:父親が神奈川でプレー:
父親のルルデス・グリエルはキューバの英雄リナレス、キンデランと共に10年以上に渡ってキューバ代表として活躍し、バルセロナ・オリンピックの金メダリストという輝かしい実績を残した名プレーヤー。ルルデスはメジャーリーグへの憧れを持ち、実際にメジャー複数球団から契約の打診があったが亡命で家族と祖国を捨てる事は出来ずキューバに留まることを選択した。代表引退後の96年には交流の一環で来日し、社会人野球の阿部企業でプレー。98年には神奈川県藤沢市のいすゞ自動車で都市対抗に出場。4番を任されて1本塁打を含む13打数5安打4打点を記録してチームをベスト8に導いた。
:兄弟でプレー:
3人兄弟の次男として生まれたユリエスキは2歳年上の兄ユニエスキが野球を始めたことに影響を受けて5歳の時に野球を始めた。父ルルデスが監督を勤めるサンクティ・スプリトゥスに入団。同チームには兄のユニエスキ・グリエルもプレーしていた。
:MVP:
17歳で迎えたルーキーイヤーに打率.300、7本塁打、50打点という素晴らしい成績を残すと、4年目の04-05年シーズンには打率.341、23本塁打、86打点を記録してMVPに選出されるなどキューバを代表する選手になった。05-06年シーズンには27本塁打に当時の新記録である92打点を記録して二冠王に輝き、2季連続のMVPに選出された。また21盗塁も記録して史上初の20本塁打20盗塁を達成するなど走攻守に優れたオールラウンドプレイヤーとして国外にも名を馳せるようになった。
:第1回WBC:
06年に行われた第1回WBCでは第2ラウンドのドミニカ戦で横浜で同僚となるソーサからソロホームランを放つなど活躍。準決勝のドミニカ戦では6回裏の守備でベルトレイのセカンドゴロを弾いた上に悪送球を投じるタイムリーエラーで先取点をプレゼントしてしまったが、その直後の7回表にはサードのベルトレイを強襲する内野安打を放って逆転のきっかけを作った。日本との決勝戦では8回裏に渡辺 俊介から内野安打を放ったが、9回裏に二死一塁という場面で打席に立つと、大塚のスライダーに空振り三振に抑え込まれて最後の打者になってしまった。WBC初代ベストナイン(二塁手)。
:金メダルを逃す:
08年に行われた北京五輪では不振に苦しんで6番に降格。韓国との決勝戦では2対3と1点のリードを許したまま迎えた9回裏に一死満塁で打席に入ったが併殺打に倒れて試合終了と散々な結果に終わった(9試合に出場して打率.229、0本塁打、1打点)。08-09年シーズンにはタイトルこそ逃したが打率.399、22本塁打、90打点という素晴らしい成績を記録した。
:第2回WBC:
09年に行われた第2回WBCでは第1ラウンドの南アフリカ戦とメキシコ戦でホームランを放つなど第2ラウンド進出に貢献したが、第2ラウンドでは初戦の日本戦で松坂、ゲーム5の日本戦で岩隈と日本を代表するエースを打ち崩せず2試合とも完封負けとなり第2ラウンドで姿を消す事になった。同年の09-10年シーズンには105打点を記録して打点王に輝き、自身初の30本塁打も記録したがデスパイネが31本塁打を放ったため本塁打王は逃した。
:第3回WBC:
13年のWBCでは第1ラウンドの日本戦でキューバは6対3と快勝したがグリエルは4打数0安打と結果が残せず7番に降格。決勝ラウンド進出をかけたオランダ戦では2番に復帰すると4回表にツーベース、5回表にもツーベースを放ったが、7回表の無死一、二塁では送りバントを失敗、6対6の同点で迎えた9回表にはレフト前ヒットで出塁するとすかさず二盗を成功させたが送球が逸れたにもかかわらず二塁にストップしてしまうと、続くフェルナンデスのレフト前ヒットでもホームを狙わない消極的な走塁を見せてメサ監督を激怒させてしまう。これがプレッシャーになったのかその直後の9回裏には先頭のA・ジョーンズが放ったサードゴロをグリエルが弾いて出塁させてしまうと、そこからピンチが広がって格下のオランダにサヨナラ負けとなり予選敗退となってしまった。
:横浜移籍:
11-12年シーズンからはミズノの低反発球の影響もあって見かけ上の数字は大幅に落としたが、13-14年シーズンには16本塁打、69打点で二冠王に輝いた。14年の5月11日に横浜DeNAが獲得という大ニュースが流れて5月13日に契約を結んだ。契約に至った経緯は前年の12月に横浜DeNAの池田社長と国際関係の担当者がアメリカで行われるウインターミーティングに出席する前に国外への選手移籍解禁を表明したキューバに立ち寄り、キューバ野球の関係者と接触。希望する選手のリストを求められた時に「ナンバーワンの選手」と伝えた所、グリエルの名前が上がり、「キューバの至宝」とまで言われる英雄の来日が叶った。
:キューバ料理:
ビザの関係で来日は5月31日と遅れたが、6月2日にランドマークタワーの最上階で行われた入団会見にはキューバ共和国大使館から参事官が同席し、球団側もWBCで来日した際に食事が口に合わず2週間で5キロも体重が減少したグリエルのために管理栄養士がキューバ料理店に足を運んでキューバ料理を習得するなどVIP待遇でグリエルを出迎えた。入団会見の翌日に行われたイースタン・リーグの西武戦に出場すると第2打席にバックスクリーンに飛び込むソロを叩き込んで観戦した中畑監督を喜ばせた。
:衝撃のデビュー:
デビュー戦として予定されていた日本ハム戦は2戦連続で雨天中止となったが、仕切り直しのデビュー戦となった6月8日の楽天戦では初回に楽天の藤田が叩き付けたサードゴロでグリエルが凄まじい強肩を見せてハマスタをどよめかせると、3回裏にはレフト前ヒットで出塁してブランコのツーベースで一気にホームイン、5回表には森山の平凡なサードゴロで再び強烈な強肩を披露、その裏にはレフト線へツーベース、7回裏にセンター前と走攻守で圧倒的な存在感を見せていきなりデビュー戦でお立ち台に上がった(球団の外国人選手では98年のマラベ以来16年ぶり6人目となるデビュー戦猛打賞)。
:離脱:
6月は15試合の出場で打率.327、4本塁打、11打点という噂にたがわぬ存在感を見せると、7月上旬に沖縄で行われた巨人戦は台風接近に伴う揺れが予想されるため飛行機移動を拒否して欠場となったが、続くヤクルト3連戦では来日した両親とフィアンセが見守る中で15打数7安打(2本塁打)という素晴らしい結果を残した。チームもグリエルの活躍に引っ張られて5連勝を記録したが、当日移動で試合時間5時間39分という熱戦となった7月14日の広島戦にフル出場すると、翌日の第2戦は左脇腹に違和感を感じて途中交代、様子を見て出場した第3戦の第2打席で左脇腹を痛めて長期欠場となった。同試合が前半戦のラストゲームだっただけに悔やまれる故障となった。
:連続無得点を止める:
復帰戦となった8月26日の中日戦でいきなり先制ソロを放つと、8月30日の巨人戦では初回に先制タイムリー、6回裏に内野安打、逆転を許した直後の8回裏には起死回生の同点ソロ、延長10回裏には桑原のサヨナラヒットに繋がる内野安打と4安打の固め打ち。2試合連続の完封負けで迎えた9月14日の巨人戦では0対0の同点で迎えた9回表に決勝ソロを放って連続無得点を30イニングで食い止めるなど活躍を続けて、ここまでは177打数で打率.339、10本塁打、25打点という申し分のない成績を残していたが、翌日から62打数13安打と大失速した事もあり印象度に比べると成績は落ち着いた数字となってしまった。なお過去にプロ野球球団に所属していなかったため新人王の有資格者となり投票で1票が投じられた。
:横浜残留:
オフに入ると巨人との激しい争奪戦が演じられたが、キューバ側からの条件である「プレーオフも含めると4月中旬まで続く可能性があるキューバリーグが終了してからチーム合流」、「7月にはキューバの代表戦のため一月チームを離れる」を巨人が拒否した事と、横浜が総額5億円とも言われる破格の条件提示を行った事もあって2月2日に横浜残留が発表された。
:早期来日が一転:
その後にグリエルがキューバで所属するインダストリアレスがリーグ5位となり3月下旬のチーム合流が可能になり横浜ファンを喜ばせた。だがグリエルがキューバリーグで痛めた右太ももが完治してから来日したいと要望を出した事で状況が一変。球団側は来日してからのリハビリを勧め、キューバ政府を通じて診断書の提出も求めたが回答は得られず、3月26日に予約されていた飛行機に乗らなかったばかりかビザの申請もしていなかったため現地に飛んだ球団スタッフがグリエルの自宅を訪れて最終的な交渉を行ったが、グリエルの「ケガが完治したら」という意思は変わらず、お互いに年俸も違約金も払わない形での契約解除となってしまった。
:亡命:
5月12日にESPNが報じたグリエルのインタビューによれば、3月24日に来日する契約内容についてグリエルは把握しておらず、キューバ野球連盟がグリエルに無断で結んだ契約であり、4月16日の合流を希望したが契約した金額の4割の違約金と3月24日から4月16日までの給与が引かれる事を伝えられたため交渉打ち切りとなったと主張した。また一部で噂されたMLB球団との密約説については否定したが、翌16年の2月に行われたカリビアンシリーズで準決勝敗退後に弟のルルデスとともに亡命した。
:MLBと契約:
7月15日にアストロズと5年4750万ドル(約50億円)で契約、MLBデビュー戦となった8月21日のオリオールズ戦でセンター前ヒットを放って初打席初安打を記録すると、9月4日のレンジャース戦でダルビッシュからタイムリー、7日のインディアンズ戦では初本塁打、翌日にも本塁打を放って流石というところを見せたが、9月25日に4併殺を記録するなどラスト12試合で大幅に数字を落として打率.262で3本塁打という平凡な成績に終わった。なお古巣横浜が初のCS進出を決めるとSNSで祝福のメッセージを送った。また横浜時代には台風接近で搭乗拒否するほど飛行機嫌いだったが、メジャーでは飛行機移動が避けられないため睡眠導入剤で何とか乗り越えた。
:強力打線の中軸に:
17年は開幕から主に7番を任されたが開幕から好調をキープして5月15日のマーリンズ戦では田澤から逆転満塁ホームランを放つと、7月1日からの3試合では13打数9安打で10打点と一気に数字を伸ばして信頼を高めた。球宴明けからは4番でも起用されるなど同年に101勝を記録したアストロズの中軸としてチームを引っ張った。打率.299で本塁打は18本に留まったが二塁打はMLB7位の43本を記録した。
:ダルビッシュから先制弾も:
ポストシーズンでもリーグチャンピオンシップ第4戦で満塁走者一掃の先制タイムリーを放つなど活躍を続けていたが、ワールドシリーズ第3戦でダルビッシュから先制弾を放ってベンチに戻った後でアジア人に対する差別行為と知られていた両目じりを引っ張る動作を見せたことが大きな問題となり翌年の開幕から5試合の出場停止処分を受けた。なおグリエルはアジア人を軽視するジェスチャーである事を認識していなかったのか試合後のインタビューでは的外れなコメントを残したが、ダルビッシュとの再戦となった第7戦では打席に入った際にヘルメットを脱いで謝罪するジェスチャーを見せた。なお大きなプレッシャーのかかる中でも歴史に残る大熱戦となったWS第5戦でカーショウから同点スリーランを放つなどメンタルの強さを見せて世界一に大きく貢献した。
:兄弟:
18年は2月28日に左手の有鉤骨の手術を受けて出遅れたが4月13日のレンジャース戦で復帰すると翌日にはホームランを含む2安打を記録、6月には月間打率.300で21打点を記録するなど好調のチームをけん引した、9月21日には満塁本塁打を含む2本塁打を放って7打点を記録、同日には弟も2本塁打を放っていたためメジャー史上初の兄弟同日マルチ本塁打となった。快挙を知らされたグリエルは「弟にとっても僕にとってもうれしいことだ。弟が打つ度にチームメートから『また打ったぞ。おまえも打たなきゃ』と言われた。打てて良かった」と喜んだ。9月には打率.356で21打点と数字を積み上げて、打率.291、13本塁打に加えて前年を上回る85打点を記録した。
:5試合連発:
19年は6月28日のシアトル戦でサヨナラホームランを放つと、翌日にもサヨナラツーベースを放った事をきっかけに大ブレイク、続く試合で2本塁打を放つとそこから5試合連続ホームランという離れ業を見せた。7月に打率..408、12本塁打、31打点で月間MVPに選出されると、8月に入っても勢いは止まらず7日のロッキーズ戦でスリーランと満塁一掃のツーベースなどでゲーム8打点のチームタイ記録を樹立、10日のオリオールズ戦で4安打、14日のホワイトソックス戦で2本塁打を含む3安打と打ちまくってキャリアハイを大幅に更新する打率.298、31本塁打、104打点を記録。プレーオフではチャンピオンシップで絶不調もワールドシリーズ決定の第6戦で先制スリーランを放つと、ワールドシリーズでも最終戦で先制ソロを放つなど活躍したが3勝4敗で敗れて世界一はならなかった。
:サイン盗み:
19年のワールドシリーズ後に2年前にアストロズがサイン盗みを行っていたという疑惑が大きく報じられて主力選手だったグリエルにも批判が集まった。グリエルを擁護するならアストロズはグリエルにとって初めてのメジャーリーグのチームであり、殿堂入り間違いなしだったスーパースターが「他球団もみんなやっている」と説得してチームぐるみで行われた行為であり、グリエルがメジャーの常識と認識した可能性も考えられるが、電子機器を使用したサイン盗みは明らかにラインを超えており、21年シーズンにはビジターゲームで打席に立つたびにブーイングを受けることになった。
:終盤に急降下:
コロナウイルスの影響で60試合の短縮シーズンとなった20年は中盤まではまずまずの成績を残していたがラスト20試合で打率.130(69打数9安打)、長打も1本という大不振に陥って打率.232、6本塁打という自己ワーストの成績に終わった。ポストシーズンでもシングルヒット5本のみで打率114と不振から脱却できなかった。
:4安打4打点:
21年は4月に3安打を記録するなど月間31安打を放ってOPS.999という抜群のスタートを見せると、5月7日には数字は落としたが弟のルルデスが所属するブルージェイズ戦で4安打4打点、19日のアスレチックス戦でも4安打4打点という固め打ち、6月には上旬に3度の3安打を放って首位打者争いをリードした。
:最終打席でサヨナラヒット:
前日まで5試合で12安打を記録するなど絶好調だった8月2日から首痛で欠場となったが、14日に復帰すると23日に3打数3安打で打率トップに再浮上、弟が満塁弾を含む2本塁打を放った9月12日にエンゼルス戦で4安打、16日のレンジャース戦ではイニング2安打、18日からは4試合連続複数安打とシーズンの最後まで好調をキープして大谷とMVPを争ったゲレーロJrらとの激しい首位打者争いを演じた。打率トップで迎えたシーズン最終戦はスタメンを外れたが首位打者が決定的になった9回表から守備に就くと、その裏の打席でサヨナラヒットを放ってタイトル獲得に花を添えた。
:首位打者&ゴールドグラブ:
アルトゥーベに続く球団2人目の首位打者となったグリエルは「重要な意味がある」と喜びを表した。出塁率もリーグ2位の.383で前年は最終候補にノミネートされながら逃したゴールドグラブも初受賞(37歳での初受賞は一塁手としては史上最年長)。ポストシーズンでは長年苦しんできたこともあってか当初は7番打者として起用されたが打率.311(61打数19安打)、10打点と好結果を残した。
:帰国ならず:
オフにはキューバーの移民法で入国禁止となる亡命から5年間を超えたためプライベートジェットで6年ぶり帰国の準備をしていたが、直前になってキューバから入国を認めないとの連絡があり帰国はならなかった。22年シーズンは開幕から打率2割前半という深刻な打撃不振が続き、7月13日のエンゼルス戦では直近50年間では球団トップとなる32回連続自責点0を続けていた大谷の記録をストップさせるタイムリーを放ったが、146試合の出場で打率.242と苦しんだ。ポストシーズンではヤンキースとのチャンピオンシップ初戦で勝ち越し弾を放ち、史上4位の48打席無三振も記録したがワールドシリーズ第5戦で足を痛めて離脱した。
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23年はマリーンズに移籍して108試合に出場したが打率.245と不振に苦しんだ。 |
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