内野安打を放つと、送球がそれてボールがフェンスまで転がった。これを見た山崎が二塁に向かおうと振り返った瞬間、ボールを追う正田と激突、山崎はその場に倒れ脳震盪を起こした。走塁妨害で二塁への進塁が認められると思われたが平光主審は「一塁どまり」の判定を下した。これに怒った須藤監督は延々20分に渡って抗議した。堪りかねた平光主審は「連盟提訴にしたらどうですか?」と持ちかけた。須藤は「提訴?それはどうやってやるんだ。どういう効果があるんだ」と質問し、説明を受けてようやく引き下がった。
:退団:
91年はキャンプイン直後に腰痛を発症して離脱、一時は支配下登録からも外れて治療に専念した事もあってわずか54試合出場に留まった。以降は打撃成績が低迷し、93年オフに駒田獲得に伴う大量解雇事件で退団。その後ダイエーに移籍し、96年引退。 |
|
初記録 |
初出場 |
85年4月24日広島戦 |
初安打 |
85年9月12日阪神戦:中西から |
初本塁打 |
85年10月16日中日戦:郭から |
初打点 |
|
初盗塁 |
|
|
|
|
|
|
85 |
86 |
87 |
88 |
89 |
90 |
91 |
92 |
93 |
94 |
95 |
|
ベストナイン |
|
|
|
|
● |
|
|
|
|
|
|
1回 |
ゴールデングラブ |
|
|
|
|
● |
● |
|
|
|
|
|
2回 |
オールスター |
|
|
|
|
● |
● |
|
|
|
|
|
2回 |
|
打撃成績
|
チーム |
試合 |
打数 |
得点 |
安打 |
二塁 |
三塁 |
本塁 |
塁打 |
打点 |
盗塁 |
盗刺 |
犠打 |
犠飛 |
四球 |
死球 |
三振 |
併殺 |
失策 |
打率 |
|
85 |
大洋 |
32 |
51 |
11 |
13 |
3 |
0 |
1 |
19 |
3 |
3 |
0 |
1 |
0 |
6 |
0 |
11 |
0 |
0 |
.255 |
86 |
大洋 |
97 |
155 |
20 |
38 |
7 |
1 |
0 |
47 |
6 |
4 |
2 |
4 |
0 |
9 |
2 |
23 |
3 |
1 |
.245 |
87 |
大洋 |
42 |
46 |
5 |
8 |
2 |
0 |
2 |
16 |
6 |
0 |
0 |
1 |
0 |
0 |
1 |
11 |
0 |
0 |
.174 |
88 |
大洋 |
71 |
222 |
35 |
66 |
12 |
2 |
2 |
88 |
28 |
8 |
1 |
4 |
5 |
14 |
2 |
36 |
1 |
0 |
.297 |
89 |
大洋 |
129 |
476 |
64 |
147 |
24 |
5 |
7 |
202 |
56 |
17 |
7 |
9 |
7 |
38 |
4 |
59 |
6 |
0 |
.309 |
90 |
大洋 |
109 |
421 |
56 |
109 |
13 |
5 |
4 |
144 |
34 |
18 |
12 |
6 |
1 |
32 |
3 |
47 |
6 |
3 |
.259 |
91 |
大洋 |
54 |
125 |
14 |
34 |
7 |
0 |
1 |
44 |
15 |
2 |
3 |
0 |
1 |
16 |
0 |
16 |
3 |
0 |
.272 |
92 |
大洋 |
62 |
163 |
23 |
42 |
9 |
1 |
1 |
56 |
19 |
9 |
1 |
4 |
3 |
17 |
1 |
27 |
2 |
0 |
.258 |
93 |
横浜 |
60 |
135 |
14 |
25 |
2 |
0 |
0 |
27 |
11 |
0 |
1 |
2 |
1 |
14 |
2 |
25 |
0 |
1 |
.185 |
94 |
ダイエー |
87 |
141 |
15 |
36 |
8 |
1 |
0 |
46 |
12 |
2 |
3 |
3 |
0 |
17 |
0 |
29 |
3 |
1 |
.255 |
95 |
ダイエー |
80 |
123 |
11 |
28 |
8 |
0 |
1 |
39 |
12 |
0 |
3 |
2 |
2 |
6 |
1 |
25 |
3 |
1 |
.228 |
|
球団 |
9年 |
656 |
1794 |
242 |
482 |
79 |
14 |
18 |
643 |
178 |
61 |
27 |
31 |
18 |
146 |
15 |
255 |
21 |
5 |
.269 |
|
通算 |
11年 |
823 |
2058 |
268 |
546 |
95 |
15 |
19 |
728 |
202 |
63 |
33 |
36 |
20 |
169 |
16 |
309 |
27 |
7 |
.265 |
|
|
オールスター打撃成績
|
回数 |
試合 |
打数 |
得点 |
安打 |
二塁 |
三塁 |
本塁 |
塁打 |
打点 |
盗塁 |
盗刺 |
犠打 |
犠飛 |
四球 |
死球 |
三振 |
併殺 |
失策 |
打率 |
|
通算 |
2回 |
4 |
8 |
1 |
4 |
1 |
0 |
0 |
5 |
3 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
1 |
0 |
0 |
.500 |
|
|
|